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日本が自滅する日 The Economic Structure of the Bureaucracy will Eat Up people’s Wealth

2024-10-15 12:59:56 | 本の紹介

 

官僚体制が国民のお金を食い尽くす!

解説

 小泉首相が進めている構造改革で本当に日本は再生できるのか。7年も前から構造改革の必要性を直言してきた衆議院議員である著者が調べあげた事実を基に検証すると――。日本の「経済」は極端にいえば、国と地方と合せて、国民の税金と貯金、年金、保険積立金など350兆円を上から流し込んで消費しているだけのものだ。つまり、市場特有の拡大再生産機能によって生み出される果実はないに等しい。“市場”が死亡状態となり、借金が借金を呼ぶ財政破綻構造に陥っている。積もり積もったほんとうの借金額は1000兆円を超えている。日本再生の鍵は国家体制を官制経済から市場経済に移行させることである――。小泉首相は構造改革を経済政策や金融政策と混同していると批判し、著者渾身の真の構造改革のための25のプログラムを提示する。日本を破産させる利権システムの全貌を踏まえた提言には、著者の日本再生への思いがこもっている。

発売日
2002年01月09日

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-61414-4

 

序章

真の構造改革とは何か ―― 「もう一つの日本」を直視せよ

 

 

 危機をもたらした真の原因は何か
 いま為さなければならない真の構造改革とは何か。


 それを論ずるには、まず、今日わが国が直面している経済、財政、社会の危機をもたらした要因は何か、について正しい認識を持つ必要がある。この三十年間にわたってわが国に浸透し、遂には体制を支配するに至った“官制経済”のシステムこそが、その要因である。


 官制経済体制とは、中央集権、官僚制、計画経済、そして閉鎖財政(国民に見えない財政)を基本構造とする国家の類型である。官制経済体制の下では基本的に経済は権力に従事するため、本来の経済(=市場)は失われる。


 したがって構造改革の目的はただ一つ、国家体制を官制経済から市場経済に移行することである。経済を権力の浸蝕から解放し、経済(=市場)のものとするのである。


 利権を本質とする官制経済体制を形成する要素は次の四つである。第一に行政が「公共事業」および「経済振興」を展開する“政策”、第二に開発法、、振興法、整備法、事業法、政省令、規則、許認可からなる“法制度”、第三に補助金、特別会計、財政投融資計画で構成される“財政制度、そして第四に特殊法人、公益法人、許認可法人など官の企業群を擁する”行政組織“だ。


 以上の“政策”“法律”“会計”“組織”の四本柱はすべて各省庁の縄張り(所管)となり、それぞれに連なる政治家があり、政治的“力関係”(政治力)によって機能するのである。これがまぎれもないわが国官制経済のトータルシステムなのである。


 わが日本国では、この周到に編みあげた官制経済体制のシステムの下に、政治家たちが笛を吹き「景気対策は税金をバラ撒くもの」「経済は政府の政策と予算で支えるもの」との“原理主義”を普及させ、学者も評論家もマスコミも、そして経済人といわれる人々までがこぞってこうした集権的意識構造の下に振る舞っているのである。

 その結果、国の本来の会計である「一般会計」予算は八五兆円と書いたカモフラージュ(迷彩)の中に置かれ、実際の運営は誰も知らない二六〇兆円という巨額のカネが闇の中のコウモリの大群のように飛び交うことになった。この中で補助金として分配される金額は少なくとも五〇兆円、公共事業関係で支出される金額は国だけで三〇兆円にもなる構造が完成しているのである。これは第一章で詳しく述べる。


 この国の「経済」は端的にいえば、国と地方と合わせて国民の税金と貯金、年金、など三五〇兆円を上から流し込んで消費しているだけのものだ。つまり、市場特有の拡大生産機能によって生み出される果実はないに近い。経済的価値を創出する“市場”が死亡状態となり、回復不能の、借金が借金を呼ぶ財政破綻構造に陥っている。積もり積もったほんとうの借金額は一〇〇〇兆円を超えてしまっている。
 この重い病を癒す方法は、ありもしない“市場”に向かって“金融対策”だと無駄な金を突っ込むことではない。問題は単なる経済政策の領域にあるのではない。その鍵は“市場”と権力のあいだにあるのである。
 小泉政権の大きな誤りは「構造改革」を相変わらず経済政策や金融政策と混同しているところにある。小泉氏は自分で「構造改革」の言葉を述べているが、中身になると、「経済・財政諮問会議」なる機関に担わせて、経済学者を矢面に立たせている。しかし、「構造改革」とは経済政策や金融政策、財政政策の次元の問題ではなく、こうした政策議論を超えた「市場」と権力の問題、「市場」に向き合う政治体制のあり方の問題なのである。
 言い換えれば、必要なのは「市場」の存在を前提とした政府の景気対策や産業政策の議論ではなく、政治家が政治的に旧体制と闘い、そのシステムを打破し、「市場経済体制」と自立した経済を保障する新たなシステムをいかに創るかということなのである。


