臨床の現場では病理診断はgold standardとみなされ、1枚のレポートが治療方針の決定に絶対ともいうべき影響を与えることもしばしばである。そのような症例で、もし病理検体を得ることができず、それ以外の臨床所見のみを根拠に治療を開始しなければならないとすれば、それは高度に不確実な状況下の判断を強いることになるだろう。だからといって、常に確定診断をつけなければならないというのは早計に過ぎ、時にはあえて経過を観察するにとどめることだってある。けれども、たとえ本人がそのように望んでいたとしても、家族が理解しようとせず、周囲の人々をも巻き込み、中には熟慮の末のこの選択を指弾し、ありがたくもない一方的な評価を熱心に流布する者さえある。地域の中にどっぷり浸かっていればこの種の面倒を避けることはできないと悟ってはいても、無責任な世間をまったく無視する勇気もない。現実は理想にいつまでも拘泥することを許さず、ついには事務的にあれもこれもと検査を勧めることをよしとして省みることはなくなるのである。
ところで、それほどまでに重みを持つからには、病理学でいう良性と悪性は明確な基準に則ったもので、疑問の余地もなく截然と区別されているはずだと思う。これを発癌のプロセスに置き換えてみても、前癌病変と癌との間には確かに大きな断絶があるように思える。けれどもそこにいたる道のりには複数の遺伝子変異がかかわっていることを考慮すれば、むしろ小さな飛躍の積み重ねの結果とみなすのが自然だ。しかもいかに悪性腫瘍であろうと癌細胞のすべてが活発に分裂しているわけでもない。増殖分画growth fraction(増殖している細胞の比率)は思いのほか小さく、わずか10%程度のことが多いのだ(Int J Cancer 1985; 35: 169-171)。良悪性の隔たりは一般に想像されているほど大きいものではなく、その区別は自明だとも言い切れないように思えてくるのである。
良性転移性平滑筋腫(benign metastasizing leiomyoma: BML)はこのことを端的に示す存在だ。既往ないし並存疾患として子宮平滑筋腫を有する患者に、肺や骨盤リンパ節など子宮から離れた臓器に良性の平滑筋腫を認めるもので、子宮切除/腫瘍核出後3~20年してから健診等で偶然発見される例が多く(Am J Roentgenol 1976; 127: 441-446)、肺結節は辺縁明瞭で径数mm~4cmのものが多発するのが典型とされる(Am J Roentgenol 2001; 176: 1409-1413)。閉経していない婦人にみられることが多く、BML細胞にはestrogen receptorやprogesterone receptorが発現し、閉経後に縮小したという報告や必ずしも効果は一定しないもののLH-RH誘導体やtamoxifen、progesterone、aromatase inhibitors、卵巣摘除などホルモン療法が有効であった症例もある(Clin Chest Med 2004; 25: 343-360)。以上の特徴から、その名のとおり病理組織学的には良性である子宮平滑筋腫が肺に転移したものと理解され、Steinerが1939年に報告して以来、医学の常識を揺るがすその概念は多くの議論を喚起した(Dail and Hammar’s Pulmonary Pathology 3rd ed. Springer 2008年)。すなわち、従来の腫瘍学の理論を前提とするならば、“良性”もしくは“転移”のいずれかを否定しなければならないはずであり、実際にそのような批判が多くなされている。このうち前者の立場からBMLを平滑筋肉腫であると主張する意見が根強くあるのだが、それは病理組織学的な判定基準に限界があると言うのに等しく、その見直しを迫られるのはもちろん、生物学的な振舞いの異なる従来の子宮平滑筋肉腫と同一の疾患カテゴリーとして扱うことの妥当性についても説明を求められずには済まないだろう。一方、後者の立場においてはこれを転移ではなく肺に多源性に生じたものとし、multiple fibroleiomyomatous hamartomaと呼称する者もあったが、現在ではその考えを支持する研究者はほとんどないようだ。
