藤原定家『明月記』の世界
村井康彦 著
2020年10月20日 第1刷発行
岩波新書(新赤版)1851
引き続き、藤原定家の本です。
明月記ということで、皆既月食の夜に図書館で借りました。(ただの偶然ですが・笑)
自分的には宮中内外の細々としたことよりも、雪を食ったことや猫を可愛がった記述の方にひかれます。
後、定家の不肖の息子だと言われている光家を必死にかばう著者の優しさに感動し、自分も光家にシンパシーを感じてしまいました。
序章 『明月記』とは
『明月記』は、平安末期~鎌倉前期の一公家・藤原定家(1162~1241)が、治承四年(1180)から嘉禎元年(1235)まで書き続けた漢文体(一部に和文あり)の日記。
年齢でいえば19歳(数え齢)の時より亡くなる6年前、74歳までの五十五ヵ年にわたっている。
欠けた箇所も多く、後世流出するなどで散佚してしまった結果だと思われるが、中には定家自身が廃棄したものもあったのではないかと考えられている。p6
父の俊成(1114~1204)や子の為家(1198~1275)についての記述が少なくない。しかもその期間の重なり具合を見れば、『明月記』を俊成と為家を加えた「三代」の記録とみることも可能だろう。p7
定家という人は無類の「見物」好きだった。
そして、たぶん、行列を見ながら(手許は見ずに)筆だけ動かしメモしていたのではないか。p8-9
端的に言って『明月記』は「極私日記」だった。これほどまで「私」が表出された日記は、他には見当たらない。p13-14
第一章 五条京極邸
1 五条三位
2 百首歌の時代
第二章 政変の前後
1 兼実の失脚
2 女院たちの命運
3 後鳥羽院政の創始
4 定家「官途絶望」
第三章 新古今への道
1 正治初度百首
2 和歌所と寄人
3 終わりなき切継ぎ
4 水無瀬の遊興
第四章 定家の姉妹
1 定家と健御前
2 俊成の死
臨終の直前、しきりに「雪を食べたい」と雪を求める俊成
そして届いた雪を「めでたき物かな。猶えもいわぬ物かな」と言って何度も食べるので恐れをなして雪を取り上げた。夜中にもう一度雪を食べた後に休息。p99-100
3 俊成卿女と源通具
後世定家が歌聖として世の評判を得るに伴い、俊成卿女はいつしか「定家ゆかりの女性」として語り継がれるなかで「定家さま」と呼ばれ、それがなまって「てんかさま」になった。
いまも越部上庄(現たつの市市野保)には、越部禅尼の墓と伝えられる「てんかさま」の小祠があり、地元の人々によって大切に守られている。p109
第五章 除目の哀歓
1 居所の変遷
2 除目の「聞書」
3 官途「無遮会」
4 「為家しすへむ」 「名謁」の効用
名謁(みょうえつ)
内裏で行われた夜の点呼
第六章 定家の家族
1 定家の妻
承元元年(1207)7月4日、一昨年より飼っていた猫が放犬にかみ殺された。日記には、
「年来私は猫を飼わない主義だったが、妻がこれを養ったので自分も共に養った。三年来掌の上や衣の中に居た。他の猫は時々鳴き叫んだが、この猫はそんなことはなかった」と記す。
妻が可愛がっていたので定家も世話をするうちに、猫がとてもなついてきて可愛くなった。だから猫の死に「悲慟の思い、人倫に異らず」と、人の死と同じように悲しんでいる。p138
2 定家の子供たち
二人の息子、為家と光家に対する態度の違い
光家は外人(うときひと)「身内でない、よそ人」の意、と書く
定家は光家を、常に愚息といい、為家との差別を露にしてきたが、どんなに定家が拒んでも、宇佐使まで選ばれ、その上これほどの贈物が届くのは、光家がきちんと仕事をこなしてきたことの証拠である。良輔が光家をかばったように、光家は決して愚鈍な人間ではなかった。宇佐使発遣でそのことが証明されたといってよいのである。前述の定家の「頗る不肖の身に過ぐ。是れ自然の人望か」は、不肖だと思っていた光家に対する、定家自身の驚きの言葉だったかもしれない。p160
第七章 「紅旗征戎非吾事」
1 八座八年
2 院勘を受く
3 承久三年の定家
定家にとっての承久の乱は、古典の書写を自分の使命であると自覚し、自分の生き方の出発点とする覚悟を促した戦さであったように思われる。p176
4 一条京極邸
5 院との訣別
第八章 荘園と知行国
1 御子左家の家産形成
2 知行国主為家
第九章 子供たちの時代
1 光家と定修
42歳で出家する光家
光家の九州下向
大災害から四年を経過した時点で、どれほど復興したかを確かめるために光家が仁和寺から派遣され、北部九州の状況を見て回ったのであろう。
このような大役を任されるまでの信頼を得られたのは、ひとえに光家の実直さゆえであった。p208-209
2 因子と為家
3 為家の家族
4 為家と関東
第一〇章 嵯峨の日々
1 嵯峨中院山荘
遁世隠棲の地としての大原と嵯峨
大原は本格的な遁世者のための土地であり、大原へ行くとはすなわち遁世を意味していた。
嵯峨は閑寂な雰囲気があり、隠遁の場というより、俗世とは少し隔たりを持つ、非日常の空間として受け止められ、求められたように思われる。p240
2 小倉百人一首