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歌謡曲を歌って、情緒力をつけよう

2019-06-21 14:46:56 | エセー

 著者は、餃子と豆大福が大好物で、これらを食べなくても、幸せな人生を全うできますが、口にせずに死んで行くの人を気の毒と思います。

 また、ショパンを聴いたり、童謡や歌謡曲を歌うのが大好きで、これらを聴かず、歌わなくても、幸せな人生を全うできます。でもそういう人々を気の毒に思いますという。

 

豆大福や歌謡曲が好きのようで、庶民的な知識人だ。

 

 

 ここ二十年間で本屋が半減した。かつては駅前に本屋があって、黒山の人だかりだった。

今や、近くに本屋はないので、電車に乗らないと行けない、不便な世になった。

アマゾンでは、手に取れないので、感触がつかめない。

 

しかし、1975年、著者がアメリカから帰国して、来日した友人は本屋の多さと立ち読み姿を見てエキサイティングな光景だと語ったという。

 

 江戸末期、江戸末期に来たイギリス人は、普通の庶民が本を読んでいるのを見て、この国は植民地にできない、と諦めた。

 

白人によれば、自国を統治できない無能な民のために白人が代わって統治してあげる、と言う。

読書は国防に関わる。書店数の激減は国の将来に暗雲が立ち込めている。

 

 本を読んで金儲けできるわけではない、幸福になれるとは限らない。しかし、チェーホフは、こう言う。

 本の新しいページを一ページ読むごとに、私はより豊かに、より強く、より高くなると。

 

 

僕も、デジカメが出来てから、写真を見直すことが少ない。電子ブックが出てから、もう一度、読もうとは思わない。本は手許に置いて、線を引きたい。

 

便利な世界になると、あれもできる、これもできると勘違いする。実際は、機械に時間を横取りされて一日が終わる。

 

 

 藤原正彦著 『国家と教養』

 

 

1 日本人も物事をすべて金で換算する?

 

「世界でも最も金銭崇拝から遠い国だった我が国が、あっという間に、物事を金銭で評価する国になった。

 弱肉強食で人心はすすみ、法律に触れない事はなんでもやる、ということになった。

 江戸時代までの日本では、町奉行のような裁判に携わる人以外、誰も法律を知らなかった。

 「お天道様が見ている」や「キタナイことはスルナ」で秩序が保たれた」と。

 

自分中心に世界が回っており、他人はどうでもよい、というのが現実です。

最近、警察官を刺したり、川崎で児童を殺したりと、いいニュースがありません。誰か偉い人が見ている、という感覚が薄れたからだろうか。

 

 

2 教養のない人がトップにたつと?

 

 

「20世紀初め、マックス・ウエーバーは、資本主義発展の最終段階では、精神のない専門人、心情のない享楽人が、自分達は、人間性のかつて達したことのない高みに登りつめた、と自惚れるだろう」と。

 その通りになりました。現代人は、科学技術や生産手段の進歩を人間性の進歩と勘違いしたまま、自惚れと傲慢に身を置いたようです。

 今やAIの時代で、下手をすると、コンピューターの言いなりに人間は動く時代が間近に迫っているのではないか。

コンピューターは死なないから、情緒がわからないのに。

 

 

 3 アメリカのやり方は卑怯?

 

 

「日本のバブル崩壊という災難につけこんだ新自由主義の強要は、ショックドクトリン(参事便乗型資本主義)と呼ばれ、新自由主義拡大のための典型的なテクニックだった。人々が茫然自失から正気を取り戻す前に、一気に体制を変えてしまうということです。ショックにつけこんだ卑怯な方法です。火事場泥棒です。

 

 

 小さな政府、規制緩和、民営化などを徹底してから、それらを米金融資本が買収して、その国を経済的植民地にしてしまう恐ろしい目論見です」と。

 

 かつての駅前商店街は店を閉じ、年間、かなりの自殺者に達している。これはアメリカのショックドクトリンが原因かもしれない。

 

 

4 世界中、教養がないから、中国の虐殺や侵攻を止められない?

 

「自由や人権のチャンピオンであるはずのヨーロッパは、中国との経済関係を考え、中国のウイグルやチベットへの人権蹂躙に口を閉ざしている。

 中国の南シナ海の軍事拠点化も同様。弱者や敗者への惻隠などはどうでもよいのです。世界中の99パーセントは利害得失で行動している」と。

 

 だから、教養がないから本能を制御することができないのでしょうか。

 

 

5 ユーモアがあれば、広い立場に立って考えられる?

 

 

「イギリスの貴族はバランス感覚とユーモアがあった。

 

 ユーモアを生むには、いったん自らを今ある状況から一歩だけ退き、永遠の光の中で俯瞰することが必要。

 イギリスはドイツのように行け行けどんどんではない。

イギリスには他人と違うことは恰好いい、という文化がある。

 

 イギリス人は、今も論理や理屈を余り信用していない。特定の教義に従うことがほとんどない。原理・原則より現実をみる。

 

 ジェントルマンかどうかは、昔も今もユーモアがあるかどうかです。

イギリスの本屋にはユーモアというセクションがあり、ドイツにはない」と。

 

困った時、すぐに出る名言があれば、ユーモアになるように思う。

西洋ではギリシャの古典が重んじられるが、日本では平家物語や、徒然草等の名文句を一文暗記して、当意即妙に出てくれば、やったー、と思うのではないか。

 

 

6 本当の教養人は国に一パーセントしかいない?

 

 

「19世紀初めに、ドイツで教養市民層ができる。裁判官、ギムナジウムの教師、大学の教師、など。金銭・功利を下に見る。アメリカと正反対。

また、彼らは、プロテスタントで、工科大学はパンのための学問だと軽蔑した。

 全体の一パーセントが教養市民層だと言われる。国をリードして、誰もそれを心配せずに」と。

 

日本もかつては、旧制高校があった。周りがみんな、岩波文庫を読む。だから、読まないと除け者にされる。

 友達とは、人生について、死について等を議論する。

 

しかし、今やそんな世界は消えてしまった。

マルバツ式の優等生に任せていいのか。

 

 

 

7 この先、科学技術の進歩でますます教養がなくなる?