 私がかねてから述べてきたように、この国には“見えざるベルリンの壁”がある。冷戦時代に資本主義と社会主義を隔てた、あの壁だ。壁の向こう側では、一九六〇年代以降、“政府権力の闇市場”が広がっていた。その勢いは山火事のように早く、その量はねずみ算のように一般の想像を絶する規模に膨らんだ。


 この権力による経済浸蝕のそれぞれの過程において、それに合わせた政策と予算と法の巧妙な“裏打ち”が積み重ねられ、それらが次第にそれなりの国家形態を形成させた。この変貌は見えない所で行われたため、実体は一般にきわめて解明されにくいものであった。この解明には実際、政治家が持つ国政調査権という手がかりしかないほど閉ざされたものだったのである。


 この変化は一九七〇年代から八〇年代にかけて急速に進み、わが国に「官制経済体制」が形成された。とくに七〇年代には、公共事業の拡大、特別会計や財投の全面出動、行政企業のフル稼働、事業法の大展開がおこなわれた。一九八〇年代の終わり頃から政府の「経済対策」が目に見える効果を示さなくなってきたのは、じつは権力による「市場破壊」が進行していたからだ。また、経済学者や経済評論家の「景気予測」などが目立って迷走したのも、それ以降のことである。

 

市場から権力の足枷を取り払え

 以上のような認識に立てば、いま必要な構造改革とは、官制経済の中心である世界最大級の行政企業群とそれを支える法制度や財政システムの廃止であることがはっきりする。これこそまさに、構造改革の目的でなければならない。そのための大胆で壮大なプログラムの提示と実行に、政治は取り組むべきなのだ。

 これさえ断行できれば、諸々の経済問題は基本的に自立した経済が自ら解決する。「サービス産業の拡大」「産業構造の再編」「経営改革」など市場の具体的な活動にまで政府が直接手を下すことは、むしろ構造改革に反する。「IT国家」などに政府が深入りすることは、権力主導の公共事業の発想と同じで、むしろ構造改革の逆行である。当面は基本的に、市場活動に対する権力の足枷を取り払いさえすればよいのだ。

 とはいえ、これこそ政治家を含む壮大な既得権益との厳しい闘いであり、緻密な戦略の下に国民とともに実行されなければならない「歴史的課題」なのである。

 構造改革の成果が本格的に市場に現われるには少しく時間を要する。だが、その間の時間は市場の「マインド」が支える。不良債権の解消は基本的には構造改革の成果を吸収しながら進むことになる。構造改革によって民間に出現する膨大な「経済」に対して、基盤を得た銀行が対応できるよう、グローバル・スタンダードの強制や不良債権に関する規制などを逆に見直し、銀行に自由で責任ある行動(発展と後退の自由)を促すことが重要である。

 結局、構造改革とは、民幹部問にさらなる世話をやくことではなく、官制経済体制から市場経済体制へ転換することなのである。このことを明確にすることが構造改革の戦略である。

 

 

小泉流では日本が潰れる

 公共事業や財政について小泉首相の認識はまことに不十分だ。彼の発言を聞いていると、わが国の財政について財務省の“公式発表”の数字しかご存知ないように思われる。

 彼は(第一章で説明するようにほとんど意味のない)「一般会計」の数字を用い「公共事業費は一〇兆円なので、その一割を減らしても一兆円しか削減できない」とか「八五兆円という国の予算の中で国債の新規発行額を三〇兆円以内に押さえるのだ」と胸を張っている。日本国の財政について総理大臣が何十兆円、何百兆円という単位で間違った認識を持ち、“ベルリンの壁”の内実をほとんど知らないのは困ったことである。

