「主体的であれ」、相変わらず事細かに指示されなければ動こうとしない(動けない)研修医に向けて今日もどこかで浴びせかけられているのかもしれない。かつての自分がまさにそうだった。しかしながら、実のところあまりに当たり前すぎて、しばしば聞き流されてしまっているようにも感じられる。心に届くことなく、ただの決まり文句に成り果ててはいないだろうか。
以前に比べれば患者の安全確保が徹底されている分、研修医の裁量の範囲が制限されているのは確かである。だからといって自分が動かなくとも指導医が何かしてくれるに違いないなどと考えていては傍観者の位置から抜け出すことはできない。病苦から逃れようと助けを求める患者を前に、当事者として期待される役割を果たし、その結果に責任を持つこと。そのためにこそ積極的にかかわることが要求され、新人医師は日々叱咤されるのだ。
とはいえ、この主体的であるということを自らに課す場合、生半可な覚悟では極め難いものでもあることに気づくだろう。たとえば、そのときどきの状況にただ流され、感情に身を任せてしまっているとすれば、たとえ誰の指図を受けているわけではないにせよ、光に向かって進むミドリムシと本質的には異ならない。目先の損得に惑わされ、朝三暮四、気に入らぬことがあれば後先考えることなく怒りを爆発させる“子供”、あるいはかつてデズモンド・モリスが“裸のサル”と呼んで詳細に記述したところの存在である。自然界の生物として快楽を求め苦痛を避けようとする感性的な面を持つのは仕方のないことながら、同時に本能や自然法則を超越した理性的な存在でもあるのが人間であるはずだ。非合理的な熱情にうごかされ支配される、いわば囚われとなった身を解放するのがすなわち理性なのだとスピノザは論じた。刺激にただ単純に反応するのではなく、理性の光に照らして状況に対応する自由をも有しているというのである。
理性を正しく働かせ、その指し示すところに従って行動すれば、いかに必然の鉄鎖にがんじがらめになっているように見えたとしても、自由の領域を創造し拡大しうる。身分制に縛られ貧苦の中で理不尽に虐げられてきた人々にとってはもちろんのこと、一見平等な社会に属する我々にとっても極めて魅力的な考え方であるに違いない。この世に持って生まれた能力や育った環境を変えることはできないが、その中で各自が望ましい目標を選択し、それに向かって最善の努力を積み重ねていくことはできるはずだ。こうして、理性の曇りを払い十全に働かせること、これが主体的たらんとするあらゆる人間にとっての最重要課題となった。その結果、数多くの桎梏から自らを解き放つに至った人類は、その利益と好奇心の赴くままに閉ざされていた扉をこじ開け、ついには大気圏外にも飛び出すこととなったのである。いまや無知蒙昧の闇はすっかりはらわれ、あふれる知識と情報の光の下に偏見など消え失せてしまったかのようにも感じられるだろう。まさしく理性が輝かしい勝利をおさめている時代だといえそうだが、それでもなお、物事を公平に考え、合理的に決定を下すのが極めて困難な営みであり続けているのは疑えない。
かつてイドラにまつわる論考が世に問われたのは中世から近世に移り変わる頃であった。主体的であろうとするなら、知らずしらずのうちに刷り込まれた思い込みや世間に流布した常識、さらには内面化された権威にも批判的な眼を向けなければならないことを指摘したのである。それは判断の前提となるべき事実の認識を歪め、しかもほとんど盲目的に従わせる力を持つという、極めてやっかいなものであるけれども、この現代においてもそのことに意識的でいる人はそれほど多くはないようだ。
一般論として、誰しも多かれ少なかれ偏った一面的なものの見方をしているはずだと言われれば、あえて否定する者は少ないのかもしれないが、現実に直面しているその場で自分の判断が誤っているかもしれないと疑いを持ちつつ対応していることはまれだろう。何か不都合なことがあればその原因を他者に求め責任を押しつけてばかりいる人、世間のあちらこちらで見聞きされる話だが、それも自分が正しいと思い込んでいればこそである。しかも困ったことに、自分のことは棚にあげながら、他人の行為を批判するのは実にたやすい。わずかな差異をことさらにあげつらい、あらゆるものに何らかの記号を押しつけ、見解を異にする者を侮蔑さえする。諍いが起こらないほうがおかしいのである。
