酔っぱらい一人旅

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

2024-08-19 14:58:39 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

こんにちは、酔っぱらいです。

見学の翌日から宮田ジムで練習開始した。

会長がジム専業ということもあり13時だったか13時30分が開始時間だった。

練習初日に一番最初にやったのは、バンテージの巻き方を教えてもらうことだった。

有沢ジムで練習してたのにバンテージの巻き方って???

有沢ジムでは練習生は伸縮バンテージを使用していた。伸縮性のある包帯のようなものだ。

宮田ジムでは練習生も最初からバンテージとして綿包帯を使用していた・・・有沢ジムでは選手になると綿包帯を使っていた。

こちらは伸縮バンテージとは巻き方が少々異なる、、というか全長が倍くらい長いので、その分余計に巻くことになる。

有沢ジムで半年ほど経験しているということで、スパーリング開始するまでは早かったと思う。

昼間は練習生が少なかった。

昼に来るメンバーは決まっていた。

その中の同じくらいの体格のT川君とスパーリングをやるようになった。

T川君は同年代で板前の修業をしていた。昼に練習して夕方から出勤していたようだ。

T川君は俺より少し強かった。だから俺の方がパンチを貰う数が多かった。

俺より少し強い相手だったのが、俺にとっては良かったのかもしれない。

まあ、この頃はスパーリング恐怖症は治まっていたよ。一方的にボコられることは無くなっていたね。

この頃(1990年)の宮田ジムでは3人の選手が新人王トーナメントに残っていた。

阿部健一氏(後の日本ランカー)、真部豊氏(後の日本チャンピオン)、笠島氏・・

このお三方は12月の東日本新人王決勝まで進んだ。

結局、阿部さんだけが東日本決勝を勝ち進み全日本新人王決勝も勝利し全日本新人王となった。

阿部さんは昼間に練習していることもあった。

元々シュートボクシングの選手でボクシングに転向したようだ。

試合前の阿部さんは減量がきつそうだった。ライト級だったと思う。

最後の試合の前の練習中に次の試合からは階級上げたいと会長に訴えていたのが印象的だ。

デビューから9連勝していたが10戦目で有沢ジムの小山豊氏と対戦し初黒星・・・これがボクシングでは最後の試合となった。

その後、どのような経緯でそのようになったかは知らないが、空手の大会で佐竹 雅昭氏と対戦し破れる。

空手の大会に出場したからなのか、空手の大会に出場するために、、どちらかは不明だがボクシングは引退した。

真部氏や笠島氏は俺が夜練習に行くようになるまで会うことはなかった。

宮田ジムでは逃げ出すことなく続けることが出来た。

何故かってね・・・宮田会長はとにかく些細な事でも長所を見つけては褒めるんだよね。

例えばミット打ちしてる時なんかに「酔っぱらい君!パンチ強いね~。パンチの強さだけなら世界チャンピオン並みだね~」・・・こんな感じでね。

そういう風に褒められると、その気になるんだよね。

まあ、しかし、、、同じように褒められている練習生が大勢いたけどね。

宮田会長はどの練習生にも分け隔てなく話しかけていましたよ。

この時から何年も経った時、夜のニュース番組で宮田ジムの特集が放送され、久米宏氏か古館一郎氏だったかと思うが

「この会長は褒めて伸ばすタイプの指導者なのですね~」ってコメントしていたのを覚えている。

宮田ジムに入門してから丁度1年後にプロテストを受検することになった。

その話は次回・・・

つづく

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