 

 「19世紀後半に、ドイツは工業化しだして、大衆市民社会となった。ドイツ産業革命である。資本家と労働者が分離した。

 

 

科学技術の発達とともに、実学の地位が向上して、教養市民層が減って行く。

 そして、学問の専門化が起こり、バランスある教養を身につけるのが難しくなった。

 

文化とは、文学などの芸術を意味し、文明とは政治、経済、産業革命の結果生まれたインフララなどを意味します。文化が文明に優越する、というのが、当時の欧州インテリ間の共通認識だったが」と。

 

 

専門化は素人にわかる文章を書きたくないようだ。自分達のたこつぼ仲間の専門用語を見せびらかして、どうだ偉いだろう、と言いたいようだ。

 

これが一つなら何とかなるが、経済、法律、工学、農学等幾つも幾つも出てくると、問題だ。知識欲が薄れてしまう。

 

しかし、150年ほど前は、文化を重んじ、文明を軽視した。

だから、真の教養人が続出したのではないか。

やはり、文化・芸術をべースに好奇心を沸かせるのが筋だと思う。

 

 

8 乃木将軍の自決をどう思いますか?

 

 

「明治中期以降に生まれた教養層と、それ以前に生まれた教養層との間には、ちょっとした隔絶がある。

明治天皇崩御の大喪の礼の日(大正元年9月13日)に、乃木希典は自決した。それに対する評価です。

 

  明治中期に生まれた多くのの文人が「前近代的」「時代錯誤」と批判した。芥川龍之介は、『将軍』の中で、皮肉で嘲笑した。志賀直哉は殉死の翌日の日記に、馬鹿な奴だ、と。荒畑寒村は、精神病患者のたわごとのようなもの、と。

 

 

 対して、明治初期生まれの新渡戸稲造は、日本道徳の積極的表現、三宅雪嶺は権威ある死、西田幾多郎、徳富蘆花は、感動を覚えた、と。

森鴎外は、日本精神の原型である、と。

 漱石は『こころ』で、自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ」と。

 

おそらく、明治初期生まれの人は漢文に親しんで、人格を作っていたが、明治中期になると、漢文の教養はなく、西洋一辺倒にったからではないか。日本や中国の古典より西洋の古典だと。

 

よく考えると、今でも、その傾向がある。学校で漢文などは軽視されている。それよりも、小学校から英語を勉強しろと。

 

 

9 教養とはどれだけ感動するか?

 

 

「これからの教養とは、現実対応型の知識です。生を吹き込まれた知識、情緒や形と一体となった知識です。

 

 情緒とは、先天的に備わった喜怒哀楽ではない。それらは獣にもある。

 後天的なもので、その人が生まれてからこれまでどんな経験をしたかによって培われる。

 どんな親に育てられたか、どんな友達や先生と出会ったか、どんな美しいものを見たり読んだりして感動したか、どんな恋や失恋をしたか、等により形成される。

 

 形とは、日本人としての形、すなわち、弱者に対する涙、卑怯を憎む心、正義感、勇気、忍耐、誠実などです。論理的でないもので価値基準となるもので、獣ではない人間のあり方です。

 

 要するに、教養とは真善美に似ている。知が知識、情が情緒、意が意志や道徳です。情緒や形と一体となった知識がそれらに近い」と。

 

 僕は、情緒に欠けるが、これを読むと、情緒力をつけるには、歌謡曲を暗記したり、日々、美しいものを見て、どれだけ感動するかだ、と思い知らされた。

 

 

10 人生で大切な事は何だろうか?

 

 

「東京女学館女子中高の校長は、生徒に伝えたいのは三つの事で、読書と登山と古典音楽の愉しさだ。と言う。

 ある会社の社長は最も大切なのは、人と付き合い、本を読み、旅をすることだと。

 

 手塚治虫は、君たち、漫画から漫画の勉強をするのをやめなさい。一流の映画を見なさい、一流の音楽を聴きなさい、一流の芝居を見なさい、一流の本を読みなさい。そして、それから自分の世界を作れ」と。

 

僕は、一流のものを見るとなると、どうしても古典だと思う。

 しかし、根性が座らないと、集中して読めない。

 ついに、現実の刺激を求め、現代の軽い本や面白おかしいニュースに時間を取られる。

一年振りかえると、何をしていたんだ、と情けなくなる。年ごとに時間が早く過ぎ去り、あっという間に、死が迫ってくる。人生80歳、90歳といっても、あっという間だ。

どうしたらいいのか。自分で計画して、自分との勝負をするしかない。

一時間ごとに何をするか、前日に予定をたて、どれくら守れたか、翌日、かなり合っていたら、脳のドーパミンが出るらしい。それに賭けるしかない。

 

 

11 つらい経験は人格をつくる?

 

 

「ビートルズやモーツァルトの音楽がどんなものかは、聴く以外ない。

 ぶたれた時の痛さも、貧しくて充分に食べられない悲しさや苦しさも、仲間外れになる辛さも、欺かれたり、裏切られた時の悔しさも、そんな目にあって初めて分かる。自分に体験があれば、そういう目にあった人に同情出来る。

 

 しかし、ここで大問題は充分な知識や情緒や形を得るには、実体験だけでは足りないということです。

一生の実体験は限られている。出会った人の数も限られる。言葉を交わした人はさらに少ない。深い意志の疎通を交わした人は家族を除くと、多くても両手の指で足りる。

 

 しかし、私たちは、人間とはこういう状況でこういう行動をするとかの正しいイメージを持っている。持たないと、社会生活を送れない。知っている人は数名なのに、そんなイメージを持てるのは、映画やドラマ、読書などで、実体験を補強しているからです」と。

 

 僕は、ぶたれたくない、悲しいのは嫌だ、貧しくなりたくない、といつも思う。騙されると、仕返しをしたくなる。

 

 しかし、小説を読むと、登場人物になったつもりで読む事はできる。

 

本を多読するにつれて、この本では、こうひどい目にあっているが、あの本では、もっとひどい経験をしている。

不幸ナンバーワンからスリーぐらいまでイメージできれば、面白い読書になると思う。

 

 

12 見て見ぬふりをしていることが何と多いことか。

 

 

「藤原家の家訓があり、弱い者いじめは卑怯中の卑怯だ。弱い者がいじめられているのを見たらどんなことをしても弱い者を助けろ。必要なら力を用いても良い。見て見ぬふりをして通りすぎれば、お前は卑怯者だぞ」と。

 

 たまに、車内で、眼の座った人を見る事がある。この人は正義の味方かもと思う時がある。

ぼくは、まだまだ、この域には達しないが。

 

 

また、

 

 著者の祖父は、「一日に一頁も本を読まない人間はケダモノお同じだ」と、言う。

 

僕は、これだけは、何とか死守したい。たとえ忙しくても、一日一頁は読むと

 

 

13 人間には死があるから、AIに情緒では負けない?

