goo blog サービス終了のお知らせ 

本の感想

本の感想など

断腸亭日乗で昭和4年と9年の世相を読むが収穫無し。

2025-04-17 12:57:20 | 日記

断腸亭日乗で昭和4年と9年の世相を読むが収穫無し。 

 本当に大恐慌が来るなら昭和4年の世相は今と似ているはずであると考えたが大きな変化がなく安穏と暮らしている。荷風さんがそういうことに興味なくても友人や荷風さんの大好きな女給さんがそういう話題をするのを書き留めるはずだと思うがそうではなかった。ならばニューヨークの株が底辺になった昭和9年はいよいよ暗い世相が書いてあるかと読んでみたがこれまたそうでもない。相変わらず誰それと会った話か、医者に注射してもらった話などである。

余談だがその合間に季節の描写があってこれがいい。断腸亭日乗の値打ちはだれだれと会って何をしたかにあるのではなく、この季節の描写にあるのではないか。当時の東京には自然があったようである。ならば田舎に引きこもって日乗を書けばいいと思うが、そうでもないのだろう。服のデザインをする人は渋谷あたりに住んで消費者のそばにいないといけない。普通日記は読者を想定しないけど、荷風さんの日乗は読者を想定している、消費者である読者のそばにいないといけない。ために荷風さんこのあと10年くらいで戦災にあうことになった。

 

 (昭和4年3/27)文春に荷風さん攻撃を受けたようである。ただしどんな攻撃であったかは記載がない。「余の名声と富貴とを羨み陋劣なる文字を連ねて人身攻撃をなせるなり。」とある。これにより荷風さんは今でいう芸能人と同じ立場であったと想像される。(この人攻撃されるようなこといっぱいしているではないか。脇が甘いなんてもんじゃない、堂々としてあろうことか自分の日記に書いているではないか。)文春(菊池寛創業)は今も昔(100年前)も変わらない。こういうことが大好きな人の心も今と昔で変わらない。またこういうところに儲けの種を見つけて事業化するのも今と昔で変わらない。

 (昭和9年3/17)「賭博犯の嫌疑にて菊池寛其の他文士数名及び活動女優両三名警視庁へ呼び出されしと云う。」荷風さん頭にきて仕返しにこんな文を日記に草している。5年経っても恨みは残るようだ。

 そこでわたくしの得た教訓。第一に富と名声と稀有な才能ある人でもヒトに根深い恨みを持つものであること。荷風さんわたくしとさして変わらない心根のヒトである。第二に「恩讐の彼方に」などの立派な道徳を小説にする人が女優と賭博をしていたのであるから、立派なことを喋る人を尊敬してはならないこと。立派なことを言う人と本当に立派な人を混同してはならないこと。わたくしは、どうもつまらない人を尊敬したようである。ここに気づいたことは大きかった。


日本昔話 にやにや笑う殿様

2025-04-10 17:38:27 | 日記

日本昔話 にやにや笑う殿様

 昔々あるところにおじさんとおばさんが住んでいました。おじさんは庄屋さんとこで小作に、おばさんは川へ洗濯に行きました。おじさんの庄屋さんとこの小作はつらいけど、仕事の後皆と居酒屋へ行くのが楽しみでした。だれが次の春手代に昇格するかの噂話が楽しくて仕方ありませんでした。一方おばさんの洗濯の仕事はつらいけど、洗濯しながら村の女と冗談を言い合うのが楽しくて仕方ありませんでした。

 ある日のことです。おばさん達は自分たちも庄屋さんとこで働かせてくれ、手代や番頭に出世してちょっぴりだけどお給金が増えることを楽しみにしたいと言い出しました。おばさん達は殿様に掛け合いおじさんと同じように庄屋さんとこで働けるようにしてもらいました。これでおばさんも居酒屋で噂話ができればよかったんですが、二人は早く帰って洗濯をしないといけません。おじさんは早く帰って慣れない洗濯を、おばさんは慣れない仕事をした後帰って洗濯をしないといけなくなりました。もう村の人と一緒に冗談を喋る余裕はありません。もう仕事の後仲間と噂話するゆとりもありません。だんだん疲労が溜まってきます。