 小泉氏は「構造改革」の実施が遅れていることについて再三「みんなの意見を聞いてから決める」と答えている。これは小泉氏自身が方針を持っていないことを示している。国民はすでに、小泉氏の「改革」は旧来の政官権力の利権秩序を破壊し、日本再生を実現するものと受け止め、その断行に同意を与えている。族議員の多い自民党や特殊法人などを抱えている省庁の意見を聞くことを望んでいない。

「構造改革」は政治家や官僚が作ってきた積年の悪弊である既得権益の構造を打ち破る国民自身の闘いでもある。そうした国民の期待を担っている小泉首相が、自分自身の確固とした信念に基づいた方針も出さずに「多くの人々の意見を聞いて」では納得できない。

「構造改革」が既存の権益や利権を破壊するものだとすれば、旧体制における利権を手放すことへの「抵抗」は必至である。彼らはその全存在をかけて命懸けの闘いを試みることになろう。

「構造改革」は官制経済から市場経済への体制の改革という意味でも、また既存の秩序・権益との闘いという意味においても、まさに「改革」なのである。これは大勢の人々の意見を聞いて方針を決める、などという性質の問題ではない。

“ベルリンの壁”の向こう側のことは政府自らが明らかにすべきだ。同時に国政調査権を持つ政治家が自ら調べて実態と方針を国民に示し、犠牲者である国民とともに改革を断行するのだ。それくらいの知識と構想力と指導力がある政権でないと真の構造改革は遂行できない。

 行政改革担当大臣が省庁の特殊法人見直し案提出の期限目前に、参考例はないかとヨーロッパに勉強に行くような一夜漬けではいささか心もとない。ヨーロッパに行ってわかることは、特殊法人などというものが支配的な国は官制経済の日本ぐらいのものだということぐらいである。

 もし小泉氏が全身全霊を投じてこの闘いの陣頭指揮をとろうとするのであれば、むしろ向こう三年間にわたり、「開かれた戒厳令」ともいうべき強力な臨戦態勢を確立することが必要だ。民主主義の制度をさらに広げて、国会の自由討議やそれを国民とつなぐテレビの活用、そして政治家の自由な言動と責任を保障する党議拘束の廃止などが求められる。

 

 

 「骨太の方針」は検討違いだ

 小泉内閣の「骨太の方針」は「経済再生」および「構造改革」の二本柱で、その全体が「構造改革」という組み立てである。「経済再生」については、効率性と社会性を重視した資源の移動を活発にするために、市場と競争を重視するといったありきたりの考えを示したうえ、具体的には不良債権の解消を「第一歩」とし、IT国家、規制改革、財政改革などを実施することと述べている。

「構造改革」に関しては「日本経済の・・・・・・実力をさらに高め、・・・・・発展を遂げるためにとるべき道を示すもの」であり、「七つのプログラム」として特殊法人等の見直し、チャレンジャー支援、地方の活性化、公共事業計画の見直しなどが提示されている。

 私はこの「骨太の方針」は非常な危険を孕んでいると思う。勘違いの方向に思い切りアクセルを踏んだようなものである。断固ストップし、方向転換すべきであると考える。

 というのは、小泉政権の方針は、経済政策における不良債権問題や産業活性化にいても、一部の特殊法人等の「見直し」といった発想においても、基本的には従来の政府がとってきたものと変わらないからだ。従来の姿勢と異なるのは公共事業の削減、すなわち政府支出の抑制のみである(これについても小泉首相の言動は揺れている)。これではかつての橋本政権より危険な要因が強くなる。デフレ圧力の下で政策的に失業・倒産を増大させ、株式市場の動揺や国債の暴落など、恐慌の条件をつくり出しかねない。

 いま必要なことは、従来の方針のどこに比重を移すかではない。現在の国家経済構造に対するアンチ・テーゼ(対策)を掲げることである。そして、そのプログラムを示すことである。

 今日わが国が直面している事態を見れば、大問題は既存の体制それ自体にあることがわかる。既存の体制とは、権力による経済浸蝕の構造、すなわち官制経済体制である。市場を市場でなくしてしまった官制経済体制にこそ日本経済低迷の原因があり、そこにこそ日本再生のための問題を解く鍵がある。

