わたしは六百山

サイゴンでの365日を書き直す 

異質な戦後 ベトナム便り 82

2006年06月26日 | 雑想
こちらv-603.
夢太郎さんというかたから、コメントをいただきました。
タイに日本語教師として赴任される方がいらっしゃるということです。
なにかお役に立つことがあれば、と思いますが、その際はメールをどうぞ。
k-603@mail.goo.ne.jp
です。


さて、
今、私の住んでいるデタム周辺は世界中(といっても、先進諸国が主)のバックパッカーが集まってくるところとして、サイゴンでは有名です。
先日会った銀行員はアメリカ人でしたが、香港の支店で週5日、毎日朝5時から夜10時まで働いていて疲れがたまり、一週間の休暇をもらってからだを休めにこの街に来ているということでした。
幼い子供をつれたフランス人の家族が来ている事もあります。
オーストラリアから来て、これから一ヶ月ここに滞在するんだと言う大工さんにもあいました。
もちろん、日本人も来ます。
きのう、このホテルであった日本人の若者は、初めての海外旅行だと言いながらも、小ぶりなザック一つ持って、これから路線バスでモクバイまで行って、そこからカンボジアに入り、バンコクからマレーシア、そして最終的には、イスタンブールまで行ってみたい、と言っていました。
こうした人たちの落とす金によって、この街は生きています。
娼婦、物乞い、スリ、花売りの子、麻薬の仲介者、にせ行乞僧・・・。
大通りに面した軒先には、さして生活の匂いは感じられませんが、一歩細い路地に入り込めばその軒下に、よどんだ風が魚を揚げる油の匂いを運び、向かい合った壁にがなり声が響きます。
食えるものを食い、働ければ働き、暇ならば寝る。
狭い路地には、日の光が直接差し込むことがありません。
大きなビルの壁を借りて、畳3枚を横一列に並べたほどの細長い面積に、レンガにモルタルをなすりつけただけの2階建ての建物を建て、一家5人が生活しています。2階との昇り降りは梯子です。
ところが、1区に住むのはまだましで、デタムの通りを南下しベン・ギエ川を渡った4区には、たくさんのごみが浮き、腐った水が淀む沼原にトタンと廃材で作った小屋を建てそこに暮らす家族もいます。1区へ行商や物乞いに来る人たちのほとんどは、この4区に住んでいると聞きました。

これらの人々に接して、何を感じるかは人それぞれです。
嫌悪感を持つ人もいるでしょう。
同情を寄せる人も、手を差し伸べたくなる人も、翻って今の自分の幸せを感じる人も。
拒否反応を示す人もいるでしょう。
怖いという感じを持つ人はいないでしょうか?

しかし、こういう風景は、なにもベトナムに来なくても、日本のどんな街にでも“どこか”ではなく、“そこに”あります。
ただ、ちがっているのは、敏感に反応するかしないか、あるいは、反応できるかという社会の体質です。
そして、自分の境遇に幸不幸のどんなものさしを当てるかの個人の判断基準です。
よく、このベトナムの現状を太平洋戦争以前の、あるいは敗戦直後の日本の状況になぞらえる人がいます。
私はそれに対して、そうだろうかという疑問を持っています。
自然環境がこれほど違うベトナムと日本が同じ状況だとは思えませんし、これだけ手ひどい外からの被害を受けてきた国民が日本人と同じような国際意識を持っているとは思えないのです。
つまり、異質であるべきなのです。


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