2017/11/16
「重度認知症と勝手に判定され、財産権を奪われた」母娘の涙の訴え 成年後見制度の深い闇 第12回
長谷川 学 ジャーナリスト
想像してみてほしい。
あなたは、年齢を重ねて、高齢者と呼ばれるようになった。
最近、少し物忘れもあって、病院では軽度の認知症がみられると言われてしまった。
それでも、子供たちの一人と、のんびりと暮らしていた。
ところが、ある日突然、それまで会ったこともない弁護士が自宅にやってきた。そして、こう言うのだ。
「家庭裁判所の審判で、あなたに後見人がつくことになりました。私が家裁から選任された後見人です。もう、あなたにはご自分の財産を動かす権利はありません」
誰も、あなたの意見を聞かない。聞こうともしないし、意見を述べる機会もない。
理不尽だ。そう思われないだろうか。だが、いま現在、この国では、実際にこのような事態が各地で発生しているのである。
(※シリーズのこれまでの記事はこちらから)
「本人の意思を尊重し…」法律の文面が虚しい現実
次にあげる動画は、自分の意思を無視されたまま、成年後見人をつけられ、それまでの生活を壊されて涙する女性の訴えである(https://youtu.be/pdbaCp7m0ZA)。
この女性の身に何が起こったのかは、後段で詳述していくが、まずは次の文章を見てほしい。
<成年被後見人の意思を尊重し、かつ、その心身の状態及び生活の状況に配慮しなければならない>
これは成年後見人の在り方を定めた民法第858条の記述だ。
この記述にある通り、成年後見制度の根幹は、成年被後見人(後見を受ける人、たとえば認知症の高齢者)の「意思の尊重」にある。
制度の趣旨からすると、この「意思の尊重」は、当然のことながら、家庭裁判所の後見審判開始前から行われていなければならない。
どういうことかというと、そもそも「成年後見制度を使いたいかどうか」の意思も、本人に確認する必要があるということだ。
そして、その上で、本人の健康状態と生活の実態を調べて、本人の意思に沿う形で後見を行わねばならない。
だが現実は、必ずしもそうなっていない。
動画で涙ながらに窮状を訴えている、東京・目黒区在住の澤田晶子さん(86歳・仮名)に、2人の弁護士が後見人としてついたのは、2017年3月9日のことだった。
晶子さんに後見人がついた経緯を振り返ると、本人意思の尊重という成年後見制度の原則が完全に形骸化してしまっていることがよく分かる。
*降ってわいたような司法の判断
後見人がついた当時、晶子さんは、目黒区の一戸建てで三女と一緒に暮らしていた。
三女は、病身の父親と母親を自宅で介護するために仕事を辞め、2015年12月から同居を始めた。
三女が同居して介護することについては、両親と3人の娘が家族会議で話し合って決めたことだった。なお、三女は独身。姉2人は結婚して別世帯を構えている。
父親は大動脈瘤、母親には糖尿病の持病があり、さらに2人とも軽い認知症があった。このため世田谷区内の内科医が自宅に往診して2人を診察していた。
2016年12月、父親が大動脈瘤破裂で急死。母・晶子さんは、夫の死後も、自宅で三女の介護を受けて生活することを望んでいたが、長女と次女は以前から、両親とも施設に入ったほうが幸せだと主張していたという。
ここまでは、同居する母親と三女、別居している長女と次女という、家族間での意見の対立だった。だが、その後自体は急展開する。
2017年初め、長女は東京家庭裁判所に、後見開始の審判を申し立てた。そして同2月21日、家裁は母親の晶子さんに後見人をつける審判を出した(審判確定は3月9日)。
問題は、後見開始にあたって、長女も家裁も、母・晶子さん本人の意思を聞いた形跡が見当たらないことだ。
*涙の訴えのなかに見える問題点
私は、3月28日、後見人がついたことを知った日の母・晶子さんの様子を撮影した映像を見た。記事冒頭で示した動画がそれだ。撮影したのは三女の光代さん(50歳・仮名)。
