ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

パリとアヴィニョン 西洋中世の知と政治 樺山紘一 著 第一部 パリ フィリップ四世王政府

2023-10-21 20:13:15 | フランス物語

 

パリとアヴィニョン

西洋中世の知と政治

樺山紘一 著

人文書院 発行

1990年3月30日 初版第一刷発行

 

題名は「パリとアヴィニョン」という曖昧なものになっていますが、具体的な内容は

・1285年から1314年のパリにおけるカペー朝のフィリップ四世王政府

・1309年から1377年のアヴィニョンにおける教皇庁

という二つの組織とその主要人物を、詳細に取り上げています。

小説家ならこういう史料から物語を紡ぎだしていくのでしょうね。

 

第一部 パリ フィリップ四世王政府

第一章 問題のありか

フィリップ四世期に官僚制形成過程が成熟に達した四点

・官僚団が数的に成長したばかりか、固有の組織と意思決定機構を持つ集団として姿を現した

・官僚団の多くが、行政上の専門知識を身に着けている

 ローマ法学をはじめとする法学上の知識、技術を習得し、これに基づいて中央、地方を問わず国王行政に参与する人びとのことをレジストとよびならわしている。

・官僚団のイデオロギー的側面が問題となる

・官僚たちの個々の社会的出自と境位

 

第二章 事件の時代史

1 国王と王家

2 外交的諸関係

3 教皇庁の教会政策とフランス王権

4 フランス教会

5 内政と財政

 

第三章 構造と機能

1 国王とその家族

2 国王家政

3 国王顧問会

4 高等法院

5 会計院

6 地方行政

7 パリの勤務空間

 

第四章 人間たち

1 慣習法の集成 フィリップ・ド・ボーマノワール

2 大書記官長 ピエール・フロート

3 練達のイデオローグ ギョーム・ド・ノガレ

アナーニ事件

1303年、教皇ボニファティウス八世が、ローマの南東、アナーニの別荘に滞在するのに狙いを定めて、教皇に直接、談判を持ち込んだ。

二、三百名といわれる兵士が別荘を急襲し、フランス国王の要求をつきつけた。

 

4 明晰なレジスト ピエール・ド・ベルペルシュ

5 分裂する忠誠 ジル・エスラン

6 王権の至上性 ギョーム・ド・プレジアン

7 改宗ユダヤ人 フィリップ・ド・ヴィルプルー

8 解放農奴 ラウル・ド・プレスル

9 法官僚の財政策 ピエール・ド・ラティイ

10 南方(南フランス)からの登用 ポン・ドームラ

11 法曹一族 モルネー家

12 大宰相への道 アンゲラン・ド・マリニ

十四世紀前半のある時期に成立したと思われる諷刺詩『フォーヴェル物語』は、マリニの没落の状況証拠とみなされる。

13 財務官たち

14 ユートピアの構想 ピエール・ド・デュボワ

デュボワはレジストとしては凡庸であったが、政治的著作は多数にのぼり、しかもユニークな性格をもっている。

 

第五章 補遺と総括

 

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ストラスブール中央駅いまむかし

2023-07-10 20:24:46 | フランス物語

 

 

ストラスブール中央駅の今昔です。

一枚目は2000年に撮ったもので、二枚目が現在の姿です。
もともとこの駅は1889年、ドイツ帝国時代に建設されました。
そして2007年にファサードの前面にガラス張りの覆いがつくられました。
「国境で読み解くヨーロッパ」では、TGVの乗り入れに伴い、ドイツとつながっていた過去を消したかったのでは、という邪推をしていましたが、本当のところはどうなのでしょう。

まあ、古さを残しながら、新しさを演出する、という点では、このような改築は理想的な方法だったかもしれません。

 

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ユトリロ作「シャルトルのギヨーム門」(都市風景画を読む より)

2023-06-30 20:35:27 | フランス物語

 

上の絵画は、ユトリロによる「シャルトルのギヨーム門」です。1914年に描かれました。

ユトリロは印象派の画家ではないのですが、彼のパリの作品群のように、この本の題名にある「都市風景画」にはぴったりの画家です。本の中でも、多くの作品が扱われていました。