 むかしは小作にでて稼いでくれる人と洗濯をしてくれる人は別々になってましたからお互いがお互いを必要としていたのです。少しのことなら辛抱します。しかし今は一人で両方できてしまうのでいったんおじさんが村の美人に、おばさんが隣町の若い男にちょっと色目を使っただけで別れ話が出てしまうことになります。家の中で争いが絶えず、それを見て育った子供は結婚したいと思わなくなりました。子供が生まれなくなりますので国土は荒れていきました。

 しかし殿様は別です。何もしないのに勝手に税金が2倍になったのです。殿様は毎日毎日にやにやして暮らしました。その後国土がだんだん荒れていきましたので、とうとう何百年ののちにはもとの山林野原に戻ってうさぎやイノシシが走り回るようになってしまったという話です。

 

 

 斉家治国平天下は孔子の言葉とされていますが、最近はもっと前から言われていたのではないかと言われだしています。斉家は税金より大事なものというお話でした。


戯曲 指南箱

2025-04-07 21:23:09 | 日記

戯曲 指南箱

江戸末期の老中の部屋。着流しで正座した老中が小さな火鉢で手をあぶっている。老練な実務官僚の風貌。脇には大きな文机、立派な掛け軸。若い姿勢のよい勘定奉行見習いが入ってくる。美男子で目から鼻に抜ける秀才顔である。

手に小さい箱を持っている。

 

見習い:ご老中様相談がございます。

老中:なにかな。

見習い:これなるは最近かのペリー提督が我が国にお土産に持ち込まれたる指南箱と申すものでございます。

老中:おう話には聞いておったが実物を見るのは初めてじゃ。ひどく小さいものじゃな。

見習い:小さいがなかなか威力のあるものにてこの世の森羅万象ありとあらゆることを知るのみならず、ひとにこうすればうまくいくという指南までする箱でございます。正式名称は人工知能とか申すものらしくございます。絵を描いたり音楽も奏でます。ただしそういったアートにはどうも心がこもってないようです。

老中:波斯の国の物語にそういうものがあったとか聞き及ぶぞ。確か千夜一夜物語とか申す物語であった。かの国の行灯を擦ると巨人が現れてなんでも教えをしてくれるらしい。雑用もしてくれるらしい。ペリー提督の国ではついにそれが実現されたか。それでいかがいたした。

見習い:実はこの箱、子供に読み書きそろばんを教えるのが大変うまいのです。

老中:それはいいではないか。早速すべての寺子屋へ導入せよ。

見習い:しかし寺子屋師匠連盟から、こういうものは子供の師匠に対する尊敬があって初めて知識が伝わるものであるから導入に絶対反対、子供がこのような機械を尊敬するはずがない、もしどうしてもというなら少し前浪速でおこった大塩の乱のようなのをおこしてでも導入させないとか申しております。教育と申すものは、人が人に対して行う崇高な行為であるとも申しております。

老中:なにを寝言を申すか。師匠を尊敬しておる子供がいるとはとても思えない。自分らがご飯を食べられなくなることを恐れてそのようなことを言い募っているだけだ。さっさと導入せよ。

見習い:いやそれだけではございません。小普請(むやく)組頭様と寺社奉行様が導入しないように申し入れらておるのでございます。

老中:それはなぜじゃ。

見習い:実は食えなくなった下級士族と、大寺院の中で出世競争に負けて同じく食えなくなった僧侶の再就職先が寺子屋なのです。これがなくなりますとまた別の失業対策が必要になるかと・・・・・・。

 

老中懐から取り出した小さな餅を火鉢で焼きだす。扇子で炭を扇ぐ。無言で重苦しい空気が流れる。焼きあがった餅を老中一人でむしゃむしゃ食す。見習いのほうを見ようともしない。食べ終わって見習いのほうを向いて。

 

