資料によると、ここ『フランツ・ヨーゼフの間』は1867年から1914年の展示だそうだ。
1866年のプロイセンとの戦争に負けた後から第一次世界大戦前夜までの時代である。
この時代に墺国(というかハプスブルク帝国)が関わった大きな戦争と言えば、
ボスニア・ヘルツェゴビナへの侵攻くらいのもので、比較的平和な時代であった。
ただし、帝国は11の国家から成り立っていたため、政情は安定しているとは言い切れなかった。
前日のブログまでに掲載した軍服は、墺国軍とハンガリー軍のもの(1878~1890年)だそうだ。
墺国の郷土防衛隊、ハンガリー軍予備役、二重帝国の皇帝・国王軍のものだと資料に書いてある。
また、前日ブログに載せた写真は、やはり皇太子ルドルフの私物であった。
彼は1889年に死去(有名なマイヤーリングの悲劇)するまで、この軍事史博物館の所轄官庁長官だったそうだ。
これらは、墺国かハンガリーの軍事に関する書物のようだ。
1枚目には、例によってカメラを構える自分の姿が映り込んでいる。
良く見ると、このパンフレットらしきものは、色々な言語バージョンである。
これは武器の一種だろうかと思ったら、スキー道具だった。
左上にあるものは、靴をスキー板に固定する金具のようだ。
下には、当時のスキーの様子を撮した写真がある。
現在主流の2本ストックではなくて、1本棒を用いたスキーである。
これは、スキー靴やストック。
そしてこれは、雪上を歩くための靴だろうと思われる。
上記↑スキー道具などは、皇帝・国王軍少佐(当時)であったテオドア・フォン・レルヒゆかりの品である。
彼は1910年に来日した際、日本にスキーを紹介した人物で、
新潟県のゆるキャラであるレルヒさんのモデルとして(最近は)有名である。
レルヒ少佐の来日の目的は、日露戦争で勝利した日本の戦略を研究するためだったそうだ。
この写真は、スキーを指導するレルヒ少佐である。
1866年のプロイセンとの戦争に負けた後から第一次世界大戦前夜までの時代である。
この時代に墺国(というかハプスブルク帝国)が関わった大きな戦争と言えば、
ボスニア・ヘルツェゴビナへの侵攻くらいのもので、比較的平和な時代であった。
ただし、帝国は11の国家から成り立っていたため、政情は安定しているとは言い切れなかった。
前日のブログまでに掲載した軍服は、墺国軍とハンガリー軍のもの(1878~1890年)だそうだ。
墺国の郷土防衛隊、ハンガリー軍予備役、二重帝国の皇帝・国王軍のものだと資料に書いてある。
また、前日ブログに載せた写真は、やはり皇太子ルドルフの私物であった。
彼は1889年に死去(有名なマイヤーリングの悲劇)するまで、この軍事史博物館の所轄官庁長官だったそうだ。
これらは、墺国かハンガリーの軍事に関する書物のようだ。
1枚目には、例によってカメラを構える自分の姿が映り込んでいる。
良く見ると、このパンフレットらしきものは、色々な言語バージョンである。
これは武器の一種だろうかと思ったら、スキー道具だった。
左上にあるものは、靴をスキー板に固定する金具のようだ。
下には、当時のスキーの様子を撮した写真がある。
現在主流の2本ストックではなくて、1本棒を用いたスキーである。
これは、スキー靴やストック。
そしてこれは、雪上を歩くための靴だろうと思われる。
上記↑スキー道具などは、皇帝・国王軍少佐(当時)であったテオドア・フォン・レルヒゆかりの品である。
彼は1910年に来日した際、日本にスキーを紹介した人物で、
新潟県のゆるキャラであるレルヒさんのモデルとして(最近は)有名である。
レルヒ少佐の来日の目的は、日露戦争で勝利した日本の戦略を研究するためだったそうだ。
この写真は、スキーを指導するレルヒ少佐である。