 

 

 「AIに知を組み込むことは可能ですが、情緒のすべてを組み込むことは不可能です。人間の深い情緒のほとんどは、人間が一定時間のうちに必ず朽ち果てる、死という悲しみに裏打ちされているからです。機械のコンピューターに死はないので、情緒を身につけることはできない。

 

 AIは、人間の知識は量れても情緒を計測することはできないと思われます」と。

 

 

 しかし、死なないAIに人間が左右されるなら、AIは神と同じではないのか。

 

 

14 教養に情緒が必要?

 

「これからの教養には四本柱がいる。

第一は、長い歴史を持つ文学や哲学などの人文教養、

第二に、政治・経済・歴史・地政学などの社会教養

 

第三に、自然科学、統計を含めた科学教養です。

 

さらに、これに加えて、情緒の修得が不可欠です。これが四つ目の柱です。

 

 これらの四本柱に触れ、自らの血肉にするためには、どうしても読書が主役となります」と。

 

 

生きられる時間との勝負を考えると、素人が専門書を読む必要はない、と思う。

それより、古典や教養書や一般書をどんどん読んだ方が充実しているのではないか。

 


読書で言葉をストックして、自分流に変えてみれば

2019-06-10 14:42:14 | エセー

井上ひさしの『吉里吉里人』には、「チューイングガムのような男」という例が出る。するめなら噛めば噛むほど味が出るはずだが、これはその逆で、「つきあえばつきあうほど味がなくなる」という意味のようだ。

するめになった本は今までどれだけあっただろうか。

自分がいいなあ、と思う表現を見つけた時、パソコンにストックして、いつか、使うように心がけている。

 

 

 中村明著 『日本語の作法』

 

 

1 「大丈夫」と聞かれると、あなたはどう思いますか?

 

 

 「大丈夫の意味は拡散し、世代間で話が通じにくい。

 ある国語学者が髪を洗ってもらっている途中、美容師に「大丈夫ですか」と聞かれ、あわてて「大丈夫です」と叫んで立ち上がった。 

 店の側では、どこか痒い箇所か洗い足りないところがないかと確認するのが決まり文句だった。

客は自分の様子おかしいので脳か心筋梗塞で心配して声を掛けたのかと思ったようだ」と。

 

僕も、昔は散髪屋でよくそう聞かれた。しかし、最近は、「かゆい、ところはないですか」が多い。

散髪屋も誤解されると分かったのかも。

 

 

2 生きざまに違和感あり?

 

 

 「大岡信が嫌いな言葉として、生きざま、をあげ、谷川俊太郎も即座に同感する。近年、壮絶な、みごとな、立派な、という称賛の気持ちをこめた形容をともなってやたらに使われている」と。

しかし、これまでは、「何というざまだ」「ざまを見ろ」と、ずっと軽蔑の気持ちをこめて使ってきた「ざま」という意である。

 

やはり使いたくない言葉だと思う。

 

 

3 歴史ある言葉はやはり品格が?

 

 

「小津安二郎の映画『宗方姉妹』の中で、古くならないものこそ新しいと主張した。

 言葉についても同じだろう。読んでいる中に、一時期はやった新語・流行語が出てくると、その文章自体が、古風というより、いかにも流行遅れという古臭い感じに受け取られる。

もっとずっと古くから長い間使われて来たことばには感じられない黴臭いにおいである。その意味で、斬新なことばほど早く古びる」と。

 

現代、やたらと省略する言葉が多すぎる。ハイテクとかパソコンとか片仮名用語が目立つ。

しかし、百年たって、それの言葉は使われているだろうか。

 物だけでなく、言葉までも使い捨ての時代になったと思う。

歴史ある言葉をどれだけ使っているかで、本を買うかどうか決めるのも面白い。

 

 

4 あなたならどうする、自分宛てに往復はがきを出すと?

 

「往復はがきの返信用に、宛名が印刷されており、「行」とあるのを、返信する側が「様」「殿」などと書き換える慣用があった。

 近年、当人が自分の名にあらかじめ「様」をつけておく例も目立つ。相手が描き直す手間を省くが、非常識に見える」と。

 「行」のまま敬称なしに投函する相手が増えたのだろう。

「行」のままでいいのではないか。どうしても、自分に「様」はおかしい、と思うが。

 

 

5 一つの言葉の選択で感じがまるで違う?

 

 「しみじみとした「秋の夕暮れ」が、「秋の夕方」となると、物思う気分が薄れる。まして、「秋の夕刻」となると、忙しい感じで、忘れていた用事を思い出すかもしれない」と。

 

修飾語なければ、イメージにさほど変わらないが、秋の、つけるだけで、言葉がカメレオンにみたいに変身する。

 

そのために、何となく思いついた一語でまかなうよりも、時には辞書を引いて、関連語意の中からこれぞと思う一語を選び出して据える練習をしてはいかがだろうか。何度も引くうちに、自分の意図にぴたりと合致する言葉に近づく。

これが、うまい文章を書くこつだと思うが。

 

 

6 出来るだけ同じ言葉は使わないのが上品?

 

 

 同じことばを何度も使うと、いかにも語彙が貧弱に見える。

 井上ひさしは、『自家製文章読本』で、「上品なスペイン語の文章では一頁のなかに同じ単語が二度あらわれてはならない」とされている。「谷崎は文章について語っているつもりで、実は形式について」と書いた後、「語っている」という表現をやめて「云々していた」よ結ぶ」と。

 

これは、普段の読書力で語彙力を養うしかないようだ。

 

 

7 敬称をつけるかどうか問題だ?