老中:ではこうしよう。なるたけ細かな寺子屋運営規則を作って寺子屋の師匠どもに守らせるようにせよ。仕事が大変で音を上げるように仕向けるのじゃ。さすれば、仕事を失った下級士族も僧侶も自分たちで別の仕事を探すであろう。今いる師匠も仕事が大変だから、その指南箱を是非寺子屋に導入してくださいと向こうから頼むようになる。手間と時間がかかるがそれが良いであろう。

 

見習い深々と頭をさげる。

 

見習い:それは妙案。たまらず向こうからというところが味噌でございますな。早速実施いたします。

 

爾来、寺子屋の師匠は無駄に忙しい仕事になって下級士族や出世できなかった僧侶がなる仕事ではなくなったということです。指南箱は大変便利な箱ですが、この政策によって人が人を尊敬するという美風が失われたことは確かなことです。


断腸亭日乗でニューヨーク大暴落を読む

2025-04-05 22:22:23 | 日記

断腸亭日乗でニューヨーク大暴落を読む

 最近株の暴落がささやかれているので、この前1929年10月24日の暴落の時永井荷風はどんな経験をしたのかと断腸亭日乗のその日付けの日を探した。24日時差を考えても25日26日の記事は散髪をしたことや歌舞伎をみたことがあの特徴のある名文で書いてあるのみである。新聞で報じても読まなかったか何も感じなかったのであろうか。

 荷風さんは、芸術家であるからお金には淡白であったということは絶対ない。この日記のいたるところに出版社とのお金を巡る話が書かれている。ケチという人がいるがそうではない、好みの女の人にはどんどん使う。(好みから外れるとケチになる)がめつく儲けてきれいな女のヒトに使おうとするごく普通のタイプの人である。ただがめつさが普通の人よりやや大きいかもしれない。(どうもわれわれは芸術家は立派な人でお金のことを考えずに創作に打ち込んだヒトと美化しすぎるきらいがある。私はひそかに孔孟老荘ソクラテスなどみなごく普通の人ではないかと考えている。書いてある内容と書いた人の日常生活には大きな乖離があると思う。)

 その荷風さんがなにも書かないのであるから、10月24日の大暴落は日本にはすぐに大きな影響がなかったのかもしれない。実務に就かなかった荷風さんには関係なかったということか。

 しかし同じ年の10月2日に銀行が休業になったことが記載されている。さらに9月29日田中前首相頓死す、暗殺の風説亦頻りなりと云う、との記載がある。さらに9月19日荷風さんがお好きであったカフェー及舞踏場の弊害を論じることがおきたことを嘆いておられる。どうやら大恐慌の少し前に日本国内でも暗い世相であったことが見て取れる。大恐慌が起きたから暗くなるのではない、世相が暗くなると大恐慌が起きるということのようである。(今の日本の世相が明るいという人はまあいないであろう。)

  ところでこの2年前(1927年)の日本の金融恐慌に関しては記載が何もない。このころひどい目にあった人が一杯いると思うのだが、目に入らなかったようである。あちこち遊びまわっている。暇でいい人生をおくれた最後のヒトであろう。あやかりたいものである。


小説 恋の思い出

2025-03-20 09:26:07 | 日記

小説 恋の思い出

今では知る人も少ないだろうが、今から半世紀ほど前の日本の書店では店主が風呂屋の番台くらいの高いところに座って店番をしていた。お客は自分の頭くらいの位置のずいぶん高いところにお金を渡して自分の頭の位置から本の入った紙袋を受け取ったものである。自然本屋の主人には頭の高い人が多かった。

わたしは小さいころからそんな本屋に頻繁に出入りしてあまり本を買わないにも関わらず結構かわいがってもらっていた。特に近所の豊田書店の主人にはかわいがってもらった。山岡荘八の家康は売れないだろうが、信長は売れるだろうと予想を当てたからである。また主人は私の高校の教科書の納入業者でもあった。豊田氏は毎年3月末には4,5日お店を閉めて奥さんと一緒に学校で教科書を売っていた。