夜、光代さんが2階から1階に降りていくと、「母がシクシク泣いていた」(光代さん)という。
映像では、母親の晶子さんが、後見人をつけられたことに、涙ながらに何度も不満を訴える様子が克明に記録されていた。そのやり取りを紹介しよう(全編は動画で確認できます。ここでは一部省略しながら要旨のみ記します)。
* * *
三女・光代さん「お母さんが一番、傷ついたと思うのはどんなこと?」
母・晶子さん「姉たちが、もっとまともなお姉さんらしい見かたで私たちの生活も見てくれると嬉しいなと思うけどさ……どうもそれが分からないみたいだから、悲しい」
三女・光代さん「姉たちは、私が(注・母と三女が暮らす家に)姉たちを来させないようにしているって言っているらしいよ」
母・晶子さん「家に来もしないで、何にもしないで……ただ一方的に……陰でそんなこと言ってもしょうがないじゃない。もっと明るくね、家に来てさ、ざっくばらんに、私と光代の幸せもちゃんと考えてくれながら話せるような……」
三女・光代さん「そうだよね、お母さんは今回のこと(後見人を無断でつけられた)によって自分の幸せな感じは奪われたよね」
母・晶子さん「そうだねえ」
(中略)
母・晶子さん「私にね、ちゃんと聞けばいいのよね、いろいろなことをね。聞いてから話し合いに乗ってくれるとか、そういうこと1回もしないし」
三女・光代さん「本人を見もしないで、勝手にこれが幸せだとか、これが守ってることなんだって言われたって」
母・晶子さん「幼稚だよね」
* * *
このあたりまでは、意見のすれ違う家族のいたましい会話とも思える。だが、次第にその内容は深刻さの度合いを増していく。先を続けよう。
* * *
三女・光代さん「これ(後見人をつけること)が必要なものなのかだって……生活している私たちが一番影響受けることだから」
母・晶子さん「そうそう。(姉たちは)批判をしようっていう気持ちだけだから」
三女・光代さん「私、実際にお母さんのこと虐待してるってずっと言われてたし」
母・晶子さん「えっ、虐待してるって?」
三女・光代さん「そうだよ」
母・晶子さん「(注・当惑して)あなた、虐待したことあるの?」
三女・光代さん「知らないよ(笑)。私はないと思うけど、それはお母さんが感じることだから(笑)」
母・晶子さん「私、虐待してるとは思わないよ?(光代は介護を)一生懸命やってる」
(中略)
三女・光代さん「(事態がここまで来たら)姉たちに訴えても無駄だと思うの。だって見もしないって、そういうことだから。やっぱり周りで、一番近くで見てる(ケアマネのような)人たちが、一番現状をわかってると思うの。
そこに何にも聞きに行かないで、自分たちが適当に書いた申立書が裁判所に行き、で、診断書1枚で全部が通ってしまって。しかも抗弁する2週間を奪われて……即時抗告って言うんだけど、審判がくだった時に、お母さんに知らせなきゃいけないの、本当は(注・裁判所からの通知の問題については、別途、続報で詳しくお伝えする)」
母・晶子さん「裁判所がなんで、ねえ? 片方だけ(の意見)しか聞かないで。私のことも何にも聞かないで、そういう勝手なことしたかね?」
三女・光代さん「それが一番の怒りのポイント!」
母・晶子さん「それは私もそうだよ」
三女・光代さん「うん。そうだよね」
母・晶子さん「聞きにくればいいじゃないね」
三女・光代さん「裁判を下すってことは、とても重要なことなのよ、その人の人権に関わることで。そこをなぜそんなにずさんにね、すっ飛ばしてるのかって」
母・晶子さん「これ(お金)で動いた?」
三女・光代さん「いや、それは(笑)。……ないと思う。裁判所は基本的にはお金では動かないはず」
* * *
このやりとりには重大な問題がいくつも含まれている。だが、それを追っていく前に、まず読者のみなさんに問いたい。
上記の文章を読んで、これが認知症で「判断能力が著しく低下した人」との会話だと感じるだろうか?