 銀行や企業活動の行き詰まりが解決されないのは、不良債権処理への手際が悪かったからではない。(全民間の一・三倍の規模をもつ)政府系金融の肥大化と政府の過度の介入・規制による金融市場自体の自壊状況が原因なのだ。そして経済活動(市場)全般への行政企業の大規模な進出・浸食による市場経済そのものの瓦解が原因なのである。

 したがって、日本経済の基盤の構築、すなわち官制経済から市場経済への転換なくして、ひとり銀行だけが蘇ることはないし、(民間の)経済が旧来の体制のままで息を吹き返すこともないのである。

 以上、小泉政権の「経済再生」と「構造改革」についての私の見解は二つに要約できる。第一に、金融事業本来のシェアと活動諸条件を政府系機関が占有している状況下で、民間銀行の不良債権が「優先的に」解消されることはありえないということである。

 第二に、不動産・建設・土木・運輸・通信をはじめ主要産業各分野が政府系行政企業に圧倒され国内に市場性が失われている状況下では産業の創出・改編も企業の不良債権解消も、それ自体問題にならないということである。

 経済再生は、“市場”に対してあれこれと世話をやくことではなくて、経済(=市場)と政官権力の関係のあり方を根本から改める方策としての「構造改革」にかかっている。

 

 わが国の経済成長率は公的支出の反映

「骨太の方針」は、不良債権処理を行う「集中調整期間」は経済成長率がゼロまたは一%にとどまらざるをえない、と述べている。この「構造改革」と経済成長率との関連には矛盾があることにも触れておかなかければならない。

 この辺の記述は、「集中調整期間」中は高い経済成長が望めないことを、あらかじめ断っておくつもりであるためのようにも見えるし、逆に公共投資とは別の形で需要対策をとり続けることによって現状の国内総生産(GDP)水準の維持を宣言する意図のようにもとれる。いずれにしても理解困難である。

 後にGDPと市場経済との関連において述べるとおり、わが国のGDPはほとんど政府支出の反映という性質を持っている。したがって経済成長率を左右する要素はほとんど公的支出にかかっている。

 一方で小泉政府は「新規国債発行を三〇兆円以内」に抑えるほか、公共投資予算等の削減を打ち出している。また、郵政をはじめ特殊法人等の「民営化」を実行すれば政府の予算支出はさらに減少するはずである。全般に、民営化を含め、構造改革の成果は当面強い「デフレ」要因となる。

 こう考えると、「成長率ゼロまたは一%」という期待はどこから出てくるのだろうか。逆に、政府予算規模の水準を維持するとすれば、それは財政の構造改革との矛盾を来す。

 はたせるかな昨年一一月五日、「骨太の方針」からわずか四ヵ月で内閣府は平成一三年度の成長率見通しを、プラス一・七からマイナス〇・九に下方修正した(もっともこれは予算規模の縮小からきたというより、構造改革の迷走によるものであろうが・・・・)。

 もし本当に「民需主導」、すなわち経済の資源を行政の分野から市場に向けて大規模に移転するのであれば、わが国の中央政府支出(二六〇兆円)を当面の三年ほどのあいだにせめて米国の国家予算並み(一九〇兆円)の規模に縮小するべきであろう。

 そうなれば、市場経済体制が形成されるまでの「革命」期間におけるGDPは大幅に縮小し、成長率は大幅なマイナスになるはずだ。

 成長率はGDP数値の対前年度比であるから、大規模予算の配分で国民生活が維持されるわが国のような官制経済体制下では、成長率は必ずしも経済の実態を反映するものではない。

 したがって、「骨太の方針」が成長率にこだわるのは自家撞着である。財政規模の縮小は当面、必然的にマイナス成長をもたらすのがわが国のシステムなのであるから、そのことを明確にしたうえで改革に着手しなければ、それは生きた市場のマインドに大きな打撃を与える。

 この点について小泉氏は理解を欠いている。小泉氏はむしろ、構造改革の期間中は財政規模を大幅に縮小し、それに連動して成長率が下がること、そしてこれは景気の実態を反映するものではないことを明確に主張すべきなのである。

 

 