さて、わたしの高校の時の担任は3年間をとおして植田先生という旧帝国大学の文学部を卒業したという触れ込みの国語の教師であった。現代文は書いてあることを素直に読めば講釈なんか無くてもいいように思うのだが、植田先生は大声で講釈する。週に何時間かこの大声の無駄な講釈に付き合うのは面倒であった。そのうえ時々授業中に脱線して恋愛のやり方を伝授するのである。こういうものは極めて個人的なもので、ここから導かれる教訓は他人には一切役立たない。この金輪際役立たない伝授に付き合うのはかなり苦痛であった。

噂では市の公園管理の小屋にタダで住み込み、家賃代わりに朝夕の公園内巡回の仕事をしているという話である。もう不惑を超えているのに独身である。ただしなかなかの男前である。クラスメートの一人に新聞屋の息子がいて、その同級生の話によると彼のお父さんが公園管理の小屋に新聞の売り込みに行ったところ「自分は漢字が読めませんので。」と断ったという話である。頭はよく回るが吝嗇家でもある。さらに別の噂によると、依頼があるわけでもないのに自分の恋の思い出をご苦労にも私小説に執筆中だという。

さて、無事高校を卒業し植田先生の束縛から脱して大学一年生の夏に帰省した時の話である。アブラゼミがジージーとうるさく鳴く中を久しぶりに豊田書店に入ると大きさは変化ないのに、なんだかお店が小さく感じたのはわたしが大きな都会の本屋に出入りするようになったからであろう。主人はわたしの顔を見るなり高い番台の上から大きな紙袋を下げ渡して、こう言うのである。

「これもろといてくれ。あんたの担任の書いた本や。こんなもん置いといたら埃かぶるし場所ふさぎになってかなわんのや。」

紙袋の中には、植田先生の書いた私小説が20冊くらい入っていた、おそらく自費出版したのであろう。知り合いの豊田書店へ頼み込んでおかせてもらってるに相違ない。わたしは読む気はしなかったが、せっかくだからそれを受け取った。美麗な箱入りで一冊750円である。ずしりとした紙袋を受け取った瞬間よいアイデアが湧いた、古本屋に持っていくのである。わたしは、学食でいつも素うどんを食べざるを得なかった。一度だけ学食のおばちゃんが、「今日は余ってるから。」と言いながらてんぷらを乗せてくれたことがあってそれが素うどん以外の唯一である。もし一冊10円で売れれば、夏休み明けには一番高いAランチを食することができる。ハンバーグに目玉焼きがついているのである。もちろん山盛りの御飯に味噌汁もついている。

豊田書店の斜め前には大学堂という大きな古本屋があったがさすがにここへ持ち込むのは気が引けた。駅を越えてずーと歩かねばならないが、酒呑童子古書店というのがあった。そこへ持ち込んだ。義経弁慶くらいなら負け戦の大将でも店の名前にするにいいけれど、酒呑童子とはこれからちょっとお店がたちいかなくなるのではないかと心配になってくるがまあ他人事だからどうでもいいことである。入っていくと店の主人は鼻の頭の赤い人で、ここから店の名前の由来は理解できたしこのお店の将来も想像できる。

お酒の好きな人のようだから、きっと値段の査定はおおらかであると期待したが残念であった。主人は本の作者名を一瞥しただけで中は見ないで「タダでも引き取れない。」と言い放った。わたしはAランチを食い損ねた。植田先生の力作は長くわたしの実家の勉強部屋に埃をかぶったまま積まれていたが、その後どこかへ行方不明になってしまった。真偽はわからないが植田先生は学校を辞めて外国へ行ったという話である。その後の消息も知る人もいない。豊田書店はお孫さんらしい人が引き継いでいる。さすがに風呂屋の番台みたいなのは廃止になったようである。酒呑童子古書店は近くまで行くこともないからどうなったか知らない。

植田先生の恋の思い出はもうどこにもない。わたしは、あの箱入りの本を取り出すことさえしなかったことを今になって少し後悔している。せめてパラパラと見るだけでもしてあげればよかった。気の毒なことをしてしまった。わたしは今ではAランチ以上の御馳走を毎日毎食食べることができるようになった。こうなってみると、恋の思い出に生きられた人のことが少しく羨ましく思えてくるものである。御馳走を食べることに必死であったわたしには思い出が何もないのである。