後見人がつくのは、認知症が進んで、自分では物事が常に判断できず、人の助けを常に必要とする人の場合に限られる。
だが、傍目からも、母・晶子さんは相手の言う言葉を正確に理解し、的確に自分の気持ちを言い表しているように見える。「お金でももらっているのか」というくだりなどは、素直な戸惑いや怒りの感情が十分に表現されていると言える。
後見人がつけられたあとの2017年8月、晶子さんと直接話した一般社団法人「後見の杜」の宮内康二代表(東京大学医学系元特任助教)はこう話す。
「お会いした際に、あらためてご本人の意思を確認したところ、『後見人は不要。このまま自宅で三女と一緒に暮らしたい』とキッパリおっしゃっていました。判断能力は十分あると言えましたし、後見人をつける必要性はまったく感じませんでした。
もし後見制度を使う場合でも、症状の重い後見類型ではなく、せいぜい、症状の軽い保佐か補助類型ではないかと判断しました」
ここで宮内氏の指摘する「類型」とは、「後見」「保佐」「補助」の三つの後見の種類のことで、単純化して言えば、認知症などの症状が重い人につけられるのが「後見」であり、「保佐」「補助」の順に軽くなっていく。それにともなって、本人の財産権の制約なども緩やかになっていくとイメージしていただきたい。
宮内氏の言葉通り、晶子さんはその後、専門医から「後見不要、保佐相当」という診断を受けているのだが、これについては続報で詳しくレポートしたい。
*常態化する司法の「手続き飛ばし」
今回の記事で強調してお伝えしたいポイントは、家裁が、後見人をつけられる本人である晶子さんと会って、事前に意思確認や調査をしていないという点だ。これは極めて重大な問題をはらんでいる。
成年後見の実務について定めた家事事件手続法には、こうある。
<(陳述及び意見の聴取)第120条
家庭裁判所は、次の各号に掲げる審判をする場合は、当該各号に定める者(第一号から第三号までにあっては、申立人を除く。)の陳述を聴かねばならない。ただし、成年被後見人となるべき者及び成年被後見人については、その者の心身の障害によりその者の陳述を聴くことができないときは、この限りではない。
一、 後見開始の審判 成年被後見人となるべき者
……>
ここにある通り、後見人をつける場合、家裁(具体的には家裁の調査官)は本人と会って、その者の「陳述を聴かねばならない」と義務付けられている。
それを行わなくてよいのは「心身の障害によりその者の陳述を聴くことができないとき」と定められてはいるが、映像を見れば一目瞭然、今回のケースはまったくそれには当たらない。にもかかわらず、家裁は本人とは一切会わずに審判を下したのだ。
前出の「後見の杜」の宮内氏が言う。
「『心身の障害によりその者の陳述を聴くことができないとき』というのは、本来は植物状態で話が聴けないなど、極めて深刻な事態を想定して付け加えられた文言なのです。 ところが後見の現場では、家裁の勝手な都合で、この一文にどんどん拡大解釈が行われ、本人への家裁の調査なしの、いわゆる『手続き飛ばし』が横行しています」
映像から文書化した上記の会話の中でも「医師の診断書1枚で後見人をつけられた」とか「裁判所が話を聞いてくれなかった」といった本人と家族の不満が噴出していたが、これこそまさに、手続き飛ばしの実例と言っていいだろう。
国会論戦などの中で、法案に「~等」という表現があるとき、野党議員などが「これではいくらでも拡大解釈できる」などと異議を唱える場面をご覧になったことのある方も多いだろう。
「そんな上げ足取りのようなことばかり言って……『等』くらいいいじゃないか」と野党側を反対ばかりするメンドクサイ人々だと、つい思いがちだが、重箱の隅をつつくような反対意見の中にも、ときには重要なものもある。
行政でも司法でも、日本の官僚組織の実態をみると、注釈ひとつ、文言ひとつにも、拡大解釈可能な抜け穴を作ると、とんでもない結果を生むことがあるのだ。成年後見制度における手続き飛ばしは、その弊害が端的にあらわれた例だと言える。
ところが取材を進めてみると、今回取り上げた母娘のケースには、さらに深い成年後見制度の闇が潜んでいることが分かってきた。たとえば、母娘は家裁の審判への異議申し立ての特別抗告をする機会を奪われるなど、重大な権利侵害がいくつも判明したのだ。
いったい、何が起こっているのか。そこには成年後見制度を推し進める司法界のビッグネームも絡んで、複雑な様相を呈しているのだが、そのヘドロのような闇の実態は、今後詳述していきたい。
◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
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