このように考えてくると、今や自らを迷妄に縛りつけているのはこの自分自身であるとも思われるのだ。ここから自らを明晰な思考の世界へと解き放つのはたやすいことではないとしても、しばしば勧められる方法の一つとして、たとえば相手の立場から物事を考えてみるというのがある。医療の現場においては患者がスタッフの側とはまるで違う受け取り方をしていることは少なくない。寝たきりにならぬよう少しでも歩こうと懸命で、白飯を食べなければ元気にならぬと思い込んでいる患者は、転倒や誤嚥を懸念してこまごまとした制限を加える職員に不満を抱く。そのような場合に、医療者の側が意識的に患者・家族の身になって考えることで解決の糸口が見えてくるかもしれない。ささいなことかもしれないが、ここには大きな意味があるように思う。自分とは違うものの見方、感じ方をしている存在を認めること、それは単に他者の権利を尊重するという観念的なものではない。ものの見方を広げ、自らを高めていく上で必須の条件でもあることを強調したいのである。
常に理性的に振舞うこと、もちろんそんなことはあり得ないし、それを他人に押し付けようとも思わない。いっときの油断なく神経を張りつめ、誤謬を犯すことなく1日を過ごすなど無理な話だ。一方で、「特権的な自律的主体」など誇大妄想に過ぎないと切って捨てるのも釈然としないのだ。「限られた一つの社会が様々な役割を内部で割り振っていた。ふさわしい人がたまたま居合わせたというのではなく、役割そのものが重要だった。」(悲しき熱帯 中公クラシックス 2001年)と言ったのはレヴィ=ストロースだったが、それでも人と人とのつながりの中で自らを形づくり主体的に考え行動することが無意味だとは思えない。すべてを意志の力で統御できるわけでもないとはいえ、自らを省みることを知らない人間に振り回されるのは、もううんざりなのだ。(2014.9.8)
以前に比べれば患者の安全確保が徹底されている分、研修医の裁量の範囲が制限されているのは確かである。だからといって自分が動かなくとも指導医が何かしてくれるに違いないなどと考えていては傍観者の位置から抜け出すことはできない。病苦から逃れようと助けを求める患者を前に、当事者として期待される役割を果たし、その結果に責任を持つこと。そのためにこそ積極的にかかわることが要求され、新人医師は日々叱咤されるのだ。
とはいえ、この主体的であるということを自らに課す場合、生半可な覚悟では極め難いものでもあることに気づくだろう。たとえば、そのときどきの状況にただ流され、感情に身を任せてしまっているとすれば、たとえ誰の指図を受けているわけではないにせよ、光に向かって進むミドリムシと本質的には異ならない。目先の損得に惑わされ、朝三暮四、気に入らぬことがあれば後先考えることなく怒りを爆発させる“子供”、あるいはかつてデズモンド・モリスが“裸のサル”と呼んで詳細に記述したところの存在である。自然界の生物として快楽を求め苦痛を避けようとする感性的な面を持つのは仕方のないことながら、同時に本能や自然法則を超越した理性的な存在でもあるのが人間であるはずだ。非合理的な熱情にうごかされ支配される、いわば囚われとなった身を解放するのがすなわち理性なのだとスピノザは論じた。刺激にただ単純に反応するのではなく、理性の光に照らして状況に対応する自由をも有しているというのである。