 「日本の構造改革」を成功させるには

  わが国経済政策の混迷を象徴している「不良債権処理」と「景気回復」をめぐる“論争”もまた、わが国経済の特性への無理解から生じている。

 与野党を含めた政界も経済界も言論界も、当面の経済・財政の立て直しをめぐって大きく二つの議論にわかれている。一方の陣営は、経済問題の解決にとっての根本的課題は銀行の不良債権処理と考えている。小泉政権の「骨太の方針」がその代表格である。他方は、不良債権処理を進める一方で不良債権が増大していく、いたちごっこの状態では、景気の落ち込みと地価の下落が続くだけなので、公共投資による景気刺激で需要を喚起することが重要とみる。

 しかし、私にいわせれば、これらの議論は「景気回復が先か、財政再建が先か」「二兎追うもの一兎も得ず」などの議論と軌を一にするもので、日本経済に対する認識が近視眼的である。

 後者の方から述べてみよう。この立場が主張する政府の財政出動は、確かに一般的には経済活動の触発剤になる。しかし、その際忘れてはならないのは、この理論は市場経済体制下においてのみ通用するということだ。

 ところが、今日のわが国の官制経済体制下では、経済対策としての公共投資等の予算はほとんど公的セクターまたは行政システムを通って流通し、余剰価値や付加価値を形成する「市場」を素通りし、むしろ市場における生産・流通コストに負荷をかけてしまう。財政出動によって刺激すべき「市場」がそもそも“寝たきり状態”なのだ。

 政府が一升の酒を漏斗に注げば(予算配分)、そのまま酒ビン(GDP)に一升弱の酒が落ちてくるだけのことだ。いくら「需要政策」を採っても経済は活性化も膨張もしないのである。

 この国では、過去十数年にわたって「景気対策」として総計百数十兆円の財政を投入し、かえって構造的には事態をますます悪化させてきた。公共投資論者は、そのことを省みない“原理主義者”である。

 この賭はいくら張っても当たらない。彼らが「景気対策」が効果を現さなかった毎年ごとの偶発的要因をどれほど説いてみても説得力はない。株価が反応したことがある、といえばそれはあるだろう。しかし、それは株式市場がある以上当たり前のことであり、マクロ経済の趨勢とは無関係なのである。

 これに対して、小泉改革が採用している前者の考え方は、不良債権をまず処理し、金融機関と企業を身軽にする必要があるとみる。そのうえで民間部門の構造改革を進め、サービス産業やIT産業を起こしていけば、景気回復が実現するというのである。しかし、これでは、手術はしてみたが病人は死んだ、という結果になる。民間部門の改革や景気回復のくだりにいたっては、日本経済の体質に関する認識の乏しさと、構造改革の内容の薄さを露呈しているといわざるを得ない。官制経済という経済の「砂地」に対して、どれほど種を播いても、耕しても、芽は出てこないことを知るべきである。

 さて、本書では、政官権力が政官権力のために作った日本の国家システムを作り替える「構造改革の戦略」を提示する。

 「構造改革」は一億二七〇〇万人が生活を営んできた経済、社会に対する大手術である。目標と手順を一歩誤っても致命傷である。何より心配であるのは小泉氏の挫折とともに「日本の構造改革」が失敗し、日本“崩壊”が現実のものとなることだ。

 よしんば小泉氏が挫折したとしても「構造改革」を挫折させるわけにはいかない。小泉氏は私の主張を取り入れ、なんとしても「日本の構造改革」を成功させてほしい。

 本書は、はじめの三つの章で、官制経済が支配する日本の現状を描写する。第一章が特別会計、財政、補助金を中心とする財政問題、第二章が特殊法人と公益法人を中心とする“官企業”の問題、そして第三章が公共事業の問題である。それらを踏まえて最終の第四章で、この国に必要とされる「市場革命」の内容を提言する。

 この国をどう改革すればよいかについての処方箋を手っ取り早く知りたい読者は、第四章をまずよまれたい。また、この国の経済の病の深さを具体的に知りたい読者は、それに先立つ三つの章を読んでいただきたい。

日本が自滅する日
The Economic Structure of the Bureaucracy will Eat Up people’s Wealth

衆議院議員 石井鉱基 著 PHP出版

官僚体制が国民のお金を食い尽くす!

より抜粋した。

 

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日本の権力は純粋に日本政府権力だけとはいえないことに要注意かも。

創発的なタイピング練習 ①

政府と銀行の仕事は ”偽装” だった。

 

 

 

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