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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「豊後」と「伊豫」の「国之境」

2021年02月07日 | 古代史
『続日本紀』に「豊後」と「伊豫」の間に『国之境』があり、そこに『戍』が置かれていたことが書かれた記事があります。(以下のもの)
 
(靈龜)二年(七一六年)…夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。
五月…辛夘。…大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還不在禁限。又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。道路遥隔。去來不便。或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。並許之。

上の霊亀二年記事では豊後と伊豫の間に「國之境」があり、そこには「戍」が置かれていたというわけですが、これが「大宰府」からの報告であることを考慮すると当然「戍」は「大宰府」側に存在していたとみるべきであり、「豊後」に置かれていたとみるべきでしょう。このことから「大宰府」では「四国」(伊豫)からの侵入を強く警戒していたことが窺えます。
 ところで、この記事の以前と以後の両方で「改元」に伴う恩赦記事があり、そこに「山沢亡命」者に対する出頭命令が出ています。
 
(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號止定賜。是以天下尓慶命詔久。冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。『亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。』

養老元年(七一七年)…十一月…
癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天■。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。天下老人年八十已上。授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜■三疋。綿三屯。布四端。粟二石。九十已上者。■二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上者。■一疋。綿一屯。布二端。粟一石。僧尼亦准此例。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡■獨疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯藥。『亡命山澤。挾藏兵器。百日不首。復罪如初。』又美濃國司及當耆郡司等。加位一階。又復當耆郡來年調庸。餘郡庸。賜百官人物各有差。女官亦同。

 ここで「亡命」しているとされる人々は「富永長三氏」の指摘(「憶良と亡命の民 -嘉摩郡三部作を読む」市民の古代第15集)によれば、新日本王権に反旗を翻していた人たちであり、旧倭国領域に特に王権交代に不満を持つ人々がかなり潜伏していたことが推定されます。
 この旧倭国領域(特に「直轄領域」)については以前検討したことがあり、『隋書』の記事と『和名抄』との比較から「九州島」と「四国」及び「中国」地方の半分程度までが該当する可能性を指摘しておきました。その意味で「伊豫」地域に旧倭国王権派の勢力がかなり存在していたこと、彼らはある程度の軍事力を有していたであろうことが推定できるものです。そのことは「伊豫軍印」という存在(これは「旧制軍団」に与えられたものと思われ、倭国王権の元のものと思われます)や、その後の「伊豫総領」(これも「旧倭国王権」により任命されていたものか)という存在からもここにある程度の「軍事力」があったことは明らかであり、その意味で新日本王権からは警戒されていたことも十分考えられます。
 確かに、薩摩・多ねが「反乱」を起こした際に、「唱更國司」(これは反乱の地である「薩摩」の国司たち)から「国内要害の地」には「柵」を建て「戍」をして守らせる、という言上がなされ、それが許可されたという記事がありますが、「要害の地」は特に「薩摩」だけというわけではなく、この時「伊豫」と「豊後」の間も同様に「要害の地」と考えられていたものと思われ、ここには「戍」が置かれたものと推定できるでしょう。
(「柵」のほうが規模が大きい)

 (七〇二年)二年…
 冬十月乙未朔。…
丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。唱更國司等今薩摩國也。『言。於國内要害之地。建柵置戍守之。』許焉。…
 
 さらに関連していると思われるのが、この「國之境」記事に続いて「薩摩大隅」の「隼人」について、大宰府に連れてこられてから八年経過しているという記事があることです。
 つまり彼らは戦いがおよそ集結したと思われる「七〇二年」付近から七年ほど経過した段階で、「貢」つまり「貢物」として(いわば「官」として)大宰府へ移動させられたこととなります。このような状況は旧倭国領域の制圧と統治が一定の割合で進行していることを示唆するものですが、他方それが完全ではない可能性も当然あるわけであり、それを示すものがこの前後の「投降」の呼びかけであったと思われるわけです。つまりこの「投降」の呼びかけの対象は「九州」の内部だけではなく、その周辺地域に及んでいたと考えるべきでしょう。
 このような状況がその後進展・緩和された結果「戍」を通過する人物についての制限が緩和され、また「隼人」の交替期限を短縮するということになったものであり、それはそのまま「投降者」がかなり増加したことを示すものと思われることとなります。  
 「伊豫」地域には以下に見るように「守」が適宜任命されており、統治が緩んでいたようには見えませんが、この領域の旧倭国王権支持者たちは粘り強く抵抗していたものと思われ、「戍」による守衛が有効であった期間が長く続き、武装解除完了まで「16年」を要したものと思われるわけです。
 「統制」が効き始めたと新日本王権が判断したことから「国境」の警備が簡素化され交通が以前より円滑になったものと思われるわけです。 
  
