東日本のヒトのための奈良市観光案内⑦ 猿沢池
奈良盆地は昔は湖または大きな沼地であったものが干上がっていったとみられる。土地が平坦で干上がりきらなかった池があちこちにある。そんな池の一つが猿沢池で、芥川龍之介がここを舞台に短編を書いている。杜子春みたいに有名でないので、残念ながらこの池の観光に寄与しなかった。
夏のいつであるかここで「船渡御」というお祭りが催される。奈良時代の衣装を纏った女性が船で対岸に行くだけであったが、今はもう少し手が込んでいるのかどうか。冬に挙行される御祭りと並んで大きなお祭りであるが、これを見るためだけに観光というわけにはいかないであろう。ねぶた祭とはスケールが全く違う。御祭りは京都の時代まつりの奈良版みたいなもので、これもスケールが大きくない。祇園祭のようなにぎやかなのがないのである。
さして大きな池でないが、大量のカメがいる。池のほとりにはシカもいる。一番の観光スポットではないか。シカは餌を取り合いするので生存競争を思い出す、どうも嫌であるが、カメはいつものんびり甲羅干しをしている。これが大変いい。水族館でガラス越しに見るとあんまりいいように見えないが、亀の甲羅干しを生で直接見ると感激する。自分は亀の甲羅干しのように生きるが得なのではないかと頓悟したことがある。これに限らず自然はガラス越しに見ては駄目である。ましてや液晶越しに見るなんてとんでもないことである。
花札のシカ十の絵柄の十匹のシカはお互いに視線が全く絡みあわない。だから無視するのを「シカト」というのであるが、現実のシカもどうやらお互いを無視して視線を絡み合わせないように見える。花札のシカの絵を描いた絵師もそれを見抜いていたのかもしれない。シカの習性である。ここでは是非これを観察していただきたい。
この池の周囲には柳並木がある。この柳並木の向こう側にはあろうことか遊里があった。(柳と遊里は深い関係がどこでもありそうである。)興福寺からせいぜい二百か三百メーターである。このことからも興福寺が学問や修行の場ではないことがお分かりいただけるだろう。しかしである。この前東京上野の西郷さんの像の近くを歩いていると、天海和尚は奈良興福寺で学問をやり……と書いてあった。天海和尚(明智光秀その人ではないかとのうわさがあるヒトである)は学問をやりながらこの遊里に足を踏み入れたかどうかそこを聞きたいものである。
明智光秀で思い出したが、近鉄奈良駅すぐの場所に一乗院があった。そこにかくまわれていた足利義昭を細川何某(この細川家というのは藤原氏の末裔である。この人が興福寺に出入りしているのは何か臭い)と一緒に連れ出して還俗させ将軍にしたという。興福寺前の道を通り県庁のところを左に曲がって手貝門の前を通る道が京都へ向かう道である。この道を通ったに違いない。
もしこの遊里が奈良時代にもあったなら、戒壇院からさして遠くないことになる。鑑真和尚が唐招提寺から戒壇院へ通う道すがら見えたはずである。戒律を講義しに行くのにいくら何でもそれはないであろう。奈良時代にはこの遊里はなかったと考えるのが合理的だろう。しかし室町時代には多分この遊里はあったはずである。日本最古がどこか知らないけど、ここも相当古いはずである。もちろん今は何もない。ただむやみに赤い欄干の橋があって往時を偲ばせる。ここは、差しさわりのある方は行かないでください。日本最古かもに興味のある方はどうぞ。
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