以前『筑後国正税帳』の中に、「種子島」からの僧侶の帰途の食料として「二十五日分」が支給されているという記事があり、これと『倭人伝』中の「投馬国」への日数として「水行二十日」と書かれていることとの関係を指摘しました。
「得度者還帰本嶋多褹僧貳躯《廿五日》単五拾人食稲貳拾束《人別四把》」(『筑後国正税帳』より)
つまり天平四年の『筑後国正税帳』中に「種子島」から来ていた僧侶や人夫の帰還に食料を支給した記事があり、それを見ると「二十五日分」であって、この日数から考えてこれが「大宰府」から「多褹」までの全日程に要するものと見たわけですが、同時にこれが「陸路」ではないであろうと考えたわけです。もし「陸路」であったとすると当然隣国の国府までの食料を支給すればよいはずであり、最終的に「薩摩」からだけが「水行」の対象となるはずですが、実際には「多褹」までの全日程分の支給をしているということから考えてこれは全行程を「水行」したと見たものです。つまり「多褹」から「大宰府」までは「有明海」を「沿岸沿い」に北上して「筑後川」河口に到達した後、「筑後川」を遡上して「大宰府」まで行ったものと考えたものであり、帰路はちょうどこの逆ルートを使用したものと考えました。
『倭人伝』の中で「投馬国」までの行程が「水行二十日」と書かれている点について(この「投馬国」の位置については諸説ありますが)、私見では「伊都国」からの行程が書かれていると見たものですが、この『正税帳』の記事に見える「大宰府」から「二十五日」という食料の支給との関連で考えると、『倭人伝』においても「水行二十日」で到着するという「投馬国」が「薩摩」のことと措定して違和感はないとみたものです。
ただし見ようによってはこの記事は「多褹」までが「水行」であるのはそこが「島」だからとも言い得るかもしれません。しかし「多褹」への帰還に「陸路」つまり「官道」が使用されていないのは「官道」の使用が「公用」に特化していたためであり、一般の人々の使用を強く制限していたためです。「官道」の名称が示すように一般民衆が気軽に使用できる条件はなかったと思われます。このことは「水行」しているからといって「投馬国」が「島」であるという理由には直結しないことを示すものです。
ところでこれに関係するものとして今回『薩摩国正税帳』に「兵器料」(及び「筆料」)としての「鹿皮」を「大宰府」へ運ぶ人夫に対して、食料が「往復」で19日分支給されていることを確認しました。
「…運府兵器料鹿皮擔夫捌人《十九日》惣単壹伯伍拾貳人 食稲肆拾陸束肆把《八人十日人別四把八人九日人別日三把》…
運府筆料鹿皮擔夫貳人《十九日》惣単三(異体字)拾捌人 食稲壹拾壹束陸把《二人十日人別四把二人九日人別日二把》…」(天平四年『薩摩国正税帳』)
薩摩国府から大宰府までの行程は、このような庸調の貢納には「官道」を使用することが決められていたものであり、当然「陸路」でした。(ただし以前の記事で指摘したようにそれ以降近畿までの瀬戸内海は「海路」が標準であり、「難波津」が指定港であったものです。)
当時の律令国家は、運送の利便さではなく、国家威信の発露として「官道」を「貢納路」として使用させていたものであり、その貢納は、直接貢納担当者によって「陸路」を「人夫」が運搬するというのが原則でした。つまり「薩摩」から「大宰府」まで「陸続き」だから「陸行」したのではなく、あくまでも「大義名分」を重要視したが故に「官道」を使用したのであり、それは行程が「官道」周囲から目視できることが重要であったわけであって、「御用」などの幟や旗などにより視覚的にも威儀を示すことが可能な陣立てがあったものと思われ、一種のデモンストレーションが行われたものと思われます。
また、この輸送に関わる「人夫」への食料として「薩摩国」が全行程分を負担しているわけですが、それはこの「鹿皮」を「兵器料」として朝廷に納める行為そのものが「薩摩国」の責任で行われるべきものだからであり、途中経過する「肥後国」などがそれを一部でも負担すべき理由がなかったからでしょう。
