映画に色も音もなかった頃、すでにクレショフは同じシーンであるにも関わらず、そこにつながれた映像によって観客の解釈が大きく左右されることを示した(内田樹. 映画の構造分析. 晶文社 2003年)。俳優の無表情な顔を「玩具で遊ぶ少女」のカットにつなげると「微笑」を、「死んだ女」のカットをつないだところ「深い悲しみ」が浮かんだと答えたのである。このよく知られた実験は、人間が事実をそのまま受け入れるのではなく、そこに何らかの意味を加えずにいられないことを示している。いくつかの事象が時間的に近接してみられたり、類似した様相を呈していたりすれば、それらを独立して起こった偶然のものとは考えずに、背後に何らかの関連性や、時には共通する原因を想定し、一連のものとして了解しようとするのである。このようないわば物語化への衝動を、ヒュームなら我々の習慣にすぎないと言うだろうが、歴史を振り返ってみればそれ以上のやむにやまれぬものもあるような気がしてならない。病気の症状にしても、科学的医学がその由来を解き明かすはるか以前から、その原因を超自然的な存在に求めるという形ではあったものの、説明することを要求されていたのだ。それは日本も例外ではなく、しかもそれほど昔の話でもない(波平恵美子 編. 人類学と医療. 弘文堂 1992年)。
現代医学は科学に基づいた病態生理的な観点から事象を系統立てて理解することを基本に据えており、今や患者もそのように説明されなければ納得しなくなった。ある症状なり徴候なりを、広く認められている病態生理的な知見にあてはめ、因果関係を説明し、その医学的なストーリーを踏まえて治療方針を決めるのである。そのため、臨床医は日々それぞれの患者の病態の解釈にあれこれと思い悩むのだが、かつては単一の病因を見出せば事足りたのが、慢性疾患が主体となった今では検討すべき要因が多く(砂原茂一. 医者と患者と病院と. 岩波新書 1983年)、しかも現実には得られる情報に限りがあり、既知の理論を適用できないものについては論理の拡張や推測で補わざるを得ない。
そして、その臨床医が頼みとする病態生理の体系にしても、未だ十全といえるものではない。それでも、さまざまな方面からアプローチした研究成果が蓄積されれば、自ずと真理の結晶が抽出されてくるはずだというのが常識的な理解だろう。だが、必ずしも着実な進歩がみられるものばかりでなく、方法論そのものに限界があることはいまさら言うまでもない。ハンソンの言う理論負荷性やクワインらによる決定不全性などという根源的な問いに正面から答えるのは容易ではなく、医科学の範囲内に限って考えてみても、たとえば分子病態の記述にはin vitroないし動物実験での成績に負う部分が大きいけれども、それらの結果をもって背景や条件の大きく異なるヒトの病態を説明しようとする場合、論理的な飛躍を伴うはずだ。つまりそこには、細胞の培養条件や種差など一定の環境下での観察であるという事実を無視する、あるいはヒトと同等であるとみなしてよい、という仮定がなければならない。もし、無条件にマウスのデータを持ってきてヒトでのデータの欠損を埋め、形式論理でつぎはぎできたとしても、それは表面的に体裁を整えたにすぎず、科学的な妥当性を犠牲にしたものになりかねない。臨床試験の成績ならば、その試験の対象者のプロフィールが眼前の患者に一致ないし大きな差がないことを確認するのがEvidence-based Medicine(EBM)でもっとも重視されている基本の一つであることを思えば、この意味は容易に理解されるはずである。このことが決定的に顕在化するのが薬の開発で、動物レベルで認められた有効性と安全性がヒトでも確認され、実際に製品化に至るのはそのごく一部に過ぎない。
さらに、結論を導く過程にも少なからぬ問題があると思う。たとえば、科学論文においては先行研究を踏まえた考察が求められ、その制約の下に主張を展開しなければならない。相反する内容をもつ複数の報告があれば、そのなかで論拠となりうるものを選択することになるのは当然だ。それどころか、引用した文献をそのまま援用するのではなく、その著者と異なる解釈を施すことにより、論旨を自在に操ることさえ可能である。一見、否定的な論文があったとしても、うまく料理すれば著者の論を補強する材料にすらなるのだ。抗IL-5抗体の臨床試験の結果により、喘息における好酸球の役割に疑義が生じたことがあったが、結局多くの研究者はあらゆる手を用いることで従来の理論への信頼を維持することに成功した、などという例もある(日内会誌 2006; 95: 1564-1571)。