 

 

 「プラトン、ナポレオンのような歴史上の人物に敬称をつけない。藤原道長、徳川家康など。近代以降では「吉田茂」「太宰治」のような著名人は一般に呼び捨て。日ごろ、自分には縁遠いからだろう」と。

 

しかし、今、生きている人には、敬称をつける。本人が読んだら、失礼だと思うからだろうか。

しかし、余りにも身近な友達は敬称はいらないが。どこで線引きするか難しい。

 

 

8 外国語を読む時は速読の方がよく理解できる?

 

 

 「辞書と首っ引きで長時間読んでいる時はよく理解できない文章が、さっと通読すると案外すっとわかる。

 こういう論理的には不可思議な経験を、外山滋比古は残像という映画になぞらえて説明。

 一つ一つのことばが静止している間に表現的空白がある状態は、映画のフィルムに似ている。

それを一定の速度で映写すると、残像の働きで画面が動いているように錯覚する。

 本を読む場合もある程度のスピードがないと、この残像が働かない。いちいち辞書を引きながら読むようでは、イメージが繋がらない。場面として浮かばないから全体の意味が理解できないのではないか」と。

 

 

外国語を読む場合、どうしても、辞書を引いてしまう。そして、さっき何が書いてあったかを忘れてしまう。

 

しかし、引きたいのを我慢して、推理しながら読むのは脳活性化にとてもいいと思うが。

 

一つの文章の長さによって、速読できるかどうか判断してはどうだろう。

ちなみに、中村氏によると、一文の長さは

「文芸雑誌は四十字台、硬い総合雑誌は六十字ほど、専門的な学術雑誌は平均七十字を超える結果になる」と。

 

だから、小説やビジネス本などは、字数がこれよりもっと短い。速読に適しているようだ。

 

 

 

9 自分の鼾が聞こえるようになると、やはり、老人になったということか?

 

 

内田百閒の『山高帽子』に自分の鼾を聞く愉快な話がある。音が年々大きくなって、この頃では「毎夜自分の鼾を聞いて眠っている」「咽喉にひっかかるかすかな節も、にぶい調子の高低も、おぼろげながら耳の中に記憶がある」し、起きていてもその節と調子を真似ることができるという。

 

 

10 あなたは、どんな時に季節が変わったなと感じますか

 

 

詩人の長田弘は「季節は街に、和菓子屋の店先から来る」と。

 店の硝子戸に新しい菓子の名を筆で書いて貼ってあるあるのを見ると、「ああ、季節が変わった」と思うというのだ。「うぐいす餅」「若鮎」「水ようかん」「お萩」「切山椒」などと書いた貼り紙に、季節を感じたようだと。

 

僕は、風の匂い、音に感じますが。

11 禁止の貼り紙などはしない方がいい?

 

 地主が「自動車捨て場」と表示したら効果覿面、一発で問題が解決したという。駐車されればその車の所有権を放棄したことになるから、乗ろうとして車の姿が見えなくなっていても文句の言いようがない。凡人が車を置かせまいとして知恵を絞るのと反対に、むしろ車を置くように誘う、この逆転の発想はすごい。

 

 

僕も、普段、街を歩くと、神社マークを柱に貼って、小便禁止とか、よく見かけるが、反対に余計にされてしまうのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


身の回りは依存症だらけ?

2019-05-29 18:25:38 | エセー

自分の身の回りをよく見ると

 てれびCMをはじめとする広告は、カモを誘い出す絶好の機会で、ひとり依存症のカモが見つかれば、その人間から生涯にわたって毎年数万円を吸い上げることができる。

 

 

このネットを見なければ、この商品を買っていなかったとか、テレビを見なかったら、こんな食べ物買わなかったなど何と多くあることか。

 

テレビやネットは光線を出している。あの光に人間は、弱いのだ。見ないように自制をかけにくい。

 

また、この「はまる」という言葉を聞くと、身の毛ががよだつ嫌な言葉だ。

何時頃から、この言葉が流行り出したのか。

 

現代は、何かにはまる依存症の社会になっている。携帯、メール、アルコール、テレビ、インターネット、パチンコや競馬などのギャンブル、甘い物、ゲームなど、数え上げればいくらでも出てくる。

その依存症の誘う大きな原因がテレビのコマーシャルやインターネットの広告ではないか。

普段から、何気なく見るとひっかるように出来ている。危ないな、と用心しないと、いつ、広告の奴隷になるかわからない。

 

特に、ひどいのが、アルコ―ル、パチンコ、ゲームが目立つ。

 

和田秀樹著 『「依存症」社会』

 

1 テレビのコマーシャルでアルコールの宣伝をして、自殺者が増大?

 

 「マスコミは、飲酒運転の事故でなくなると大騒ぎするが、アルコール依存症で毎年何千人もの人間が自らの死を選んでいることには言及しない。何か恣意的な意図があるのではないか」と。

 

かなり、アルコールで鬱を引き起こし、自殺者が出ているという。

新聞やテレビでは自殺したということはあっても、なぜ、死んだのか、を言わない。

それを言うと、コマーシャルのスポンサーから相手にされないからだ。

日本では子供から大人まで、テレビで言っている事を本当だと信じている人が多すぎる。

 

 テレビを見る時は、健康番組でも、なぜ、今、この食べ物を何度も勧めるのか、考える必要がある。反対に、これを食べると、欠点は何なのかと。

 

 

 街の至る所でビールなど自動販売機が設置され、コンビニでも簡単にアルコールを買うことができる日本は特殊のようだ。

 これほどアルコール飲料のCMが日常的に流されているのは先進国では日本だけ。

 

 

 アルコール依存症になりやすいのは、キッチンドランカーのように、原則的に家でひとりで飲んでいる人で、ひとりで鬱々と飲んでいるうちに、アルコールが抜けた状態ではいられないようになり、常にお酒を口にするようになるようだ。

 

 

 

2 パチンコ依存症になると、平気で炎天下の中、車に赤ちゃんを放置してしまう?

