第Ⅱ部 工業的様式
第四章 初期の工業景観
工業化の時代に入ってからは、風景が突如として変わり、その規模も昔とは比べ物にならなくなった。
それまで最も大規模な建築物は、古代ローマ期の円形闘技場であり、中世の大聖堂であり、近世のヴェルサイユ宮殿くらいのものだった。p114
より安価でしかも工場建築に適した資材を、工場は自らの手で生産するようになった。
すなわち、レンガがこれである。フランスのどの地方でも、石切り場が閉鎖されたり縮小される一方で、レンガ工場が開設されたり、あるいは大々的に拡張された。p123
鉄は新しい時代の主要な生産物であるが、同時にそれは生産用具であり、工業化期以降のあらゆる風景にその刻印が押されることとなった。
鉄はいわば全能なる工業のシンボルと言えた。p125
ヴァンスノは、旧市街地の端からディジョン駅に向けて延びる街区を、彼独特の表現で次のように模写している。
「うら若い乙女が、障害物を乗り越えて愛人のもとに駆け寄るように、うるわしのディジョンは重くいかつい城壁を内側から打ち破り、あわただしく鉄道に近づいて、それを抱擁した。こうして鉄道は、ディジョンに生命を与えた。」p131
(こういうぶっとんだ文章をまじめな本の中で発見すると、さらにうれしくなります)
ジャン=バディスト・ゴダンが建設したギーズのファミリーステール(共同体住宅)
託児所や集会室、優れた衛生施設などを備えたファミリーステールは、集合的な社会住宅としてフランスでは稀な成功例だった。p138
第五章 十九世紀の農村景観と都市景観
森林は、フランス革命期から第一帝政期にかけて、ふたたび受難の時を迎えた。それはまさに、金の卵を産む雌鶏を大虐殺するようなものだった。p143
1863年からブドウ栽培地に蔓延したブドウアブラムシにより大被害を受けた。
この時期に、病気に弱いブドウ株が抜根され改植が進んだが、そうして成立した新しいブドウ畑では、ブドウ畑が整然と列をなして配置された。
それまでに見られた「取り木」による繁殖法は、この時期以降、接ぎ木法と両立しないため完全に姿を消した。
ブドウ畑の風景は、これ以降、列状に張られた針金に沿ってブドウの枝が伸びるという現在のような姿に転換した。p153
オスマンの都市計画は、何よりもまず衛生と実用、場合によっては治安の維持を重視した点で、古代ローマの都市計画とは地球の表と裏ほど異なっている。そこには「聖」の視点が全く見られず、本来的な意味での「政治」の視点さえ欠けている。p157
オスマンの街路の中で最大の成功例は、疑問の余地なくアンペラトリス(皇后)通り(現在のフォッシュ通り)であろう。
威厳に満ちたこの通りは、その両端に斜め凱旋門の異様な姿とブーローニュの森をひかえている。p161
十九世紀になるまで、フランスでは文化遺産としての風景という概念が存在しなかった。
どの時代も、古いスタイルの建物や都市を無造作に破壊、変形してきたし、農村景観や自然景観についてはなおさらだった。
態度がもっと慎重になるのはルネサンスの以降、とりわけ啓蒙主義の世紀(十八世紀)である。p165
ヴィオレ=ルデュックの仕事に対しては、しばしば行き過ぎた修復という非難が投げかけられた。
しかし彼は、中世建築の精神をよく理解していた。この点については、誰も異議を唱えないであろう。それにもかかわらず、修復対象の建物に対して自分の刻印を残すことに熱心だった。p167
イギリス人キャヴェンディシュ卿が地中海の温和な気候を求めて1731年の冬をニースで過ごしたことが、ここをヨーロッパでも有数の観光地に押し上げた。
1820年からは、海辺に沿って「イギリス人の散歩道」という名の大通りが整備された。p171
第六章 「月並み」な風景への道
十九世紀の末頃から、ひとつの技術が建築のあり方を大きく変えるようになる。それは1867年にジョゼフ・モニエが生み出した鉄筋コンクリートだった。p175
ル・コルビュジェは家屋という用語の代わりに「居住機械」という語を用い、人類の画一化を推し進めようとした。
都市景観の作り手であるインテリたちの夢と欲求に対応してアテネ憲章が描いてみせた都市の景観は、すぐれて全体主義的な社会観にマッチしていた。p181
そこには住み手の意思が奇妙なほど軽んじられており、住民はインテリの頭脳が生み出した国際規格の理想都市に、単に適応するだけの存在とみなされた。
したがって、ル・コルビュジェやその追随者たちが熱心に主張し、1945年以降には実際に各地に出現した「輝く都市」の居住者たちが、衛生的なコンクリートあふれる陽光にもかかわらず空虚な気分におちいったという事実は、なんら驚くにあたらない。p182
ル・コルビュジェの集合住宅’(ユニテ・ダビタシオン)に対しては、近年インテリ階層からの需要が増えつつある。
しかし、もともとは庶民階級のために建てられたのであり、最近の動向はむしろ本来的な機能からの転換と言える。
そして、本来的な機能という観点から見ると、失敗は明白だった。
マルセイユのそれは、ふつう「愚か者の家」と呼ばれているほどである。p186
(日本人の高評価は異常なのでしょうね)
フランスの低家賃住宅(HLM)の団地は非行や倦怠を生み出す格好の土壌になった。
なかでもパリ近郊のサルセルは代表的であり、「サルセル病」という言葉は、その住民たちに蔓延する絶望感を示したもので、多かれ少なかれ他の住宅団地にも共通する病理的現象を表現している。p189
進歩主義的都市計画という思想が生み出した果実は、建築や都市計画の中で最も非人間的な作品だったといえる。p190
フランスでも、アメリカ合衆国に数十年遅れて、1960年頃から超高層建造物の建築が、国や自治体や民間ディベロッパーの手で行われるようになった。
すでに1948年には、フランス最初の摩天楼(高度90メートル)が、オーギュスト・ペレによりアミアンで建設されていた。p191
港湾や空港も工業景観と強い結びつきを持っている。とくに近年のそれは、都市から離れた巨大施設という特徴を持つ。
マルセイユ港においても、旧港に隣接したジョリエット地区の人工港が手狭になった結果、さらに離れたラベラ地区やフォス地区に新しい港湾施設が造成されている。p220
山火事による森林破壊が、地中海の沿岸地帯では毎年四万ヘクタールに達している。
誰もが認めているように、山火事の被害がこれほど大きくなったのは、山林の所有者が下草を刈り払うことをほとんどせず、手入れの悪い森林が増えたためである。p229
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