わたしは六百山

サイゴンでの365日を書き直す 

2005年11月10日 | 雑想
こちらk-603. 明日、家を出て、ホーチミンに向かいます。

最近虹を見ましたか。

虹、
たぶん、詩人にとってこれくらい扱いにくい自然現象はないのではないかと、思います。
たとえば 吉野 弘 の『虹の足』という一編があります。
バスの中から虹を見た乗客たちが、虹の麓(足)にすっぽりと覆われた村を見つけます。でも、その村のだれもが自分たちが美しい虹に抱かれていることに、気づきません。そこで、詩はこう続きます。

――― おーい、君の家が虹の中にあるぞォ
乗客たちは頬を火照らせ
野面にたった虹の足に見とれた。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福にいることが――― 

まどみちを の 『にじ』 は、こんな風に虹をうたいます。

にじ
にじ
にじ

ママ
あの ちょうど したに
すわって
あかちゃんに
おっぱい あげて

また、山村暮鳥 の 『虹』は、
子供たちが最初に見つけた虹に、
――小便を 地面に垂れずにいられなかった―― というのです。
しばらくして、虹は薄れていきます。やがて消えてしまったとき、子供たちが怒ります。
詩はこう続きます。

だが、子ども達は
それをみると
腹を立ててどなりちらした
私達のみつけた虹だ
父ちゃんが
小便なんかひっかけたからだと
そして怒鳴ってやめなかった
 
さて、ベトナムの虹はどんなでしょうか。
まさか、虹という単語がない、ということはないでしょうね。
ご用とお急ぎでない方は、ホーチミンにお立ちよりあれ。

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