自分もほぼ同じ場所から写真を撮っていました。

ギヨーム門はユトリロの時代は、まだほぼ完全な姿で残っていたようですが、第二次世界大戦中、1944年8月15日から16日にかけて破壊されました。

残念な話ですが、それはそれで廃墟の美といった趣があります。古代ローマの水道橋遺跡を思い出します。

シャルトル観光案内所の㏋によると、再建の計画もあるそうです。

ただ、再建されると、大聖堂がこの角度からは見えなくなりそうです。

どういう計画になるのか気になるところです。

 

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コロー作「アヴィニョン、教皇の城(ヴィルヌーヴ・レザヴィニョン)」(都市風景画を読む より)

2023-06-29 20:47:02 | フランス物語

 

この絵画はコロー作「アヴィニョン、教皇の城(ヴィルヌーヴ・レザヴィニョン)です。1836年の作品です。

著者は題名に「ヴィルヌーヴ・レザヴィニョン」とあることから、アヴィニョンの街からそこを目指します。

アヴィニョンからレンタル自転車を借りて、ヴィルヌーヴ・レザヴィニョンに向かいましたが、丘陵地区であるせいか、チェーンが外れたり、タイヤがパンクしたりして大変だったそうです。

しかしどうも、そこからの風景はこの絵画とは違っていたようです。

題名に誤りがあったようですね。

あきらめて、アヴィニョン旧市街に帰る途中、エドゥアール・グラディエ橋の中央地点あたりからの構図が近いとわかりました。

半年後、改めて調査すると、視点場は下の地図の矢印の起点だということが判明しました。

自分がアヴィニョンを訪問した時は、徒歩で橋を渡り、フィリップ美男王までたどり着き、教皇宮殿を眺めました。

しかしそこで力尽き、夕方だったこともありヴィルヌーヴ・レザヴィニョンへの道は諦めました。

もし再びアヴィニョンに行く機会があったら、ヴィルヌーヴ・レザヴィニョンのサン・タンドレ要塞から教皇の城を、教皇を支配し監視し守ろうとする気持ちで眺めてみたいです。

 

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フランス文化と風景(下)16世紀から現代まで 第Ⅱ部 工業的様式

2023-06-19 20:37:21 | フランス物語

第Ⅱ部 工業的様式
第四章 初期の工業景観
工業化の時代に入ってからは、風景が突如として変わり、その規模も昔とは比べ物にならなくなった。
それまで最も大規模な建築物は、古代ローマ期の円形闘技場であり、中世の大聖堂であり、近世のヴェルサイユ宮殿くらいのものだった。p114

より安価でしかも工場建築に適した資材を、工場は自らの手で生産するようになった。
すなわち、レンガがこれである。フランスのどの地方でも、石切り場が閉鎖されたり縮小される一方で、レンガ工場が開設されたり、あるいは大々的に拡張された。p123

鉄は新しい時代の主要な生産物であるが、同時にそれは生産用具であり、工業化期以降のあらゆる風景にその刻印が押されることとなった。
鉄はいわば全能なる工業のシンボルと言えた。p125

ヴァンスノは、旧市街地の端からディジョン駅に向けて延びる街区を、彼独特の表現で次のように模写している。
「うら若い乙女が、障害物を乗り越えて愛人のもとに駆け寄るように、うるわしのディジョンは重くいかつい城壁を内側から打ち破り、あわただしく鉄道に近づいて、それを抱擁した。こうして鉄道は、ディジョンに生命を与えた。」p131
(こういうぶっとんだ文章をまじめな本の中で発見すると、さらにうれしくなります)

ジャン=バディスト・ゴダンが建設したギーズのファミリーステール(共同体住宅)
託児所や集会室、優れた衛生施設などを備えたファミリーステールは、集合的な社会住宅としてフランスでは稀な成功例だった。p138

第五章 十九世紀の農村景観と都市景観
森林は、フランス革命期から第一帝政期にかけて、ふたたび受難の時を迎えた。それはまさに、金の卵を産む雌鶏を大虐殺するようなものだった。p143

1863年からブドウ栽培地に蔓延したブドウアブラムシにより大被害を受けた。
この時期に、病気に弱いブドウ株が抜根され改植が進んだが、そうして成立した新しいブドウ畑では、ブドウ畑が整然と列をなして配置された。
それまでに見られた「取り木」による繁殖法は、この時期以降、接ぎ木法と両立しないため完全に姿を消した。
ブドウ畑の風景は、これ以降、列状に張られた針金に沿ってブドウの枝が伸びるという現在のような姿に転換した。p153