理性を正しく働かせ、その指し示すところに従って行動すれば、いかに必然の鉄鎖にがんじがらめになっているように見えたとしても、自由の領域を創造し拡大しうる。身分制に縛られ貧苦の中で理不尽に虐げられてきた人々にとってはもちろんのこと、一見平等な社会に属する我々にとっても極めて魅力的な考え方であるに違いない。この世に持って生まれた能力や育った環境を変えることはできないが、その中で各自が望ましい目標を選択し、それに向かって最善の努力を積み重ねていくことはできるはずだ。こうして、理性の曇りを払い十全に働かせること、これが主体的たらんとするあらゆる人間にとっての最重要課題となった。その結果、数多くの桎梏から自らを解き放つに至った人類は、その利益と好奇心の赴くままに閉ざされていた扉をこじ開け、ついには大気圏外にも飛び出すこととなったのである。いまや無知蒙昧の闇はすっかりはらわれ、あふれる知識と情報の光の下に偏見など消え失せてしまったかのようにも感じられるだろう。まさしく理性が輝かしい勝利をおさめている時代だといえそうだが、それでもなお、物事を公平に考え、合理的に決定を下すのが極めて困難な営みであり続けているのは疑えない。
かつてイドラにまつわる論考が世に問われたのは中世から近世に移り変わる頃であった。主体的であろうとするなら、知らずしらずのうちに刷り込まれた思い込みや世間に流布した常識、さらには内面化された権威にも批判的な眼を向けなければならないことを指摘したのである。それは判断の前提となるべき事実の認識を歪め、しかもほとんど盲目的に従わせる力を持つという、極めてやっかいなものであるけれども、この現代においてもそのことに意識的でいる人はそれほど多くはないようだ。
一般論として、誰しも多かれ少なかれ偏った一面的なものの見方をしているはずだと言われれば、あえて否定する者は少ないのかもしれないが、現実に直面しているその場で自分の判断が誤っているかもしれないと疑いを持ちつつ対応していることはまれだろう。何か不都合なことがあればその原因を他者に求め責任を押しつけてばかりいる人、世間のあちらこちらで見聞きされる話だが、それも自分が正しいと思い込んでいればこそである。しかも困ったことに、自分のことは棚にあげながら、他人の行為を批判するのは実にたやすい。わずかな差異をことさらにあげつらい、あらゆるものに何らかの記号を押しつけ、見解を異にする者を侮蔑さえする。諍いが起こらないほうがおかしいのである。
このように考えてくると、今や自らを迷妄に縛りつけているのはこの自分自身であるとも思われるのだ。ここから自らを明晰な思考の世界へと解き放つのはたやすいことではないとしても、しばしば勧められる方法の一つとして、たとえば相手の立場から物事を考えてみるというのがある。医療の現場においては患者がスタッフの側とはまるで違う受け取り方をしていることは少なくない。寝たきりにならぬよう少しでも歩こうと懸命で、白飯を食べなければ元気にならぬと思い込んでいる患者は、転倒や誤嚥を懸念してこまごまとした制限を加える職員に不満を抱く。そのような場合に、医療者の側が意識的に患者・家族の身になって考えることで解決の糸口が見えてくるかもしれない。ささいなことかもしれないが、ここには大きな意味があるように思う。自分とは違うものの見方、感じ方をしている存在を認めること、それは単に他者の権利を尊重するという観念的なものではない。ものの見方を広げ、自らを高めていく上で必須の条件でもあることを強調したいのである。
常に理性的に振舞うこと、もちろんそんなことはあり得ないし、それを他人に押し付けようとも思わない。いっときの油断なく神経を張りつめ、誤謬を犯すことなく1日を過ごすなど無理な話だ。一方で、「特権的な自律的主体」など誇大妄想に過ぎないと切って捨てるのも釈然としないのだ。「限られた一つの社会が様々な役割を内部で割り振っていた。ふさわしい人がたまたま居合わせたというのではなく、役割そのものが重要だった。」(悲しき熱帯 中公クラシックス 2001年)と言ったのはレヴィ=ストロースだったが、それでも人と人とのつながりの中で自らを形づくり主体的に考え行動することが無意味だとは思えない。すべてを意志の力で統御できるわけでもないとはいえ、自らを省みることを知らない人間に振り回されるのは、もううんざりなのだ。(2014.9.8)