同じような問題を抱えるのはBMLばかりではない。intravascular leiomyomatosis(IVL)やdisseminated peritoneal leiomyomatosis(DPL)も良性腫瘍らしからぬ様態を示し(Clin Chest Med 2004; 25: 343-360)、さらに驚くべきことに、リンパ脈管筋腫症(lymphangioleiomyomatosis: LAM)でみられる肺のLAM細胞も組織学的には良性である腎angiomyolipomaの平滑筋細胞の転移に由来することが指摘されているのである(Genes Chromosomes Cancer 2003; 38: 376-381)。このように、良性/悪性を判定する局面において特権的な地位を有するはずの病理学的検査にも限界がないわけではない。臨床所見がこれを補うために不可欠だというのは当然だけれども、その意義は決してそれにとどまるものではないと思う。医学の来し方を振り返ってみれば、何をもって良性あるいは悪性とみなすかの拠りどころはむしろ臨床の側にあった(ロビンス基礎病理学 第7版 廣川書店 2004年)。つまり、周囲組織に向かって浸潤性・破壊性に増殖し、転移を形成するという態度こそが、悪性であることを示す最も信頼される根拠である。病理学者はそこから肉眼所見を顕微鏡下の病理組織と対比し、さらに腫瘍細胞の形態を詳細に整理してきた結果、ついに組織学的な形態から逆に臨床的な振舞いの予測を可能とするに至ったのだ。それでも、核分裂像や細胞の異型性、組織所見などの形態学的な悪性度と生物学的・臨床的悪性度の間には乖離があることを否定できず、両者が常に併行しているわけではない。また、それ以前の技術的な制約、たとえば、検体量の不足や挫滅・乾燥、あるいはそもそもそれが対象とする病変全体を代表していない、といったこともありえる。だからこそ、現代においても病理医自身が病理診断を過度に信用してはならないと繰り返し警告しているのだ。病理レポートを鵜呑みにすることなく、臨床所見を踏まえた上で総合的に評価するのは臨床医の責任である。
古来、東洋において学問を修めるとは、天の秩序を認識することであり、それは必然的にその時々で惑わされない自己を磨き鍛えることになると考えられてきた(安岡正篤. 知命と立命-人間学講話 プレジデント社 1991年)。いかにも牧歌的で、この現代においては唾棄すべき夢想にすぎないと感じられ、ともすれば嘲笑の対象にすらなるだろう。しかし、学ぶことによって自分を超えたものに畏敬の念をいだき、それが自らのうちにも流れていることをこころえ、さらにこの世界にかかわっていこうとする理想も何もなければ、まさにこの日本のあちらこちらで目撃されているように、ただひたすら自分の中に沈殿していくばかりで、醜く肥大した自我をもてあますだけの存在に成り下がってしまう(勢古浩爾. 日本を滅ぼす「自分バカ」 PHP研究所 2009年)。ここで取り上げられるテーマは医学・医療のごく一部で、狭い領域にもぐりこんだ知識の羅列に堕しがちではあるけれども、それに満足していてはいけないと自戒する。新しい時代の到来に敏感であった佐久間象山がかつて和魂洋才という言葉のその核に込めただろう思いがかすかにわかるような気もするのである。そんなことを考えるようになったのも、人生の果てがおぼろげに見えてきたからだろうか。 (2010.6.21)
ところで、それほどまでに重みを持つからには、病理学でいう良性と悪性は明確な基準に則ったもので、疑問の余地もなく截然と区別されているはずだと思う。これを発癌のプロセスに置き換えてみても、前癌病変と癌との間には確かに大きな断絶があるように思える。けれどもそこにいたる道のりには複数の遺伝子変異がかかわっていることを考慮すれば、むしろ小さな飛躍の積み重ねの結果とみなすのが自然だ。しかもいかに悪性腫瘍であろうと癌細胞のすべてが活発に分裂しているわけでもない。増殖分画growth fraction(増殖している細胞の比率)は思いのほか小さく、わずか10%程度のことが多いのだ(Int J Cancer 1985; 35: 169-171)。良悪性の隔たりは一般に想像されているほど大きいものではなく、その区別は自明だとも言い切れないように思えてくるのである。
良性転移性平滑筋腫(benign metastasizing leiomyoma: BML)はこのことを端的に示す存在だ。既往ないし並存疾患として子宮平滑筋腫を有する患者に、肺や骨盤リンパ節など子宮から離れた臓器に良性の平滑筋腫を認めるもので、子宮切除/腫瘍核出後3~20年してから健診等で偶然発見される例が多く(Am J Roentgenol 1976; 127: 441-446)、肺結節は辺縁明瞭で径数mm~4cmのものが多発するのが典型とされる(Am J Roentgenol 2001; 176: 1409-1413)。閉経していない婦人にみられることが多く、BML細胞にはestrogen receptorやprogesterone receptorが発現し、閉経後に縮小したという報告や必ずしも効果は一定しないもののLH-RH誘導体やtamoxifen、progesterone、aromatase inhibitors、卵巣摘除などホルモン療法が有効であった症例もある(Clin Chest Med 2004; 25: 343-360)。