形式的にはいくらでも文献を探し出し、いかようにも主張できてしまう危うさを孕んでいるのは否定できない。そしていったん矛盾なく説明されると、それがあたかも真理であるかのように錯覚してしまいがちである。いつの間にかその確からしさがあいまいなまま世間に流布し、信じられるに至っているものもないとは言えないだろう。そこで、その推論の妥当性を担保するため査読(ピアレビュー)という手続きがとられるわけだが、その判断基準はつまるところ明文化されているわけではない、“専門家集団の常識”とでもいうほかないものだ。科学的な装いをまとっているように見えても、その実、科学的な厳密性に欠け、恣意的とさえ見えるのも無理はない。「そもそも、研究者がみな学問していると思ったら大間違いである。研究者と称される人が、学んで問うことにはまるで縁がない、という場合はいくらでもある。特に、あちこちから知識や情報を仕入れてきて、いい加減な予測で議論することに余念のない人は、学問しているとは言い難い」(前田英樹. 独学の精神. ちくま新書 2009年)。これは根拠に乏しい過剰な物語を展開している専門家や、学会の中での権威者の発言のみを指しているのではない。このわたし自身に深刻な反省を促しているものなのだ。
けれども、それを満たせば科学的真実である、と誰もが納得するようなものはあるのだろうか。そもそも科学的真理さえ存在するものかどうかわからない(伊勢田哲治. 疑似科学と科学の哲学. 名古屋大学出版会. 2002年)。科学の特権性を否定するニーチェはその偏狭と退屈さをことのほか嫌い、「科学的」世界解釈といったものはありとあらゆる世界解釈のうちで最も愚劣なものの一つである、と言ったけれども、だからといってここで一切が虚妄だと言うつもりはない。科学的に求められた公理・法則・構造がひとつの仮説にすぎず、しかも、けっして客観的、“超越”的真理へ近づくわけではないとしても、それが世界像を刷新し続けることで人間の生の欲望に応えていく、その限りにおいて意味があるのだ、というのは説得力のある論だと思う(竹田青嗣. 現象学入門. NHKブックス 1989年)。そして、ヴィーコは細分化した知識を積み上げること以上に、対象を操作できることを重視し、それこそが究極の学問の目的だと考えた(学問の方法. 岩波文庫 1987年)。ならば、臨床的に観察される範囲内で事実をうまく説明し、明らかな誤りでもないのであれば、真理などは必要がなく、その病態もブラックボックスのままで構わないのではないかとさえ思える。もし、エビデンス(臨床試験の結果)と想定される分子病態(あるいは実験結果など)に齟齬があれば、臨床医が重きを置くべきは前者である。また、東洋医学は通常科学の範疇におさまるものではないが、臨床の現場ではすでに重要な役割を果たしている。一方で、科学に囚われた科学者・役人たちは、水俣において迅速に結論を下すことができず、被害の拡大を招いてしまったのだ(津田敏秀. 市民のための疫学入門. 緑風出版. 2003年)。患者にとっての有用性を至高の価値とみなせば、科学的厳密性に盲従する必要はなく、むしろそこからこぼれ落ちるものこそ気を留めなければならないと思う。 (2010.3.1)
現代医学は科学に基づいた病態生理的な観点から事象を系統立てて理解することを基本に据えており、今や患者もそのように説明されなければ納得しなくなった。ある症状なり徴候なりを、広く認められている病態生理的な知見にあてはめ、因果関係を説明し、その医学的なストーリーを踏まえて治療方針を決めるのである。そのため、臨床医は日々それぞれの患者の病態の解釈にあれこれと思い悩むのだが、かつては単一の病因を見出せば事足りたのが、慢性疾患が主体となった今では検討すべき要因が多く(砂原茂一. 医者と患者と病院と. 岩波新書 1983年)、しかも現実には得られる情報に限りがあり、既知の理論を適用できないものについては論理の拡張や推測で補わざるを得ない。
そして、その臨床医が頼みとする病態生理の体系にしても、未だ十全といえるものではない。それでも、さまざまな方面からアプローチした研究成果が蓄積されれば、自ずと真理の結晶が抽出されてくるはずだというのが常識的な理解だろう。だが、必ずしも着実な進歩がみられるものばかりでなく、方法論そのものに限界があることはいまさら言うまでもない。ハンソンの言う理論負荷性やクワインらによる決定不全性などという根源的な問いに正面から答えるのは容易ではなく、医科学の範囲内に限って考えてみても、たとえば分子病態の記述にはin vitroないし動物実験での成績に負う部分が大きいけれども、それらの結果をもって背景や条件の大きく異なるヒトの病態を説明しようとする場合、論理的な飛躍を伴うはずだ。つまりそこには、細胞の培養条件や種差など一定の環境下での観察であるという事実を無視する、あるいはヒトと同等であるとみなしてよい、という仮定がなければならない。もし、無条件にマウスのデータを持ってきてヒトでのデータの欠損を埋め、形式論理でつぎはぎできたとしても、それは表面的に体裁を整えたにすぎず、科学的な妥当性を犠牲にしたものになりかねない。臨床試験の成績ならば、その試験の対象者のプロフィールが眼前の患者に一致ないし大きな差がないことを確認するのがEvidence-based Medicine(EBM)でもっとも重視されている基本の一つであることを思えば、この意味は容易に理解されるはずである。このことが決定的に顕在化するのが薬の開発で、動物レベルで認められた有効性と安全性がヒトでも確認され、実際に製品化に至るのはそのごく一部に過ぎない。
