古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「和銅」改元時の国司任命記事について

2021年02月22日 | 古代史
「元明紀」には「和銅改元」時に諸国に対する「国司」(国守)任命記事があります。(以下のもの)
そこでは「筑紫」全体としての「大宰府」を除けば計28国について「国守」が任命されています。

(七〇八年)和銅元年…三月…丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。從四位上竹田王爲刑部卿。從四位上廣瀬王爲大藏卿。正四位下犬上王爲宮内卿。正五位上大伴宿祢手拍爲造宮卿。正五位下大石王爲彈正尹。從四位下布勢朝臣耳麻呂爲左京大夫。正五位上猪名眞人石前爲右京大夫。從五位上大伴宿祢男人爲衛門督。正五位上百濟王遠寳爲左衛士督。從五位上巨勢朝臣久須比爲右衛士督。從五位上佐伯宿祢垂麻呂爲左兵衛率。從五位下高向朝臣色夫知爲右兵衛率。從三位高向朝臣麻呂爲『攝津』大夫。從五位下佐伯宿祢男爲『大倭』守。正五位下石川朝臣石足爲『河内』守。從五位下坂合部宿祢三田麻呂爲『山背』守。正五位下大宅朝臣金弓爲『伊勢』守。從四位下佐伯宿祢太麻呂爲『尾張』守。從五位下美弩連淨麻呂爲『遠江』守。從五位上上毛野朝臣安麻呂爲『上総』守。從五位下賀茂朝臣吉備麻呂爲『下総』守。從五位下阿倍狛朝臣秋麻呂爲『常陸』守。正五位下多治比眞人水守爲『近江』守。從五位上笠朝臣麻呂爲『美濃』守。從五位下小治田朝臣宅持爲『信濃』守。從五位上田口朝臣益人爲『上野』守。正五位下當麻眞人櫻井爲『武藏』守。從五位下多治比眞人廣成爲『下野』守。從四位下上毛野朝臣小足爲『陸奥』守。從五位下高志連村君爲『越前』守。從五位下阿倍朝臣眞君爲『越後』守。從五位上大神朝臣狛麻呂爲『丹波』守。正五位下忌部宿祢子首爲『出雲』守。正五位上巨勢朝臣邑治爲『播磨』守。從四位下百濟王南典爲『備前』守。從五位上多治比眞人吉備爲『備中』守。正五位上佐伯宿祢麻呂爲『備後』守。從五位上引田朝臣尓閇爲『長門』守。從五位上大伴宿祢道足爲『讃岐』守。從五位上久米朝臣尾張麻呂爲『伊豫』守。從三位粟田朝臣眞人爲『大宰』帥。從四位上巨勢朝臣多益首爲大貳。

さらにそれほど日を置かないで次の二つの国にも国司が任命されます。

(七〇九年)二年…十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲山背守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲『伯耆』守

(七一〇年)三年…夏四月…癸夘。以從三位長屋王爲式部卿。從四位下多治比眞人大縣守爲宮内卿。從四位下多治比眞人水守爲右京大夫。從五位上采女朝臣比良夫爲近江守。從五位上佐太忌寸老爲丹波守。從五位下山田史御方爲『周防』守。

これらに含まれない国々は「東海道」では「伊賀」「參河」「駿河」「伊豆」「甲斐」「相模」、「東山道」は「飛騨」、「北陸道」は「佐渡」、「山陰道」は「但馬」「因幡」「石見」「隠岐」、「山陽道」は「安芸」「南海道」は「紀伊」「淡路」「阿波」「土佐」と総計17カ国になります。
これらの国々への国司任命記事はかなり後になります。なぜ「和銅」改元時点で他の30国のように(ほぼ)同時に任命されなかったのでしょうか。

 これについては任命されなかった国々を見るとある程度推測が可能です。例えば「南海道」は「伊豫」と「讃岐」を除く「平城京」から伸びる「紀伊」を始めとする「南海道」の主線行程上の国が入っていません。南海道の「伊豫」「讃岐」は「筑紫」から(「豊後」経由か)瀬戸内海を通過して行きやすい国であり、「土佐」等の諸国は「筑紫」からのルートとしていわば「遠絶」と考えられていたもののように思われます。
 確かに「伊豫」から「土佐」へのルートはあったものですが、陸路として山脈越えであり、その後「七一八年」になって「阿波」からのルートへ「付け替え」が行われたものです。これらついては西村氏も『古田史学会報』一三六号で言及されていますが、明らかに王権の中心地点の移動に伴うものですが、この付け替え年次である「七一八年」の二年前が前回検討した(豊後に置かれた)「戍」における交通制限の緩和措置です。
 「豊後」と「伊豫」を接続することを制限する必要がなくなったことと、「伊豫」を介して四国内を統治する形態が過去のものとなったこととは深く結びついていると思われるものです。

 また「東海道」は「遠江」以東の箱根を越えるルート上の国が入っておらず、これについては「東海道」そのものが以前は「遠江」以降は「海路」であったと考えられており、房総半島に上陸するルートが長く使用されてきていたことと関係していると思われます。
 「古代官道」の箱根越えルートは後からできたものであり、その経路上の諸国はそれほど倭王権と関係が深くはなかったと思われるわけです。
 また「山陰道」においても「筑紫」から見て遠方の「因幡」「但馬」などが入っていません。これも似たような事情と思われ、海路「日本海」ルートを行くとき「出雲」から「越」へという主線行程からこれらの国は「スキップ」してしまう結果「外れている」ということとなるのではないかと思われます。
 それに対し「関東」の国々はほぼ網羅されていますが、それは『常陸国風土記』が示すように「総領」が任命・配置された段階で「クニ」から編成替えが行われ、「令制国」と同等の広域行政体が作られたとしていますから、これらに「国司」(国宰)がいなかったはずはないこととなるでしょう。

 結局これら国司任命がなかった諸国は以前の「倭国」時点においてかなり後半まで「諸国」(附庸国)に入っていなかった国であると推測できるでしょう。これらの理由等により「倭王権」と関係の浅かった場所には「国宰」や「国守」が元々任命されておらず、新日本王権に王権が委譲された後に改めて「国司」を任命する際に旧王権から任命されていた国司を新王権側から選定した人物へすげ替える措置を行ったものとみられ、それが「和銅」改元時点で任命された者たちと思われるものです。(ただし新王権に忠誠を誓った場合などはそのまま横滑りした者がいなかったとは思いませんが)
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