 

 

帚木蓬生氏によると、いまや日本のギャンブル依存症は200万人、その九割はパチンコ・パチスロ関連だという。パチンコ産業の約19兆円もの売り上げは、200万人のパチンコ・パチスロ依存症から吸い上げている。

 

 

 炎天下で車に赤ちゃんを放置する件が多発。これは、パチンコをすることだけしか考えていない人間が、赤ちゃんまで気が回らくなったからです。

 

 また、借金してでもする。こういう神経になるのは、明らかに病気ではないか。

 

世間では自己責任で片づけるが、何とも冷たいイメージがするが。

 

 

  台湾や韓国でも、以前は日本同様に、パチンコが大流行。

 しかし、あまりに熱中しすぎて、事件を起こし、社会問題になったので、台湾では台北で全面禁止。その他では、まだ、残っているようだ。

 韓国では、2006年に換金が禁止され、事実上パチンコ産業は崩壊。

 

 それで、韓国のパチンコ依存症に人は、お金を持っている人だけが、ツアーを組んで、日本へ来る。東京見物も京都見物も富士登山もしないで、パチンコ店へ行って打つだけのツアーだという。

 

日本では駅前に堂々とパチンコ屋がある。朝の開店前から並び出す。生活保護を受けている人が多いという。

そして、子供を熱中症で殺してもやめられないパチンコ。

 

 

 3 ゲーム依存症でこれからの日本の知能はどんどん低下する?

 

  OECDPISA(生徒の学習到達度調査)では、2000年に日本は数学リテラシーが世界でナンバーワン。

 2006年に十位。

そして、その後、急降下している。いまだに日本は世界でも有数の偉い民族だ、と信じている人がいるが、若い世代を見れば、世界有数どころか、アジアの後塵を拝するレベルになっている。

 その理由は、ゆとり教育だった。

 また、ゲーム依存症が100万人いるという。その影響もあるようだ。

 

4 依存症ビジネスで成立する日本に将来はない?

 

 

日本が世界を席捲する工業製品を生み出して来た時代は、モデルチェンジするたびにマイカーを買い換え、一、二年でマイナーチェンジする家電製品を揃える消費者がいたから、新製品の開発が進み、高品質の製品を生み出せた。

 

 

  日本には依存症ビジネスがあふれている。アルコール、パチンコ、ゲーム、携帯電話・・・・・、いまや成長産業は依存症ビジネスばかりです。健全な消費が減少する一方で、依存症消費が増加している日本。

 

 

 今、ラインの通知があると、すぐに返答しなければならない、という強迫観念がある。そうなったら、依存症の予備軍だと言えるのではないか。


昭和史について

2019-02-12 14:35:14 | エセー

スマホ等の新製品が出るとすぐに買ってしまう人がいれば、様子を見て買う人、全く買わない人に分かれる。

 

半藤一利氏はケイタイ、パソコンを持たない主義だという。

それで、よくあの多くの書物を書けたものだ、と思う。手に豆ができないのか。

 

 半藤一利著  『昭和史を歩きながら考える』

 

 

1 電話大嫌いな半藤氏

 

「1878年に電話が初めてでき、1902年に加入者が一万二千人となった。

 

 ならば漱石先生も、と推理したがあてがはずれた。作品には電話登場の場面がほとんどない。

 

 『吾輩は猫である』にちょっとあり、 『それから』に一箇所だけ。

漱石は、ことほか電話を嫌った」と。

 半藤氏も電話嫌いで、かかってくると気分が悪い。ケイタイも持つ気がない。この間も、頼み事を聞いているうちに、相手がどのくらい真剣に頼んでいるのかわからなくなって、思わず、「目には目に程にものを言い、といってな。キミの目を見ないで、電話だけでOKするわけにはいかない」とやったら、受話器の向こうから冷やかすように、

「センセイ、そん上から目線で断らないで下さいよ」と。「クソッ、オレの目が電話で見えるのかよと、余計に腹が立った」と。

 

 

 

2 大阪の女性の声が美しいなんて?

 

「谷崎潤一郎が最も賞揚しているのは、大阪人の、それも女性の声なんである。全体として東京人より大阪人の声の美をみとめ、公平にみて、男は五分五分であるにしても、女の声は大阪の方がよろしい、とはっきり書いている。

 

 しかも大阪の女性は、十の事を三つしか口にしない。残りは、沈黙のうちに仄かに漂わせる美しさで表しているという。

 

今の日本、とにかくテレビのおかげで、全国一律、その土地独特の言葉が失われて、いわゆる標準語なるものに統一され、旅がちっとも面白くないが、大阪人は違う。頑固に昔ながらの言葉を使っている。そこがすごぶるいい」と。

関西に長年住んでいると、そんなこと思ったこともなかった。

 谷崎氏も半藤氏も関東の人だから、物珍しくそう思っているのではないか。

 

確かに、旅行すると、何処もここも、同じような店ばかり。味もどこもマニュアル的。話し言葉も標準語が多い。

そんな中、関西だけがやはり、特別である。エスカレータも右に位置し、左を急ぐ人のためにあける。

 

3 野球の珍プレーは面白い

 

半藤氏は、「プロ野球はツバメファンである。国鉄スワローズの「ピッチャー金田、キャッチャー谷田、ファースト飯田・・・」なアナウンスが耳の底にある。

 

 昭和35年の夏、駒沢球場のオリオンズとフライヤーズの試合で、八回裏、2アウト満塁で、打者山内が空振り三振、が、捕手後逸し、球はバックネットへ。山内は猛然と一塁へ走り出した。

 何を勘違いしたのか、守っていたフライヤーズの内外野手全員がベンチに引き揚げてしまった。

 だれも守備者のいないダイヤモンド。三つの塁を埋めていたオリオンズの走者が、エッサエッサと走り出し、次々と本塁を踏み出した。

 

 振り逃げの山内まで鈍足で走ってホームイン。三振で一挙四点で逆転、という珍プレーなのである」と。

 

 こんな珍プレー初めて、聞いた。ビデオあれば是非見たい。

 

5 テレビを見るのは時間の無駄?