ちなみにその後の『延喜式』では大宰府からの行程として、薩摩国府からの往路として12日間、帰路にその半分の6日間が規定されていました。往復で18日間というわけですが、「正税帳」では往復で19日間となり、近似しているもののその割り振りも含め若干異なっています。
「…薩摩国/行程上十二日。下六日。/調。塩三斛三斗。自余輸綿。布。/庸。綿。紙。席。/中男作物。紙。…」
このように行程日数等に変化があったわけですが、それに関してはどのような事情があったものか、現時点ではつかめていません。いずれにせよ、このように「官道」が利用される場合には「十日前後」で「薩摩」と「大宰府」間は結ばれていたわけですが、そのような整備された規格道路がなかった時代には「陸路」が積極的に利用される状況ではなかったものと思われ、『倭人伝』の時代にあっては(「多褹」までの僧の帰還などと同様)「海路」が主要な移動手段であったと推察されます。
ちなみに『倭人伝』において「伊都国」以降の「水行」に使用した船舶が「倭王権」(つまり「一大率」)が用意したものか、「魏」から使用してきたものかは明確ではありませんが、推測によれば「倭王権」が用意した船と考えています。「魏使」が乗船してきた船は「末盧国」に係留されている可能性が高いと思われます。彼等は「末盧国」で上陸していますから、それ以降については自前の船を使用できず、「倭王権」が用意した船に乗船するしかなかったと思われます。(彼等の船は「一大率」の配下の手により管理されていたものと思われます)
「魏使」が乗ってきた船は「外洋航海」が可能な「構造船」であったと思われますから、彼等の船であれば「伊都国」以降「投馬国」までは「沿岸航法」というより沖合を一気に遠距離移動できたはずです。そうであれば「二十日」も「投馬国」までかからなかったものと思われますが、当時の「倭」にはそのような船がなかったため、夜間には上陸・接岸し翌朝航路へ復帰するという行程であったと思われます。そのため「二十日間」という日程を要したものと考えるものです。
「得度者還帰本嶋多褹僧貳躯《廿五日》単五拾人食稲貳拾束《人別四把》」(『筑後国正税帳』より)
つまり天平四年の『筑後国正税帳』中に「種子島」から来ていた僧侶や人夫の帰還に食料を支給した記事があり、それを見ると「二十五日分」であって、この日数から考えてこれが「大宰府」から「多褹」までの全日程に要するものと見たわけですが、同時にこれが「陸路」ではないであろうと考えたわけです。もし「陸路」であったとすると当然隣国の国府までの食料を支給すればよいはずであり、最終的に「薩摩」からだけが「水行」の対象となるはずですが、実際には「多褹」までの全日程分の支給をしているということから考えてこれは全行程を「水行」したと見たものです。つまり「多褹」から「大宰府」までは「有明海」を「沿岸沿い」に北上して「筑後川」河口に到達した後、「筑後川」を遡上して「大宰府」まで行ったものと考えたものであり、帰路はちょうどこの逆ルートを使用したものと考えました。
『倭人伝』の中で「投馬国」までの行程が「水行二十日」と書かれている点について(この「投馬国」の位置については諸説ありますが)、私見では「伊都国」からの行程が書かれていると見たものですが、この『正税帳』の記事に見える「大宰府」から「二十五日」という食料の支給との関連で考えると、『倭人伝』においても「水行二十日」で到着するという「投馬国」が「薩摩」のことと措定して違和感はないとみたものです。
ただし見ようによってはこの記事は「多褹」までが「水行」であるのはそこが「島」だからとも言い得るかもしれません。しかし「多褹」への帰還に「陸路」つまり「官道」が使用されていないのは「官道」の使用が「公用」に特化していたためであり、一般の人々の使用を強く制限していたためです。「官道」の名称が示すように一般民衆が気軽に使用できる条件はなかったと思われます。このことは「水行」しているからといって「投馬国」が「島」であるという理由には直結しないことを示すものです。
