観心寺如意輪観音像
昔、観心寺の如意輪観音像(摸刻)を美術館で見て、その色気に感心したことがあった。奈良西大寺の吉祥天女像もそうだが、この時代のヒトは唇の厚いシモブクレの肉感的な女性がお好みのようである。高松塚古墳の女性像の様な感じのヒトが美人とされたようである。
古代から中世に渡る時代は、何もかもが停滞したと思っていたが、この像を見る限りではそんなことはない。彫刻の技術も凄いし、彫刻家のその像に載せる自分の思いも凄いものがあって、像の前に立つと摸刻とはいえ迫ってくるなにもかがあった。空海が刻んだとか伝えられているそうだけど、いくら何でも空海さんにそこまでの才能はなかったのではないかと疑っている。企画立案して最後にちょっと手を入れた程度ではないのかなと思う。
さて当時は、如意輪というくらいだから意のごとくお金持ちにしてくれるのかと思い美術館で熱心に拝んでおいたが一向効果が表れない。これは摸刻であったのがいけなかったかと気を取り直し、本物およびその脇侍仏を拝むとたちまち験が現れるかもと観心寺まで出かけた。残念なことに秘仏で年に三日しかご開帳がないそうである。お金持ちになるには、日を合わせて再度行かねばならないようである。秘仏はやむを得ないがお前立にあの摸刻の像を置いてせめて厨子だけでも拝みたいところであるがそれもかなわなかった。(従ってわたしは今のところ金持ちになる兆しもあらわれてこない。しかし日を決めて参詣するのは面倒くさい。必ず金持ちになるなら考えてもいいが。)
観心寺は、楠木正成が本拠の一つとしたようである。南朝の天皇はこのあたりをうろうろしてから吉野に向かったというから実際は高野山に行きたかったのではないか。それとも南朝は高野山の庇護のもとに成立した統治機構なのかもしれない。高野山や観心寺は室町時代を通じて栄えたと思われるが、何しろ京都には海外との通商で栄えた政権が成立したので高野山は財政的には衰微せざるを得なかったと想像する。通商なかんずく海外との通商は、今も昔も大事である。空海さんは、中世末期に独立王朝をたてたが、遺憾ながら港を持たなかった。播磨の港か堺の港かは知らないが、港は大事であるな、と思いながらこの結構大きな境内を歩きながら考えた。通商を握るものが栄えるのである。
現に楠木正成は、播磨の福原の港のそばまで戦いに行っている。桜井の分かれというのがその近くのはずである。当時は(キット今も)港がキンの卵を産むニワトリであったのだろう。負けた方の心境を盛んに美化するような話がされているが、なんのことはないお互い欲得ずくの争いであったとみられる。
してみると如意輪観音に祈ったはずの正成が負けたということになるのか?祈っても無駄になるのか。
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