著者は、餃子と豆大福が大好物で、これらを食べなくても、幸せな人生を全うできますが、口にせずに死んで行くの人を気の毒と思います。
また、ショパンを聴いたり、童謡や歌謡曲を歌うのが大好きで、これらを聴かず、歌わなくても、幸せな人生を全うできます。でもそういう人々を気の毒に思いますという。
豆大福や歌謡曲が好きのようで、庶民的な知識人だ。
ここ二十年間で本屋が半減した。かつては駅前に本屋があって、黒山の人だかりだった。
今や、近くに本屋はないので、電車に乗らないと行けない、不便な世になった。
アマゾンでは、手に取れないので、感触がつかめない。
しかし、1975年、著者がアメリカから帰国して、来日した友人は本屋の多さと立ち読み姿を見てエキサイティングな光景だと語ったという。
江戸末期、江戸末期に来たイギリス人は、普通の庶民が本を読んでいるのを見て、この国は植民地にできない、と諦めた。
白人によれば、自国を統治できない無能な民のために白人が代わって統治してあげる、と言う。
読書は国防に関わる。書店数の激減は国の将来に暗雲が立ち込めている。
本を読んで金儲けできるわけではない、幸福になれるとは限らない。しかし、チェーホフは、こう言う。
本の新しいページを一ページ読むごとに、私はより豊かに、より強く、より高くなると。
僕も、デジカメが出来てから、写真を見直すことが少ない。電子ブックが出てから、もう一度、読もうとは思わない。本は手許に置いて、線を引きたい。
便利な世界になると、あれもできる、これもできると勘違いする。実際は、機械に時間を横取りされて一日が終わる。
藤原正彦著 『国家と教養』
1 日本人も物事をすべて金で換算する?
「世界でも最も金銭崇拝から遠い国だった我が国が、あっという間に、物事を金銭で評価する国になった。
弱肉強食で人心はすすみ、法律に触れない事はなんでもやる、ということになった。
江戸時代までの日本では、町奉行のような裁判に携わる人以外、誰も法律を知らなかった。
「お天道様が見ている」や「キタナイことはスルナ」で秩序が保たれた」と。
自分中心に世界が回っており、他人はどうでもよい、というのが現実です。
最近、警察官を刺したり、川崎で児童を殺したりと、いいニュースがありません。誰か偉い人が見ている、という感覚が薄れたからだろうか。
2 教養のない人がトップにたつと?
「20世紀初め、マックス・ウエーバーは、資本主義発展の最終段階では、精神のない専門人、心情のない享楽人が、自分達は、人間性のかつて達したことのない高みに登りつめた、と自惚れるだろう」と。
その通りになりました。現代人は、科学技術や生産手段の進歩を人間性の進歩と勘違いしたまま、自惚れと傲慢に身を置いたようです。
今やAIの時代で、下手をすると、コンピューターの言いなりに人間は動く時代が間近に迫っているのではないか。
コンピューターは死なないから、情緒がわからないのに。
3 アメリカのやり方は卑怯?
「日本のバブル崩壊という災難につけこんだ新自由主義の強要は、ショックドクトリン(参事便乗型資本主義)と呼ばれ、新自由主義拡大のための典型的なテクニックだった。人々が茫然自失から正気を取り戻す前に、一気に体制を変えてしまうということです。ショックにつけこんだ卑怯な方法です。火事場泥棒です。
小さな政府、規制緩和、民営化などを徹底してから、それらを米金融資本が買収して、その国を経済的植民地にしてしまう恐ろしい目論見です」と。
かつての駅前商店街は店を閉じ、年間、かなりの自殺者に達している。これはアメリカのショックドクトリンが原因かもしれない。
4 世界中、教養がないから、中国の虐殺や侵攻を止められない?
「自由や人権のチャンピオンであるはずのヨーロッパは、中国との経済関係を考え、中国のウイグルやチベットへの人権蹂躙に口を閉ざしている。
中国の南シナ海の軍事拠点化も同様。弱者や敗者への惻隠などはどうでもよいのです。世界中の99パーセントは利害得失で行動している」と。
だから、教養がないから本能を制御することができないのでしょうか。
5 ユーモアがあれば、広い立場に立って考えられる?