(七〇三年(大宝三年))八月辛酉。以『從五位上百濟王良虞爲伊豫守。』
(七〇八年)(和銅元年)三月…
丙午…『從五位上久米朝臣尾張麻呂爲伊豫守。』
(七〇九年)(和銅二年)十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲山背守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲伯耆守。『正五位下阿倍朝臣廣庭爲伊豫守。』
(七一四年)冬十月乙夘朔。…
丁夘。以從四位下石川朝臣難波麻呂爲常陸守。『從五位上巨勢朝臣兒祖父爲伊豫守。』從五位下津嶋朝臣眞鎌爲伊勢守。從五位上平群朝臣安麻呂爲尾張守。從五位下佐伯宿祢沙弥麻呂爲信濃守。從五位下大宅朝臣大國爲上野守。從五位下津守連通爲美作守。
(靈龜)二年(七一六年)
夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。『從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。』
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「薩摩国正税帳」と貢納路

2021年02月07日 | 古代史
 以前『筑後国正税帳』の中に、「種子島」からの僧侶の帰途の食料として「二十五日分」が支給されているという記事があり、これと『倭人伝』中の「投馬国」への日数として「水行二十日」と書かれていることとの関係を指摘しました。

「得度者還帰本嶋多褹僧貳躯《廿五日》単五拾人食稲貳拾束《人別四把》」(『筑後国正税帳』より)

 つまり天平四年の『筑後国正税帳』中に「種子島」から来ていた僧侶や人夫の帰還に食料を支給した記事があり、それを見ると「二十五日分」であって、この日数から考えてこれが「大宰府」から「多褹」までの全日程に要するものと見たわけですが、同時にこれが「陸路」ではないであろうと考えたわけです。もし「陸路」であったとすると当然隣国の国府までの食料を支給すればよいはずであり、最終的に「薩摩」からだけが「水行」の対象となるはずですが、実際には「多褹」までの全日程分の支給をしているということから考えてこれは全行程を「水行」したと見たものです。つまり「多褹」から「大宰府」までは「有明海」を「沿岸沿い」に北上して「筑後川」河口に到達した後、「筑後川」を遡上して「大宰府」まで行ったものと考えたものであり、帰路はちょうどこの逆ルートを使用したものと考えました。
 『倭人伝』の中で「投馬国」までの行程が「水行二十日」と書かれている点について(この「投馬国」の位置については諸説ありますが)、私見では「伊都国」からの行程が書かれていると見たものですが、この『正税帳』の記事に見える「大宰府」から「二十五日」という食料の支給との関連で考えると、『倭人伝』においても「水行二十日」で到着するという「投馬国」が「薩摩」のことと措定して違和感はないとみたものです。
 ただし見ようによってはこの記事は「多褹」までが「水行」であるのはそこが「島」だからとも言い得るかもしれません。しかし「多褹」への帰還に「陸路」つまり「官道」が使用されていないのは「官道」の使用が「公用」に特化していたためであり、一般の人々の使用を強く制限していたためです。「官道」の名称が示すように一般民衆が気軽に使用できる条件はなかったと思われます。このことは「水行」しているからといって「投馬国」が「島」であるという理由には直結しないことを示すものです。
 ところでこれに関係するものとして今回『薩摩国正税帳』に「兵器料」(及び「筆料」)としての「鹿皮」を「大宰府」へ運ぶ人夫に対して、食料が「往復」で19日分支給されていることを確認しました。

