教養とは himeshimakun3800.blog.fc2.com/blog-entry-14.…
— 山田一郎 (@jungle488) 2018年6月21日 - 06:01
見るということ himeshimakun3800.blog.fc2.com/blog-entry-12.…
— 山田一郎 (@jungle488) 2018年6月20日 - 14:01
見るとは goo.gl/6mRBmV
— 山田一郎 (@jungle488) 2018年6月20日 - 14:01
からだを拗じ向けたり、手を延ばして年寄が三世相を見るようにしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと膝が揺れて険呑でたまらない。
— 山田一郎 (@jungle488) 2018年6月20日 - 14:42
新渡戸稲造精神を高校で復活できないのか himeshimakun3800.blog.fc2.com/blog-entry-13.…
— 山田一郎 (@jungle488) 2018年6月20日 - 20:32
新渡戸稲造精神を復活したいが goo.gl/Mjzh5k
— 山田一郎 (@jungle488) 2018年6月20日 - 20:33
清水唯一 『近代日本の官僚』
1 1870年、七月二十七日、「大学南校に貢進生を置く」が発せられた。大学南校は、藩書調書、開成所を継ぎ、東京大学の前身となる洋楽教育機関である。政府は、各藩に、洋学に通じた秀才を同校に送り出すように命じた。
2 貢進生とは、各藩の代表を意味する。各藩は面子があり、他にひけをとらない優秀な青年を出さなければならない。秀才を一堂に集めれば、優れた人材が生まれる。体面を重んじる藩と競争心旺盛な青年の志向を踏んだ周到な施策だった。
政府は学費から寮費、書籍代まで大金を藩が賄うように命じた。人材と財政に悩む政府に一挙両得だった。
各藩は重い負担だが、他藩との競争意識は並々ならぬものがあった。大学南校は全国の秀才が藩の名誉を背負って競い合う場となった。
(日本人は今でも高校野球を行っている。これは郷土意識の現れだが、明治時代と変わっていないとわかった。故郷への思い入れと、教育熱心さは依然すごい。)
4 貢進生の代表が小村寿太郎だった。飫肥藩出身で、第一期文部省留学生となり、ハーバード大学へ留学。
小村寿太郎に次ぐのが、鳩山和夫。美作真島藩一万石出身。十五歳で選抜され、「記憶力が抜群な人物」で、年長者を追い越し、ついには小村さえをも超え、最優秀生として、第一期文部省留学生の筆頭となった。イエール大学ロースクールで日本人初の方角博士号を取得。
鳩山は、イエール大学のやり方をそのまま、判例を題材に学生と議論するソクラテスメソッドを採用。学生と向き合った。鳩山ゼミは人気あり、加藤高明、鈴木充美、岡山兼吉など、近代日本の法制を担う人材を育てた。
(鳩山和夫が今の鳩山由紀夫の祖父だ。)
5 第一回留学生がアメリカへ向かい、第二回は全員がイギリスへ留学した。当時、イギリスは世界最大の帝国で、アメリカはいまだ発展途上国であった。
(第一回留学生はアメリカへ行った事に悔しがった。先進国のイギリスに行かせないのかと)
6 留学生の中心となったのは旧藩主である廃藩置県となって、知藩事の座を譲って東京に集まったが、処遇は大きな問題だった。旧臣たちは、その前途を心配して、講じた手段が洋学だった。その延長線上に洋行があった。
藩主一人で留学させられないということで、旧藩士が随行した。例えば、金沢藩の前田利嗣には英国留学をしたことのある関沢明清が随従している。
7 東京帝国大学は1899年から1918年の間、成績優秀者には天皇から銀時計が下賜された。法科大学の銀時計組を見ると、官界志向が定着したことがわかる。
銀時計組から官途に就いた入省先は、大蔵省が最も多く、次いで、内務省だった。
8 河合良成は金沢の四高から東京帝大法科大学に入学するが、一高出身者が講義室の最前列に陣取り、席を離れる際には、ノートを置いて席を譲らなかった。河合は彼らの占席を批判し、必死に講義を筆記し、図書館に通った。
しかし、東京帝大の講義は思った以上に面白みがなく、河合はついに出席を止め、友人のノートを写し始めた。
当時の講義は、四高にいた西田幾多郎のような面白い講義はなかったことに河合は失望した。
東大の講義は毎年、講師の同じノートによるもので、単調だったという。
例外は、美濃部達吉と上杉慎吉の憲法論争と、植民地政策だった。
8 1914年に、東京高商から内務省に入った石井光次郎がいる。石井は言う、筆記試験で驚いたのは、「天皇機関説を論ぜよ」だった。目下、美濃部達吉と上杉慎吉が論争を繰り広げているテーマである。石井は美濃部を支持したが、試験管は上杉慎吉である。上杉をこきおろすわけにはいかず、だからと言って、美濃部に肩入れすると合格は危ない。迷った石井は、両論の論点をまとめてその場を凌いだ。筆記は無事通過した。
口述試験では、石井は頭を剃り、髭を蓄えた。禅の修養をしていたので、自分は試験管を試験するのだという気持ちで臨んだという。
最高峰たる内務省の採用面接となった。終了間際、脇に座っていた風変わりな人物から突然、「お前、酒を飲むか」と聞かれる。すると、石井は咄嗟に「斗酒あえて辞さず」と応え、その場で採用が決まった。切り返しを見るメンタルテストだった。
9 一高に新風をもたらしたのは新渡戸稲造だった。盛岡藩士の子で、札幌農学校からアメリカ、ドイツへ留学し、1906年に一高の校長になる。赴任した当時、卒業後の将来も約束された環境で、一高生はスポーツと遊蕩に日々費やした。
新渡戸は彼らの人格形成を促し、授業時間外に時事問題を説きながら、ゲーテ、カーライルへと話を広げた。
10 内務省では官僚になると、後藤新平内相の発案で三十代半ばの部課長級を選抜して留学させた。1917年から始まった。留学に合わせて芝居、映画、演説会、教会から貧民窟まで、見聞するように、後藤内相は指示している。
以上、かいつまんで書いてみたが、心に残ったのは、1910年代頃から東大の講義はつまらないということで、むしろ、その下の一高の新渡戸稲造が校長となって、人格主義を目指し、ゲーテやカーライルなどを読み、自由に議論できたことに憧れる。
今の高校ではこういう内容の授業はできない。精神的貴族を目指す学校はできないものか。
安倍首相は成蹊で読書を重視した。そして、幅広い人格者となった感がするが。
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— 山田一郎 (@jungle488) 2018年6月19日 - 20:48
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— 山田一郎 (@jungle488) 2018年6月19日 - 20:49