「イギリスの貴族はバランス感覚とユーモアがあった。
ユーモアを生むには、いったん自らを今ある状況から一歩だけ退き、永遠の光の中で俯瞰することが必要。
イギリスはドイツのように行け行けどんどんではない。
イギリスには他人と違うことは恰好いい、という文化がある。
イギリス人は、今も論理や理屈を余り信用していない。特定の教義に従うことがほとんどない。原理・原則より現実をみる。
ジェントルマンかどうかは、昔も今もユーモアがあるかどうかです。
イギリスの本屋にはユーモアというセクションがあり、ドイツにはない」と。
困った時、すぐに出る名言があれば、ユーモアになるように思う。
西洋ではギリシャの古典が重んじられるが、日本では平家物語や、徒然草等の名文句を一文暗記して、当意即妙に出てくれば、やったー、と思うのではないか。
6 本当の教養人は国に一パーセントしかいない?
「19世紀初めに、ドイツで教養市民層ができる。裁判官、ギムナジウムの教師、大学の教師、など。金銭・功利を下に見る。アメリカと正反対。
また、彼らは、プロテスタントで、工科大学はパンのための学問だと軽蔑した。
全体の一パーセントが教養市民層だと言われる。国をリードして、誰もそれを心配せずに」と。
日本もかつては、旧制高校があった。周りがみんな、岩波文庫を読む。だから、読まないと除け者にされる。
友達とは、人生について、死について等を議論する。
しかし、今やそんな世界は消えてしまった。
マルバツ式の優等生に任せていいのか。
7 この先、科学技術の進歩でますます教養がなくなる?
「19世紀後半に、ドイツは工業化しだして、大衆市民社会となった。ドイツ産業革命である。資本家と労働者が分離した。
科学技術の発達とともに、実学の地位が向上して、教養市民層が減って行く。
そして、学問の専門化が起こり、バランスある教養を身につけるのが難しくなった。
文化とは、文学などの芸術を意味し、文明とは政治、経済、産業革命の結果生まれたインフララなどを意味します。文化が文明に優越する、というのが、当時の欧州インテリ間の共通認識だったが」と。
専門化は素人にわかる文章を書きたくないようだ。自分達のたこつぼ仲間の専門用語を見せびらかして、どうだ偉いだろう、と言いたいようだ。
これが一つなら何とかなるが、経済、法律、工学、農学等幾つも幾つも出てくると、問題だ。知識欲が薄れてしまう。
しかし、150年ほど前は、文化を重んじ、文明を軽視した。
だから、真の教養人が続出したのではないか。
やはり、文化・芸術をべースに好奇心を沸かせるのが筋だと思う。
8 乃木将軍の自決をどう思いますか?
「明治中期以降に生まれた教養層と、それ以前に生まれた教養層との間には、ちょっとした隔絶がある。
明治天皇崩御の大喪の礼の日(大正元年9月13日)に、乃木希典は自決した。それに対する評価です。
明治中期に生まれた多くのの文人が「前近代的」「時代錯誤」と批判した。芥川龍之介は、『将軍』の中で、皮肉で嘲笑した。志賀直哉は殉死の翌日の日記に、馬鹿な奴だ、と。荒畑寒村は、精神病患者のたわごとのようなもの、と。
対して、明治初期生まれの新渡戸稲造は、日本道徳の積極的表現、三宅雪嶺は権威ある死、西田幾多郎、徳富蘆花は、感動を覚えた、と。
森鴎外は、日本精神の原型である、と。
漱石は『こころ』で、自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ」と。
おそらく、明治初期生まれの人は漢文に親しんで、人格を作っていたが、明治中期になると、漢文の教養はなく、西洋一辺倒にったからではないか。日本や中国の古典より西洋の古典だと。
よく考えると、今でも、その傾向がある。学校で漢文などは軽視されている。それよりも、小学校から英語を勉強しろと。
9 教養とはどれだけ感動するか?
「これからの教養とは、現実対応型の知識です。生を吹き込まれた知識、情緒や形と一体となった知識です。
情緒とは、先天的に備わった喜怒哀楽ではない。それらは獣にもある。
後天的なもので、その人が生まれてからこれまでどんな経験をしたかによって培われる。
どんな親に育てられたか、どんな友達や先生と出会ったか、どんな美しいものを見たり読んだりして感動したか、どんな恋や失恋をしたか、等により形成される。
形とは、日本人としての形、すなわち、弱者に対する涙、卑怯を憎む心、正義感、勇気、忍耐、誠実などです。論理的でないもので価値基準となるもので、獣ではない人間のあり方です。
要するに、教養とは真善美に似ている。知が知識、情が情緒、意が意志や道徳です。情緒や形と一体となった知識がそれらに近い」と。
僕は、情緒に欠けるが、これを読むと、情緒力をつけるには、歌謡曲を暗記したり、日々、美しいものを見て、どれだけ感動するかだ、と思い知らされた。
10 人生で大切な事は何だろうか?