「…運府兵器料鹿皮擔夫捌人《十九日》惣単壹伯伍拾貳人 食稲肆拾陸束肆把《八人十日人別四把八人九日人別日三把》…
運府筆料鹿皮擔夫貳人《十九日》惣単三(異体字)拾捌人 食稲壹拾壹束陸把《二人十日人別四把二人九日人別日二把》…」(天平四年『薩摩国正税帳』)

 薩摩国府から大宰府までの行程は、このような庸調の貢納には「官道」を使用することが決められていたものであり、当然「陸路」でした。(ただし以前の記事で指摘したようにそれ以降近畿までの瀬戸内海は「海路」が標準であり、「難波津」が指定港であったものです。)
 当時の律令国家は、運送の利便さではなく、国家威信の発露として「官道」を「貢納路」として使用させていたものであり、その貢納は、直接貢納担当者によって「陸路」を「人夫」が運搬するというのが原則でした。つまり「薩摩」から「大宰府」まで「陸続き」だから「陸行」したのではなく、あくまでも「大義名分」を重要視したが故に「官道」を使用したのであり、それは行程が「官道」周囲から目視できることが重要であったわけであって、「御用」などの幟や旗などにより視覚的にも威儀を示すことが可能な陣立てがあったものと思われ、一種のデモンストレーションが行われたものと思われます。
 また、この輸送に関わる「人夫」への食料として「薩摩国」が全行程分を負担しているわけですが、それはこの「鹿皮」を「兵器料」として朝廷に納める行為そのものが「薩摩国」の責任で行われるべきものだからであり、途中経過する「肥後国」などがそれを一部でも負担すべき理由がなかったからでしょう。
 ちなみにその後の『延喜式』では大宰府からの行程として、薩摩国府からの往路として12日間、帰路にその半分の6日間が規定されていました。往復で18日間というわけですが、「正税帳」では往復で19日間となり、近似しているもののその割り振りも含め若干異なっています。

「…薩摩国/行程上十二日。下六日。/調。塩三斛三斗。自余輸綿。布。/庸。綿。紙。席。/中男作物。紙。…」

 このように行程日数等に変化があったわけですが、それに関してはどのような事情があったものか、現時点ではつかめていません。いずれにせよ、このように「官道」が利用される場合には「十日前後」で「薩摩」と「大宰府」間は結ばれていたわけですが、そのような整備された規格道路がなかった時代には「陸路」が積極的に利用される状況ではなかったものと思われ、『倭人伝』の時代にあっては(「多褹」までの僧の帰還などと同様)「海路」が主要な移動手段であったと推察されます。
 ちなみに『倭人伝』において「伊都国」以降の「水行」に使用した船舶が「倭王権」(つまり「一大率」)が用意したものか、「魏」から使用してきたものかは明確ではありませんが、推測によれば「倭王権」が用意した船と考えています。「魏使」が乗船してきた船は「末盧国」に係留されている可能性が高いと思われます。彼等は「末盧国」で上陸していますから、それ以降については自前の船を使用できず、「倭王権」が用意した船に乗船するしかなかったと思われます。(彼等の船は「一大率」の配下の手により管理されていたものと思われます)
 「魏使」が乗ってきた船は「外洋航海」が可能な「構造船」であったと思われますから、彼等の船であれば「伊都国」以降「投馬国」までは「沿岸航法」というより沖合を一気に遠距離移動できたはずです。そうであれば「二十日」も「投馬国」までかからなかったものと思われますが、当時の「倭」にはそのような船がなかったため、夜間には上陸・接岸し翌朝航路へ復帰するという行程であったと思われます。そのため「二十日間」という日程を要したものと考えるものです。
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「徳政令」と「革命」

2021年02月07日 | 古代史
 すでに検討したように『続日本紀』には「壬寅年」以前の「大税」について「免ずる」という詔が発せられている記事があります。これは明らかに「徳政令」ですが、それが発せられたタイミングは「慶雲」への「改元」時点とされます。
 また「朱鳥」改元前後にも同様の「詔」が発せられています。

(六八六年)朱鳥元年
秋七月己亥朔…
丁巳(十九日)。詔曰。天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者。『乙酉年十二月卅日以前。』不問公私皆兔原。

