隊員NO.4にいなで~す(^_-)
今立町に破天荒な生涯をおくった人物の石碑が建っていました。そしてこの人物について語るとき、
地元の加賀市民はとっても複雑な思いに包まれます。
←辻政信(ウィキペディアより)
その人の名は、辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日生まれ、1961年に行方不明)。
日本の軍人、政治家で、軍人としての階級は陸軍大佐でした。第2次世界大戦後、衆議院議員(4期)、
参議院議員(1期)などを歴任しました。
辻政信は今から51年前、参議院議員在任中にラオスで消息を絶ちました。
辻政信は、アジア太平洋戦争のさい、参謀本部で対米主戦論を繰り広げ、1941年の対英米戦開戦と同時に
始まった東南アジアへの快進撃などで、マスコミに「作戦の神様」とたたえられました。
その一方、独断専行ぶりも知られ、ノモンハン事件、シンガポールでの華僑虐殺、ガダルカナル島の戦いなどでは、
陸軍の汚点ともいえる歴史的事件に関わったという指摘があります。
その才能と行動力が高く評価される反面、戦後においてもGHQから「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」
と危険視された人物です。
辻政信は、いまの今立町で父亀吉、母もとの間に、4人兄弟の次男として生まれました。
お父さんは炭焼きで生計を立てていました。辻少年は荒谷尋常小学校、山中高等小学校を主席で卒業しました。
その後苦学の末、陸軍士官学校に入学し、ここも首席で卒業したといいます。とても秀才だったんですね。
タイで終戦を迎えた辻は、僧侶に姿を変え、中国から日本へと潜行します。そして1950年に戦犯を免れると、
その間の手記を『潜行三千里』として出版し、一躍ベストセラー作家になりました。1952年には衆院選に
旧石川1区から立候補し、4回連続当選します。当時の地元民衆は辻政信を熱狂的に支持したといいます。
七尾市出身で直木賞作家の杉森久英(1912~97年)は、伝記『辻政信』の中で、衆院議員になった後の辻に
直接取材した時の印象を記しています。
「僕の身体の中には、世界の五カ国の弾が入っています。最初は上海事変で中国の弾・・・
次はノモンハン事件でロシアの弾…」
数多くの戦場を踏み、弾丸をかいくぐってきたことを誇る辻に対し、杉森はその豪胆さを率直に認めつつも、
そのよどみない話しぶりに違和感を覚えたそうです。
「その時私の気になったのは(中略)、レントゲン写真を取り出してくる手際のよさであった」
戦場での勇気に不足はなく、戦後も戦友の遺族に金を送るなど、情に厚い面もある。
でも、それを人に黙っている男でもない。杉森久英はそのように辻政信を評したのです。
渡航先のラオスで行方不明となった辻政信は、半世紀以上経っても、多くの史家や作家がその実像を追う「怪人物」です。
美しい山里・今立で生まれた辻少年は、なぜこのような希有な人生を送ることになったのでしょうか?
(ブログ作成にあたっては、「YOMIURI ONLINE」の『消えた参謀』(2011年11月9日)を参照しました。)