以上の特徴から、その名のとおり病理組織学的には良性である子宮平滑筋腫が肺に転移したものと理解され、Steinerが1939年に報告して以来、医学の常識を揺るがすその概念は多くの議論を喚起した(Dail and Hammar’s Pulmonary Pathology 3rd ed. Springer 2008年)。すなわち、従来の腫瘍学の理論を前提とするならば、“良性”もしくは“転移”のいずれかを否定しなければならないはずであり、実際にそのような批判が多くなされている。このうち前者の立場からBMLを平滑筋肉腫であると主張する意見が根強くあるのだが、それは病理組織学的な判定基準に限界があると言うのに等しく、その見直しを迫られるのはもちろん、生物学的な振舞いの異なる従来の子宮平滑筋肉腫と同一の疾患カテゴリーとして扱うことの妥当性についても説明を求められずには済まないだろう。一方、後者の立場においてはこれを転移ではなく肺に多源性に生じたものとし、multiple fibroleiomyomatous hamartomaと呼称する者もあったが、現在ではその考えを支持する研究者はほとんどないようだ。
同じような問題を抱えるのはBMLばかりではない。intravascular leiomyomatosis(IVL)やdisseminated peritoneal leiomyomatosis(DPL)も良性腫瘍らしからぬ様態を示し(Clin Chest Med 2004; 25: 343-360)、さらに驚くべきことに、リンパ脈管筋腫症(lymphangioleiomyomatosis: LAM)でみられる肺のLAM細胞も組織学的には良性である腎angiomyolipomaの平滑筋細胞の転移に由来することが指摘されているのである(Genes Chromosomes Cancer 2003; 38: 376-381)。このように、良性/悪性を判定する局面において特権的な地位を有するはずの病理学的検査にも限界がないわけではない。臨床所見がこれを補うために不可欠だというのは当然だけれども、その意義は決してそれにとどまるものではないと思う。医学の来し方を振り返ってみれば、何をもって良性あるいは悪性とみなすかの拠りどころはむしろ臨床の側にあった(ロビンス基礎病理学 第7版 廣川書店 2004年)。つまり、周囲組織に向かって浸潤性・破壊性に増殖し、転移を形成するという態度こそが、悪性であることを示す最も信頼される根拠である。病理学者はそこから肉眼所見を顕微鏡下の病理組織と対比し、さらに腫瘍細胞の形態を詳細に整理してきた結果、ついに組織学的な形態から逆に臨床的な振舞いの予測を可能とするに至ったのだ。それでも、核分裂像や細胞の異型性、組織所見などの形態学的な悪性度と生物学的・臨床的悪性度の間には乖離があることを否定できず、両者が常に併行しているわけではない。また、それ以前の技術的な制約、たとえば、検体量の不足や挫滅・乾燥、あるいはそもそもそれが対象とする病変全体を代表していない、といったこともありえる。だからこそ、現代においても病理医自身が病理診断を過度に信用してはならないと繰り返し警告しているのだ。病理レポートを鵜呑みにすることなく、臨床所見を踏まえた上で総合的に評価するのは臨床医の責任である。
古来、東洋において学問を修めるとは、天の秩序を認識することであり、それは必然的にその時々で惑わされない自己を磨き鍛えることになると考えられてきた(安岡正篤. 知命と立命-人間学講話 プレジデント社 1991年)。いかにも牧歌的で、この現代においては唾棄すべき夢想にすぎないと感じられ、ともすれば嘲笑の対象にすらなるだろう。しかし、学ぶことによって自分を超えたものに畏敬の念をいだき、それが自らのうちにも流れていることをこころえ、さらにこの世界にかかわっていこうとする理想も何もなければ、まさにこの日本のあちらこちらで目撃されているように、ただひたすら自分の中に沈殿していくばかりで、醜く肥大した自我をもてあますだけの存在に成り下がってしまう(勢古浩爾. 日本を滅ぼす「自分バカ」 PHP研究所 2009年)。ここで取り上げられるテーマは医学・医療のごく一部で、狭い領域にもぐりこんだ知識の羅列に堕しがちではあるけれども、それに満足していてはいけないと自戒する。新しい時代の到来に敏感であった佐久間象山がかつて和魂洋才という言葉のその核に込めただろう思いがかすかにわかるような気もするのである。そんなことを考えるようになったのも、人生の果てがおぼろげに見えてきたからだろうか。 (2010.6.21)