 

「いまは亡き作家の深沢七朗さんの言葉に、テレビに出るヤツは二流、出たがるヤツは三流、つくるヤツは四流であり、一流の人物はテレビには決してかかわらぬ、というがある。

 

 半藤氏の経験によると、テレビ局へ行く時間、待ち時間、打ち合わせ時間がとてつもなく浪費される。ビデオ撮りだと、カメラが何度も回され、実際の画面に映る数十倍の時間がかけられる。テレビとは、莫大な時間を必要とするご苦労な、無駄の多い仕事である。

 

 政治家はあんなに何にでも出てワイワイやっていれば、政治家としての国家百年の経綸を考える時間はない。人気商売で、頭の空っぽそうな顔を売っているだけである。

 

 どうもテレビは、つくるヤツは馬鹿、出るヤツはもっと馬鹿、そして観るヤツは・・・・・だ」と。

 

昔、ジャーナリストの大宅壮一氏は、テレビが出来た当時、日本人一億の総白痴になると、言った。

何も考えられなくなるからだろうか。

しかし、今やテレビよりもっと刺激の多い、インターネットがある。

将来、認知症になる人が今後、ずっと、増えるのではないか。

 

6 今、降っている雪も大きな目で見ると、環境破壊を防ぐ?

 

 「今、自然破壊や環境破壊やら、工業技術文明の無茶な開発や汚染から、日本列島の約半分を守ってくれるのが雪だそうだ。次の時代のため、日本文化の原始性と自然の美しさと有難さとを、雪は温存してくれている」と。

 

 

7 あなたはお守りを持ちますか?

 

 「千人針の日本兵を中共軍は実によく観察している。昭和15年、日本の上海特務機関が秘かに入手した八路軍の秘密文書によると、これこそが日本軍隊の弱点と指摘する。

 

 日本軍兵はほとんどがその身体にお守りとか、千人針をつけている。お守りがあれば弾丸がそれて死を免れるとか、千人針があれば、千人力を合わせて彼を助けてくれるに等しいとか、いざという時に怪我をしないとか、日本将兵は思っている事だ」と。

 

日本人が無宗教でも、元旦に神社へ行くのは、お守りを買うために行く人もいるからだ

と、思う。

 

また、何かと縁起を担ぐのも、占いに凝る人が多いのも、外人から見ると、弱点に見えるようだ。

 

 

8 絶対という言葉を使う人は信頼おけない?

 

 半藤氏は戦後、「絶対」はないんだと。「絶対に日本は勝つ、とか、絶対に神風は吹くとか、絶対に自分の家は焼けないとか。この日以来、一度も絶対という言葉を使いません。本を書く時もこの言葉を使ったことはない」と。

 

これを、読んで、高校時代の戦争に行った古典の教師も同じ事を言っていた、と思い出した。

 

今や、新書を見ると、絶対に・・・とか、必ず・・・と、平気で使う人がいる。

こんな時、この言葉を思い出して、本を買うかどうか判断すればいい。

 

9 短く話すのは、知的な衰えか?

 

 半藤氏はケイタイ、インターネット、メールにも無縁である。

「小さい画面をいつも相手にしているせいか、この頃の日本人は短く断言的に、喋ったり書いたりするのが得意である。

 

 ものを書く時も、怒っている調子で、短く書く。さあ、どっちだ?とやる方が読者に歓迎される。論理正しく丁寧に、というのは投げ出されてしまう。勝ち誇ったように、「ドーダ、わかったか」とやるのである。それらは見る、聞く言葉ではない。昔から日本人は割り切ること好む。改憲か護憲か。靖国参拝賛成か反対か、反米か親米か。昭和史はそうした割り切りの連続で亡国へ突き進んだ」と。

 

 

この箇所を読んで、現代人は、少し待たされると、駄目でイライラする。スーパーのレジに並んで、前の客が財布を探し出し、横のレジに後から並んだ人に追い抜かれると、爆発しそうな表情にならないか。

 

これも、スマホなどのせいかもしれない。

また、新書もそうだ、と思う。簡単にスラスラ読める本が大流行りで、少しでも、難しい事を書くと嫌われる傾向がある。あっという間に読めるが、後に、残るものはほとんどない。

 

 

10 「・・・流」は軽蔑の意味があった?

 

「当初、「流」という言葉を誉め言葉と思っていたが、そうともいえない。

 

 漱石の『木屑録』に、「もし、漢文センセイがこの屈曲の二字を見たら、きっと書き間違いとおもうぜ」と。

 

 高島氏の漱石の漢文の訳だが、漱石が「漢学者流」と書いたところを、わざわざ「センセイ」と片仮名にしたのは、冷やかしととっているのである。

 

もう一つ、漱石は髪飾りをやたらひらひらさせている女ども、という意で、「巾かく者流」という言い方をしている。これでみれば、「流」にはかなり軽蔑の意がこめられていた。

 

 つまり、女流作家とは、その昔は男の世界に土足で踏み入れてきた余計なことをする女の意であったと見るべきではないか」と。

 

 

 確かに、男流作家なんて言葉を聞いたことがない。女流の流が軽蔑の意味があったとは意外だった。

 

 

11 現代は、バラバラ事件当たり前?

 

 

「年の瀬になると世情は殺気立つ。ここ五、六年、日本中で残忍な事件が多くなった。昔ならバラバラ事件など全くなかったから、そんな残忍な事件があると日本中が大騒ぎになったのに、いまはしょっちゅうあるから、誰もびっくりしない」と。

 

どうして、こんなことが起こるのか。移民がたくさん入って来たからではないのか。

そして、自殺者も年間、何万人も死んでいる。JRの遅れは当り前になっている。

人を殺したり、自分の死が本当に軽くなってきた。

 

12 今の若い者は、と言い出すのは伝統的?

 

 「いまどきの若いやつは・・・」とくさすのは、ソクラテスの時代だからそうだ。その通り場は、無気力、無関心、無責任の三無主義を叱る言葉。これに無感動、無教養、無作法の三つが加わると完璧になる。おまけに、無協力、無行動もプラスしておけば、もういうところがない」と。

 

若い頃から、何度も聞かされた言葉であるが、十代の青年まで、一年下の後輩を、俺の時代は・・・、しかし、後輩ときたら・・・という。

 

老人に限らず、あらゆる年齢層で発している言葉ではないか。

ソクラテスの時代からそうだったとは、使った方が誇りらしく思えてきた。


幸福とは

2019-02-06 14:58:42 | エセー

 内村鑑三著作全集 20

 

 

1 内村鑑三の読書観とは?