ところでこれに関係するものとして今回『薩摩国正税帳』に「兵器料」(及び「筆料」)としての「鹿皮」を「大宰府」へ運ぶ人夫に対して、食料が「往復」で19日分支給されていることを確認しました。
「…運府兵器料鹿皮擔夫捌人《十九日》惣単壹伯伍拾貳人 食稲肆拾陸束肆把《八人十日人別四把八人九日人別日三把》…
運府筆料鹿皮擔夫貳人《十九日》惣単三(異体字)拾捌人 食稲壹拾壹束陸把《二人十日人別四把二人九日人別日二把》…」(天平四年『薩摩国正税帳』)
薩摩国府から大宰府までの行程は、このような庸調の貢納には「官道」を使用することが決められていたものであり、当然「陸路」でした。(ただし以前の記事で指摘したようにそれ以降近畿までの瀬戸内海は「海路」が標準であり、「難波津」が指定港であったものです。)
当時の律令国家は、運送の利便さではなく、国家威信の発露として「官道」を「貢納路」として使用させていたものであり、その貢納は、直接貢納担当者によって「陸路」を「人夫」が運搬するというのが原則でした。つまり「薩摩」から「大宰府」まで「陸続き」だから「陸行」したのではなく、あくまでも「大義名分」を重要視したが故に「官道」を使用したのであり、それは行程が「官道」周囲から目視できることが重要であったわけであって、「御用」などの幟や旗などにより視覚的にも威儀を示すことが可能な陣立てがあったものと思われ、一種のデモンストレーションが行われたものと思われます。
また、この輸送に関わる「人夫」への食料として「薩摩国」が全行程分を負担しているわけですが、それはこの「鹿皮」を「兵器料」として朝廷に納める行為そのものが「薩摩国」の責任で行われるべきものだからであり、途中経過する「肥後国」などがそれを一部でも負担すべき理由がなかったからでしょう。
ちなみにその後の『延喜式』では大宰府からの行程として、薩摩国府からの往路として12日間、帰路にその半分の6日間が規定されていました。往復で18日間というわけですが、「正税帳」では往復で19日間となり、近似しているもののその割り振りも含め若干異なっています。
「…薩摩国/行程上十二日。下六日。/調。塩三斛三斗。自余輸綿。布。/庸。綿。紙。席。/中男作物。紙。…」
このように行程日数等に変化があったわけですが、それに関してはどのような事情があったものか、現時点ではつかめていません。いずれにせよ、このように「官道」が利用される場合には「十日前後」で「薩摩」と「大宰府」間は結ばれていたわけですが、そのような整備された規格道路がなかった時代には「陸路」が積極的に利用される状況ではなかったものと思われ、『倭人伝』の時代にあっては(「多褹」までの僧の帰還などと同様)「海路」が主要な移動手段であったと推察されます。
ちなみに『倭人伝』において「伊都国」以降の「水行」に使用した船舶が「倭王権」(つまり「一大率」)が用意したものか、「魏」から使用してきたものかは明確ではありませんが、推測によれば「倭王権」が用意した船と考えています。「魏使」が乗船してきた船は「末盧国」に係留されている可能性が高いと思われます。彼等は「末盧国」で上陸していますから、それ以降については自前の船を使用できず、「倭王権」が用意した船に乗船するしかなかったと思われます。(彼等の船は「一大率」の配下の手により管理されていたものと思われます)
「魏使」が乗ってきた船は「外洋航海」が可能な「構造船」であったと思われますから、彼等の船であれば「伊都国」以降「投馬国」までは「沿岸航法」というより沖合を一気に遠距離移動できたはずです。そうであれば「二十日」も「投馬国」までかからなかったものと思われますが、当時の「倭」にはそのような船がなかったため、夜間には上陸・接岸し翌朝航路へ復帰するという行程であったと思われます。そのため「二十日間」という日程を要したものと考えるものです。