(六八七年)(持統)元年…
秋七月癸亥朔甲子(二日)。詔曰凡負債者『自乙酉年以前』物莫収利也。若既役身者不得役利。

 ここで「乙酉年」といっているのは「六八五年」つまり「朱鳥改元」以前を指しているのは明確です。なぜここで「乙酉年十二月卅日以前」(六八五年)と指定しているか、については、要は「朱鳥」改元した年次以前についての措置であり、「天武十五年」の「七月」に改元した際に、遡ってその年の初めである「一月一日」から「朱鳥」であったこととし、それ以前を「利息の元本」の阻却対象としたものですが、これは明らかに旧「天武王権」時代について「否定」している性格のものであり、それは「債権者」の否定と思われます。
 以前考察しましたが、「持統王権」はいわば「禅譲」されたもののそれまでの「倭王権」からは「傍流」であったと考察しました。つまり「持統王権」の母体となっていた勢力は「天武王権」の母体とは異なる勢力であり、また異なる領域であったとみられることとなります。
 つまり「王権」に近い立場にはその「徳政令」で被害を被るものが「いない」という可能性が高く、それは「他王権」(前王権)の「治世」を「否定」する行動の一部とも思われることとなります。
 一般に「徳政令」を行うと「債務者」は助かりますが「債権者」は助からないということとなるでしょう。特に「多量」の「債権」を保有するものにとっては「死活問題」です。つまり「王権」が交代するというポイントでは「徳政令」は「他王権」(前王権)にとっては「とどめ」を刺される性格のものではないでしょうか。それは即座に「資金源」を断たれる、ということとなるからです。
「改新の詔」に引き続き出された「東国国司詔」の中では以下のように「徳政令」が発せられています。

(六四六年)大化二年
三月癸亥朔甲子。詔東國々司等曰。…處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。深感二途大赦天下自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。別鹽屋■魚。此云擧能之盧。神社福草。朝倉君。椀子連。三河大伴直。蘆尾直。四人並闕名。此六人奉順天皇。朕深讃美厥心。『宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。』以其屯田班賜群臣及伴造等。…

 ここでも「徳政令」が発せられていますが、その標的は「吉備」の権力者とそれにつながっている人々であると思われ、この「改新の詔」は明らかに「吉備」の権力者との絶縁を意図したものであり、「吉備」の権力者をいわば「潰す」ことを目的としていると思われますが、そのことは「逆」にいえばそれまでの王権は「吉備王権」であったことを示すものと言えます。
 上の「詔」に引き続き「皇太子使使奏請に対する詔」の中では「皇祖大兄」として「彦人大兄」が挙げられており、彼の御名部(名が冠せられている部民)と「其(の)」という形容がされているところから、彼に直結すると思われる「屯倉」が返上させられ、「天皇」に帰属させられたとされています。

(六四六年)大化二年
壬午。皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。『皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。『故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。』