 

 「読書の他、これぞという道楽なければなり。読書と散歩、書籍を読みし事を歩きながら考える事、これ余をしてこの世に存在せしむる唯一の快楽なりとす」と。

 

内村鑑三もそうだが、漱石も散歩を好んだ。本を読んで、じっとしているのはもったいない。すぐに、外の景色を見ながら、考えよう。

また、

  「余の終生の希望は、閑散の地において妨害なしに書を読まん事なり。

 

 Give  me  a  nook  and  a  good  book.

 余に隠遁地と良き書を与えよ。これ実に余の熱望の声なり。余は死する前に一年たりともかくのごときの極楽的境遇を味わいたきものなり」と。

 

 今や、隠遁地は自分の思い次第で、持てると思う。日々、公園を歩いて、樹々の色合いも変る。それを感じるために散歩するのもいい。

 

一方、良き書というのは、少しの油断で見つけられずに一日が終わってしまう。

インターネットをし出すと、メールを見たり、どうでもいい情報が大量に入って来る。時間泥棒の見本みたいだ。それらに時間を盗まれてしまう。そして、十年、二十年が過ぎ、死の間近になって、今までの人生は何だったのか、と後悔だけはしたくない。

 

 

 「余はなるべきだけ眼力を節用し、貴重なる視力と時間を、害多くして益少なき新聞雑誌等の濫読に消費することなく、未来永遠にまで余を離れざる智識を世に供する大著述の熟読に従事せんと期しつつあるなり。

 

 豊太閤の寵臣、曽呂利新左衛門は言うた、世に最も多きものは人であって、また最も少なき者は人であると。そのごとく、世に最も多きものは書物であって、また最も少なき物は書物であると言うことができる。世に善人の少ないように、善き書物は少ない。しかして善人に会うは大なる幸運であるがごとくに、善き書物に接するは大なる幸福である。善き書物は実に稀なるものである。百冊の中にまたは千冊の中に一冊の他、見あたりにくいのである。

 

  余の読書の趣味は随分広くあると思う。エドマンバークにおけるがごとく、種々の読書熱が説きを替えて来る。ある時は詩歌熱、ある時は歴史熱、ある時は科学熱、ある時は考古学熱が来る。

しかし常に多少存在する熱は聖書熱である。

 

 ただかつて一回も来ることのないのは小説熱と法学熱である。余は生まれながら小説とてはただ一冊読んだだけである。それは有名なる『アンクル・トムス・ケビン』の著者ストウ夫人の筆に成れる「わが妻とわれ」と題する英文小説である。

 

 余にとりては、小説は虚偽であるからおもしろくない。法律は情がないからつまらない。余の脳と心とは、小説と法律とにはどうしても向かない」と。

 

内村は新聞も時間の無駄、と考えていた。本当の良書は、最低でも百冊を読まないと、出会わないという。内村の読書歴をみると、かなり、英文を読み、古典を読んでいる。それでも、そういう状況だ。

 

 現在では、千冊読まないと、出てこないのではないか。

やはり、以外なのは、小説をかなり嫌っていたという事。虚偽を嫌う内村らしい。また、法律は無情だから、嫌だと。

 

2 内村の英語の勉強法とは?

 

「単語一々の詮索よりもむしろグループス内容の理解を先にし、また形式的文法の規則を覚えるよりも、英語そのものをみずから使ってみてこれを理解し、そしてその理解を新しい英文の解釈に応用させるというスコット氏のメソッドは、私たちに対してきわめて有効であった。かように、読んでは使い、使っては読むという流儀で、両面相補って行くという教授法に対して、私は今もなお大いに感謝している」と。

 

漱石の文法重視の英語勉強法とは違うようだ。

要するに、名文を読んで、声に出す。その繰り返して、体で覚えることだろうか?

 

 

3 平凡が幸福である?

 

「偉人リンカンは言うには、

 

 神は最も多く平凡の人を愛したもう。しからざれば、彼はかくも多く平凡の人を造りたまわざりしならん、と。

平凡の人たるは決して小なることではない。これは億兆と運命を共にすることであって、神の特殊の恩恵を味わうことである。

 しかるを、この事を忘れて、ただひたすら非凡の人たらんと欲し、競争また競争、世界第一の人とならんと欲するが故に、我らは無益に心を労するのである。

 

 見たまえ、今のいわゆる学士または博士なる者を。彼らは高等の奴隷にすぎない。高等教育を受けしがゆえに、独り立つことの出来ない人となった。彼らは、政府か、会社か、富豪に頼らざれば、単独でこの世に立つことはできない。彼らのは彼らを縛る強きなわである。彼らは、これあるがために、信ずることを語るあたわず、思うことをもなすあたわず、黙し忍びてその地位を保つのである」と。

 

毎日、平々凡々と暮らすと、これでいいのか、と思う

人はほとんど、凡人にできているようになっているが、すぐに、周りの情報に左右され、思っていない事をすることがある。

 

 

大学を出たから、出世しなければならないとか、今は課長だから、来年は部長にならなければならないとか、世間の取決めに従うと、思わぬ失墜に出会う。

 

もし、神がいるとするなら、人間は何と無駄な競争をして、日々苦しんでいることよ、と憐れむだろう。

 

中島義道氏の言うような、半隠遁生活もなかなかなものだと思ったが、内村は隠遁は否定する。

 

そして、  

 「労働は決して、労苦ではありません。労働は快楽の最も大なるものであります。われに従属する者を養うことであります。しかるにこの快楽を与えずして、他に飲酒の快楽であるとか、観劇の快楽であるとか、懶惰な快楽であるとか、何の益を供するをもって、これが孝であり愛であるといのであります。

 

 労働は憂苦を忘れさせます。労働によって、貧者は貧の憂苦を忘れ、老人は老の憂苦を忘れるのであります。しかるにこの忘憂剤を持たない者は、何でも、自分の不平の原因を他に嫁そうといたします。

 

 日が出ても労働の希望がなく、日が入っても労働の収得なく、ただ、目的なしに日を送るくらい、そんなつらいことはありません」と。

 

内村の言う労働とはどうやら、農業を重視していたのではないか。

 

 

4 仕事とは?