「東京女学館女子中高の校長は、生徒に伝えたいのは三つの事で、読書と登山と古典音楽の愉しさだ。と言う。
ある会社の社長は最も大切なのは、人と付き合い、本を読み、旅をすることだと。
手塚治虫は、君たち、漫画から漫画の勉強をするのをやめなさい。一流の映画を見なさい、一流の音楽を聴きなさい、一流の芝居を見なさい、一流の本を読みなさい。そして、それから自分の世界を作れ」と。
僕は、一流のものを見るとなると、どうしても古典だと思う。
しかし、根性が座らないと、集中して読めない。
ついに、現実の刺激を求め、現代の軽い本や面白おかしいニュースに時間を取られる。
一年振りかえると、何をしていたんだ、と情けなくなる。年ごとに時間が早く過ぎ去り、あっという間に、死が迫ってくる。人生80歳、90歳といっても、あっという間だ。
どうしたらいいのか。自分で計画して、自分との勝負をするしかない。
一時間ごとに何をするか、前日に予定をたて、どれくら守れたか、翌日、かなり合っていたら、脳のドーパミンが出るらしい。それに賭けるしかない。
11 つらい経験は人格をつくる?
「ビートルズやモーツァルトの音楽がどんなものかは、聴く以外ない。
ぶたれた時の痛さも、貧しくて充分に食べられない悲しさや苦しさも、仲間外れになる辛さも、欺かれたり、裏切られた時の悔しさも、そんな目にあって初めて分かる。自分に体験があれば、そういう目にあった人に同情出来る。
しかし、ここで大問題は充分な知識や情緒や形を得るには、実体験だけでは足りないということです。
一生の実体験は限られている。出会った人の数も限られる。言葉を交わした人はさらに少ない。深い意志の疎通を交わした人は家族を除くと、多くても両手の指で足りる。
しかし、私たちは、人間とはこういう状況でこういう行動をするとかの正しいイメージを持っている。持たないと、社会生活を送れない。知っている人は数名なのに、そんなイメージを持てるのは、映画やドラマ、読書などで、実体験を補強しているからです」と。
僕は、ぶたれたくない、悲しいのは嫌だ、貧しくなりたくない、といつも思う。騙されると、仕返しをしたくなる。
しかし、小説を読むと、登場人物になったつもりで読む事はできる。
本を多読するにつれて、この本では、こうひどい目にあっているが、あの本では、もっとひどい経験をしている。
不幸ナンバーワンからスリーぐらいまでイメージできれば、面白い読書になると思う。
12 見て見ぬふりをしていることが何と多いことか。
「藤原家の家訓があり、弱い者いじめは卑怯中の卑怯だ。弱い者がいじめられているのを見たらどんなことをしても弱い者を助けろ。必要なら力を用いても良い。見て見ぬふりをして通りすぎれば、お前は卑怯者だぞ」と。
たまに、車内で、眼の座った人を見る事がある。この人は正義の味方かもと思う時がある。
ぼくは、まだまだ、この域には達しないが。
また、
著者の祖父は、「一日に一頁も本を読まない人間はケダモノお同じだ」と、言う。
僕は、これだけは、何とか死守したい。たとえ忙しくても、一日一頁は読むと
。
13 人間には死があるから、AIに情緒では負けない?
「AIに知を組み込むことは可能ですが、情緒のすべてを組み込むことは不可能です。人間の深い情緒のほとんどは、人間が一定時間のうちに必ず朽ち果てる、死という悲しみに裏打ちされているからです。機械のコンピューターに死はないので、情緒を身につけることはできない。
AIは、人間の知識は量れても情緒を計測することはできないと思われます」と。
しかし、死なないAIに人間が左右されるなら、AIは神と同じではないのか。
14 教養に情緒が必要?
「これからの教養には四本柱がいる。
第一は、長い歴史を持つ文学や哲学などの人文教養、
第二に、政治・経済・歴史・地政学などの社会教養
第三に、自然科学、統計を含めた科学教養です。
さらに、これに加えて、情緒の修得が不可欠です。これが四つ目の柱です。
これらの四本柱に触れ、自らの血肉にするためには、どうしても読書が主役となります」と。
生きられる時間との勝負を考えると、素人が専門書を読む必要はない、と思う。
それより、古典や教養書や一般書をどんどん読んだ方が充実しているのではないか。