 ここで名が挙げられている「彦人大兄」は「押坂彦人大兄」であり、彼は「皇祖大兄」という至上の敬称を奉られており、絶大な権威を所有していたことが推定されます。またそれを示すように「詔」の中では多数の「御名部入部」を保有していたらしく、それを継承・保有していた人物についてその所有権を放棄させられるということが行われています。
 「徳政令」で放棄させられた「貸稲」についても「吉備嶋皇祖母」が保有していた広大な領地の存在を前提にした表現であると考えられ、それらは「新王権」により取りあげられ「食封」代わりに「群臣及伴造等」に「班賜」することとなった模様です。このことから「吉備嶋皇祖母」の権力の大きさを示すものでもあります。
 この「吉備嶋皇祖母」というのは『書紀』では「皇極(斉明)」の「母」とされている人物です。その「吉備嶋皇祖母」については詳細は『書紀』には書かれていませんが、「皇極」の年齢から考えて、その主な活動時期は「七世紀初め」であったと思われます。その彼女の「財産」として「貸稲」とその背景としての広大な領地があったことが推定される訳です。
 つまりこの「詔」の解釈としては「官司」の「屯田」とは「旧王権直営の田」であり、そこには「田部」が置かれ収穫した「稲穀」は「屯倉」に収納された後、「旧王権」に直送されるというシステムであったと思われますが、それに対し「吉備嶋皇祖母」の「貸稲」の方は「王権」というより「吉備嶋皇祖母」個人の所有に帰するものと思われ、広く貸し付けられて利を稼いでいたものであり、その利益は彼女個人の収入となったと思われ、それを背景として絶大な権力行使が行われていたであろう事が推察されます。もちろんこれは彼女自身が形成したと言うよりは彼女の「父祖」から継承したものと考える方が筋が通っていると思われ、その彼女の父は「茅濡王」とされていますが、彼は「押坂彦人大兄」の子供とされているのです。
 つまり「彦人大兄」についても「吉備」と浅からぬ関係があるわけであり、「吉備王権」は彼に発祥するといってもよいと思われるわけです。(「皇祖」という呼称の所以もそのあたりでしょう)
 実際に『和名抄』に「地名」として「おさかべ」という読みが充てられる「刑部」「忍壁」が残っている例を数えてみると、1/3近くが「吉備」の領域であり、これに隣接する「因幡」と「丹波」を加えると「半数」を占めることとなります。
 「押坂彦人大兄」の「夫人」である「糠手姫」は「嶋皇祖母命」という別名があったとされますが、それは「皇極」の母である「吉備嶋皇祖母命」と同名であり、この二人は同一人物という指摘もあります。それを考慮すると「吉備」に「刑部」地名が遺存していたとして決して不自然ではありません。
 この「押坂彦人大兄」については「私見」では「阿毎多利思北孤」の「前代」の人物と推定しており(『古事記』によれば「押坂彦人大兄」は「隋」への「遣使」以前に死去していると思われるため)、彼の「弟王」である「春日王」あるいは「難波王」が「阿毎多利思北孤」その人であると推定しました。
 それまでの「南朝」偏重を脱して、初めて「北朝」である「隋」へ使者を送り、制度他新しい文化・情報を入手することで統治を一新しようとしたのが「皇祖」と称される「押坂彦人大兄」であり、またそれを継承した弟王と見られます。 
 このような思惟進行は、「吉備嶋皇祖母」がその広大な領地を「押坂彦人大兄」から継承した事を推定させるものであり、そこで「貸稲」を蓄え、それを民衆に貸し付けて巨大な財源としていたと考えられる事となります。それはその後「子供達」である「舒明」と「皇極」に相続されたものですが、その後「新王権」に奪取されるということとなったのではないでしょうか。その意味で「皇極天皇」の諱名が「天豊財重足姫」という(さらに結婚前は「宝皇女」と呼称されていた)、そのいかにも「資産が豊富」と推測されうるものであるのもよく理解できるものです。
 ところで上に見たように「改新の詔」とそれに引き続く「詔」群では「押坂彦人大兄」と「吉備嶋皇祖母」の「財産」としての「御名部入部」と「貸稲」について、「天皇」に献上し、「天皇」はそれを「各群臣及び伴造」へ「班賜」するとされています。しかし、その「詔」を出した「天皇」である「孝徳」は『書紀』では「皇極」の「同母弟」とされますから、「押坂彦人大兄」や「吉備嶋皇祖母」とは「直系」となり、これを「天皇」に帰属させるというのはある意味「当然」のことであり「改新」でも何でもないこととなってしまうでしょう。
 彼が「皇極」と姉弟の関係であるなら「吉備嶋皇祖母」の子供となりますから(しかも男子です)、彼に財産の継承権があるのは当然と考えられるからです。
 このような施策は、ここに書かれた「天皇」というものが「皇極」「舒明」と血縁のない人物であるか、正当な「財産継承権」を有していない人物の時始めて意味を持つ「詔」であると考えられ、そのような人物がそれを自分のものにするための「大義名分」として出されたものと考えるべき事を示します。つまりここに「革命」が起きたとみて不自然ではないわけです。
 この「改新」が一種の「革命」といえるのは、制度を大きく改変していることからも言えますが、この「徳政令」が最も端的に「革命」の本質を表していると言えるでしょう。
 そもそも「徳政令」は貧困にあえぐ「民」が多いことを表すものであり、「革命」がおきる状況がすでに「前提」としてあることが重要なことなのでしょう。そのような中で「王」の交代がある場合は、即座に「王権」の交代であり、それは「革命」といいうるものであって、だからこそ「徳政令」は必須ということとなります。
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