映画 オッペンハイマー③
ニュースでは、この映画を見たヒトは核兵器の恐怖を訴える映画であると評価しているらしい。もちろんそれあるだろう。何しろ核は拡散してしまっている。昔のように独占されていない。勇んで開発したが、した後苦しんだ。同じように核を使うが、使った後苦しむに相違ないとする予測である。まさかと思うが第三次世界大戦という物騒な題の本が本屋に並んでいる。(ところでこの映画では、トルーマンは全然苦しんでいなかった。)
しかしアートは時代の動きを反映するものである。もっと新しい時代の動きもメッセージしているはずだと思う。核兵器にことよせて、新しい機器の開発が危険とする警告であるとみる。その新しい機器がAIであるのか、核融合であるのか、もっと他のものなのかは分からない。新しいものは、便利だけど危険でもある。中には便利でないくせに危険なものまである。
神に近づきたい、神の摂理を知りたいがハイゼンベルグの研究の動機であろう。その弟子オッペンハイマーは神の力を使いたいが動機であった。(要請があったので要請に答えたまでと本人も言っているし実際そうであろうが、根本は神の力を使ってみたいであろう。)その神の力を使ったために、落ち込むことになって落ち込むついでに当時のアメリカ社会からよく言われないようになってしまったところがこの映画の見せ場になっている。
同じように、AIは神のようにヒトを支配しないか。何事もAIに問い合わせたり判断を仰ぐようにならないか。便利になると見せかけて却ってヒトを忙しくしないか。(忙しくするとは、漢字の中にその意味が立派に表現されている。心が亡びるのである。漢字を発明した人は、賢い人だとつくづく思う。)AIを発明した人は、人の心を滅ぼさないか。AIを発明した人は、オッペンハイマーのようにあとで落ち込んだり、社会全体からよく言われないようにならないか。他人事ながらわたくしは、心配する。
昔が良かったとは言えないまでも、電話もテレビもない昔も皆そこでの楽しみを見つけていたのである。余計なお世話を焼いてもらわずともいいのに時々思う。
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