オスマンの都市計画は、何よりもまず衛生と実用、場合によっては治安の維持を重視した点で、古代ローマの都市計画とは地球の表と裏ほど異なっている。そこには「聖」の視点が全く見られず、本来的な意味での「政治」の視点さえ欠けている。p157

オスマンの街路の中で最大の成功例は、疑問の余地なくアンペラトリス(皇后)通り(現在のフォッシュ通り)であろう。
威厳に満ちたこの通りは、その両端に斜め凱旋門の異様な姿とブーローニュの森をひかえている。p161

十九世紀になるまで、フランスでは文化遺産としての風景という概念が存在しなかった。
どの時代も、古いスタイルの建物や都市を無造作に破壊、変形してきたし、農村景観や自然景観についてはなおさらだった。
態度がもっと慎重になるのはルネサンスの以降、とりわけ啓蒙主義の世紀(十八世紀)である。p165

ヴィオレ=ルデュックの仕事に対しては、しばしば行き過ぎた修復という非難が投げかけられた。
しかし彼は、中世建築の精神をよく理解していた。この点については、誰も異議を唱えないであろう。それにもかかわらず、修復対象の建物に対して自分の刻印を残すことに熱心だった。p167

イギリス人キャヴェンディシュ卿が地中海の温和な気候を求めて1731年の冬をニースで過ごしたことが、ここをヨーロッパでも有数の観光地に押し上げた。
1820年からは、海辺に沿って「イギリス人の散歩道」という名の大通りが整備された。p171

第六章 「月並み」な風景への道
十九世紀の末頃から、ひとつの技術が建築のあり方を大きく変えるようになる。それは1867年にジョゼフ・モニエが生み出した鉄筋コンクリートだった。p175

ル・コルビュジェは家屋という用語の代わりに「居住機械」という語を用い、人類の画一化を推し進めようとした。
都市景観の作り手であるインテリたちの夢と欲求に対応してアテネ憲章が描いてみせた都市の景観は、すぐれて全体主義的な社会観にマッチしていた。p181
そこには住み手の意思が奇妙なほど軽んじられており、住民はインテリの頭脳が生み出した国際規格の理想都市に、単に適応するだけの存在とみなされた。
したがって、ル・コルビュジェやその追随者たちが熱心に主張し、1945年以降には実際に各地に出現した「輝く都市」の居住者たちが、衛生的なコンクリートあふれる陽光にもかかわらず空虚な気分におちいったという事実は、なんら驚くにあたらない。p182

ル・コルビュジェの集合住宅’(ユニテ・ダビタシオン)に対しては、近年インテリ階層からの需要が増えつつある。
しかし、もともとは庶民階級のために建てられたのであり、最近の動向はむしろ本来的な機能からの転換と言える。
そして、本来的な機能という観点から見ると、失敗は明白だった。
マルセイユのそれは、ふつう「愚か者の家」と呼ばれているほどである。p186
(日本人の高評価は異常なのでしょうね)

フランスの低家賃住宅(HLM)の団地は非行や倦怠を生み出す格好の土壌になった。
なかでもパリ近郊のサルセルは代表的であり、「サルセル病」という言葉は、その住民たちに蔓延する絶望感を示したもので、多かれ少なかれ他の住宅団地にも共通する病理的現象を表現している。p189

進歩主義的都市計画という思想が生み出した果実は、建築や都市計画の中で最も非人間的な作品だったといえる。p190

フランスでも、アメリカ合衆国に数十年遅れて、1960年頃から超高層建造物の建築が、国や自治体や民間ディベロッパーの手で行われるようになった。
すでに1948年には、フランス最初の摩天楼(高度90メートル)が、オーギュスト・ペレによりアミアンで建設されていた。p191

港湾や空港も工業景観と強い結びつきを持っている。とくに近年のそれは、都市から離れた巨大施設という特徴を持つ。
マルセイユ港においても、旧港に隣接したジョリエット地区の人工港が手狭になった結果、さらに離れたラベラ地区やフォス地区に新しい港湾施設が造成されている。p220


山火事による森林破壊が、地中海の沿岸地帯では毎年四万ヘクタールに達している。
誰もが認めているように、山火事の被害がこれほど大きくなったのは、山林の所有者が下草を刈り払うことをほとんどせず、手入れの悪い森林が増えたためである。p229

 

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