さらに、結論を導く過程にも少なからぬ問題があると思う。たとえば、科学論文においては先行研究を踏まえた考察が求められ、その制約の下に主張を展開しなければならない。相反する内容をもつ複数の報告があれば、そのなかで論拠となりうるものを選択することになるのは当然だ。それどころか、引用した文献をそのまま援用するのではなく、その著者と異なる解釈を施すことにより、論旨を自在に操ることさえ可能である。一見、否定的な論文があったとしても、うまく料理すれば著者の論を補強する材料にすらなるのだ。抗IL-5抗体の臨床試験の結果により、喘息における好酸球の役割に疑義が生じたことがあったが、結局多くの研究者はあらゆる手を用いることで従来の理論への信頼を維持することに成功した、などという例もある(日内会誌 2006; 95: 1564-1571)。
形式的にはいくらでも文献を探し出し、いかようにも主張できてしまう危うさを孕んでいるのは否定できない。そしていったん矛盾なく説明されると、それがあたかも真理であるかのように錯覚してしまいがちである。いつの間にかその確からしさがあいまいなまま世間に流布し、信じられるに至っているものもないとは言えないだろう。そこで、その推論の妥当性を担保するため査読(ピアレビュー)という手続きがとられるわけだが、その判断基準はつまるところ明文化されているわけではない、“専門家集団の常識”とでもいうほかないものだ。科学的な装いをまとっているように見えても、その実、科学的な厳密性に欠け、恣意的とさえ見えるのも無理はない。「そもそも、研究者がみな学問していると思ったら大間違いである。研究者と称される人が、学んで問うことにはまるで縁がない、という場合はいくらでもある。特に、あちこちから知識や情報を仕入れてきて、いい加減な予測で議論することに余念のない人は、学問しているとは言い難い」(前田英樹. 独学の精神. ちくま新書 2009年)。これは根拠に乏しい過剰な物語を展開している専門家や、学会の中での権威者の発言のみを指しているのではない。このわたし自身に深刻な反省を促しているものなのだ。
けれども、それを満たせば科学的真実である、と誰もが納得するようなものはあるのだろうか。そもそも科学的真理さえ存在するものかどうかわからない(伊勢田哲治. 疑似科学と科学の哲学. 名古屋大学出版会. 2002年)。科学の特権性を否定するニーチェはその偏狭と退屈さをことのほか嫌い、「科学的」世界解釈といったものはありとあらゆる世界解釈のうちで最も愚劣なものの一つである、と言ったけれども、だからといってここで一切が虚妄だと言うつもりはない。科学的に求められた公理・法則・構造がひとつの仮説にすぎず、しかも、けっして客観的、“超越”的真理へ近づくわけではないとしても、それが世界像を刷新し続けることで人間の生の欲望に応えていく、その限りにおいて意味があるのだ、というのは説得力のある論だと思う(竹田青嗣. 現象学入門. NHKブックス 1989年)。そして、ヴィーコは細分化した知識を積み上げること以上に、対象を操作できることを重視し、それこそが究極の学問の目的だと考えた(学問の方法. 岩波文庫 1987年)。ならば、臨床的に観察される範囲内で事実をうまく説明し、明らかな誤りでもないのであれば、真理などは必要がなく、その病態もブラックボックスのままで構わないのではないかとさえ思える。もし、エビデンス(臨床試験の結果)と想定される分子病態(あるいは実験結果など)に齟齬があれば、臨床医が重きを置くべきは前者である。また、東洋医学は通常科学の範疇におさまるものではないが、臨床の現場ではすでに重要な役割を果たしている。一方で、科学に囚われた科学者・役人たちは、水俣において迅速に結論を下すことができず、被害の拡大を招いてしまったのだ(津田敏秀. 市民のための疫学入門. 緑風出版. 2003年)。患者にとっての有用性を至高の価値とみなせば、科学的厳密性に盲従する必要はなく、むしろそこからこぼれ落ちるものこそ気を留めなければならないと思う。 (2010.3.1)