 

「ためる金とたまる金との間に多くの差異があります。わずかに「め」と「ま」との差異でありますが、しかしその間に天地の差があります。

 

 世間に対して義理を欠き、雇い人に対しては慈悲を欠き、わが身の自由、修養をまで欠いてためた金であります。

 それはためたのではなく、盗んだのであります。

金をためたとは申すものの、実は災害をわれとわが家と積んだのであります。

 

 これに反して、たまった金は自然にたまった金であります。為すべき事をしてたまった金であります。これは正直なる労働の報酬として、天がくだしたもうたものであります。受けて何ら危険もないものであります。そうして天は必ず正直なる労働に報います。

 

 私どもは金をためんとあせるべきではありません。働いて、天が恵みをくだしたまうその時を待つべきであります。

 

 

  今の人のたいていは、商売は戦争の一種であるように思い、機に乗じ、計略をめぐらし、こすく、すばしこく出でなければ成功は望めないように思えております。しかし、これは大なる間違いであります。

 

 商売は正業であります。戦争ではありません。戦争は他を倒して成功するものであります。

 

 商売は、他を益しておのれも成功するのであります。害を他人に加えざればおのれは成功するあたわざるような、そんな事業には決して従事すべきではありません。

 

 いわゆる「商戦」と称して、他を突き倒し、その失敗に乗じて、おのれの利益を収めんとしまする。実に人は鬼であります。そうして多くの商売人は鬼であります。かかる人々に、永久の成功と幸福との来たりようはずがありません。

 

 商売成功の秘訣は、志士人人の心をもってこの業に従事することであります。

 

 米国のリンカーンの申したように、

 

 何びとに対しても敵意をはさむことなく、万人に対して善意をいだいて

 

この正業に従事することであります。それで成功が来ないものならば、成功を求めません。しかしそれで成功の来ないはずはないと信じます。

 

 

 成功の秘訣

 

 ・ 自己にたよるべし。他人に頼るべからず。

 

 ・ 急ぐべからず。自動車の如きも、なるべく徐行すべし。

 

 

 ・成功本位の米国主義にならうべからず。誠実本位の日本主義に則(のっと)るべし。

 

 ・濫費は罪悪なりと知るべし。

 

 ・ よく天の命を聞いて行うべし。みずからおのが運命を作らんと欲すべからず。

 

 ・ 誠実によりて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。

 

 ・ 清潔、整頓、堅実を主とすべし。

 

  人もし全世界を得るとも、その霊魂を失わば、何の益あらんや。 人生の目的は金銭

 

を得るにあらず。品性を完成するにあり

 

 経済学者は言う、生産は労苦なりと。されどもキリスト信者は言う、労働は快楽なりと。世に造るにまさるの快楽はない。米を作るの快楽、麦を作るの快楽、野菜を作るの快楽、真正の農民は知っている。農業は大なる快楽であることを。

 

 機械と作るの快楽、衣服を作るの快楽、家屋を作るの快楽、真正の工人は知っている、工事は大なる快楽であることを。

 

 文を作るの快楽、書を著すの快楽、雑誌を編集するの快楽、真正の文士は知っている、執筆は大なる快楽であることを。

 

教授であることの快楽、説教の快楽、伝道の快楽、天下何ものか人物養成、霊救済にまさるの快楽あらんやである。造ることはすべて快楽である。

極上の快楽である。この快楽を知らない者は人生を知らない。造って、造って、造り続けて、人生の限りなき快楽をさとることができるのである。

 

 神の快楽たる造ることの快楽、これが信者の快楽である。物を作ること、思想を産むこと、霊魂を救うこと、これが信者の娯楽である。この娯楽ありて、他の娯楽もいらない。旅行の娯楽もいらない。世人の言う娯楽にして、物を作るにまさるの娯楽はない。

 

 さらば作らんかな。働かんかな。産ぜんかなである。あるいは台所において、あるいは工場において、あるいは机に対して働かんかな。あるいは手をもってして、あるいは口をもってして、あるいは脳をもってして作らんかなである。

 

 造物主の子供は物を造るをもって楽しみとする。物の大小、尊卑を問わない。造るのが名誉であって、また快楽である。造らんかな、しかり、造らんかな。」と

 

これを読んで、

物を造ることが、大いなる幸福への近道だとわかる。日々、ブログを更新することもその一種と思いたい。

 

新聞や電車の広告に商戦という言葉を何度も見たことを思い出した。

よく考えると、商売で戦争するとは相手を殺す事で、本当に恐ろしい言葉だ。

 

溜まる金とは、どういうことか。自然に働いて溜まることのできるのは、農業や漁業などしかないのではないか。

 

溜める金は相手を出し抜く意図が裏に潜んでいる。

 

今は、何でも、アメリカを手本にして、ビジネスを始める。

第二次大戦後、日本の企業は家族主義で、年功序列だった。今や崩壊寸前である。だから、誠実さを忘れてしまった。

戦後の日本の社会に後戻りしていいのではないか。

 

グローバリズムは日本には合わないように思う。

こんなに、多くの中国人や、韓国人、他の国々の人々が来日来たのは、日本歴史始まって以来のことではないか。

犯罪率もかつてと比べ、増加しており、殺し方もえげつない。ばらばら殺人を平気でする外国人がいる。

 

 

5 主義は持つべきではない?

 

「今や雑誌を発行せんと欲する者は必ずまずその主義を問われる。いわく世界主義なるか、あるいは国家主義なるか、あるいは平民主義なるか、あるいは君主主義なるかと。主義の、新聞雑誌に必要なるは、商売に看板の必要なるがごとし。

 ゆえに、吾人に向いて問わんとす。なんじは何主義かと。

 

 吾主義?

吾人の主義は正直なるにあり。核心ありのままを語るにあり。吾人はさらに主義なきをもって答えんとす」と。

 

現代も、右翼なら正論、ボイス、ウィル、ハナダ、等の雑誌を読み、リベラルなら、文芸春秋、中央公論など、読めという。

しかし、そこの雑誌にはいつも同じ顔触れが並んでいる。そして、右翼は原発に反対しなければならないとか、リベラルなら、フェミニズムに賛成でなければならないとか、勝手な思い込みがある。

 

ぼくは、左翼であっても、原発は反対だと言えたり、右翼であっても、フェミニズムは賛成だと言える空気が日本にはないと、思う。

 

やはり、主義を持つと、「―は、何々だ」と断定する人が多い。これは、大きな誤りだと思う。