古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「厩戸勝鬘」とは誰か

2021年02月27日 | 古代史

 以下はホームページに2013年に記載していたものですが、最近「厩戸勝鬘」という人物について「聖徳太子」と同一視する議論を目にしたものですから、あらためて「聖徳太子」とは思われないということを述べるものです。

 「善光寺文書」(『善光寺縁起集註』)には「聖徳太子」と思われる人物からの手紙が記され、そこには「斑鳩厩戸勝鬘」という「自署名」が記されています。

         御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上

 また、室町時代中期の考証的随筆書である『壒嚢(あいのう)』などにも、「聖徳太子」が「善光寺」へ「消息」(手紙)を出した際に「厩戸勝鬘」と名乗ったように書かれています。

壒嚢鈔』(『古事類苑』より引用)
「如來未ダ伊那郡善光ガ家ニ御座時ニ、推古天皇御宇、…法興元(○○○)世一年〈辛巳〉十二月十五日、『厩戸勝鬘』上ト遊シケル、世間ニ流布シテ、?中廿句ノ文ト云是也、…法興元丗二歳〈壬午〉八月十三日、『厩戸勝鬘』上ト遊バシテ、御表書ニハ、進上本師如來御寶前ト侍リテ、班鳩厩戸上ト云々、…」

 この善光寺への手紙については、その年次を示す「命長七年丙子」に矛盾があり、これを「古賀氏」も言うように「九州年号」の「命長」年間のことと考えると、「聖徳太子」とは時代が合いません。彼は『書紀』によれば「六二一年」に死去したとされ、また「阿毎多利思北孤」であったとしても(彼と「上宮法皇」が同一人物とすると)「六二二年」に亡くなられたと言う事が「法隆寺」の「釈迦三尊像」の「光背」に書かれているのは既に各位周知と思われます。
 また既に指摘しているように「仏教」に関連する日付には「年号」を使用するという「きまり」があったものとみられますから、ここにも「年号」が「当初から」使用されていたと思われ、そうであれば疑うべきは「干支」の方であると思われるわけです。
 しかも、さらに問題と考えられるのは、ここで「自称」として使用されている「勝鬘」という「文字」(名前)です。
 「聖徳太子」には数々の名前が各資料に書かれていますが、現在有力な説は「在世中」は「厩戸皇子」と呼ばれたであろうというものです。
 それに対しここでは「(斑鳩)厩戸勝鬘」となっています。この「勝鬘」が「勝鬘経」に淵源するものであるのは明らかであると思われますが、しかし、その「勝鬘経」の由来となっている「勝鬘」とは、在家の「女性」信者の名前であり、舎衛国波斯匿(はしのく)王の娘である「勝鬘夫人」を指すものですから、「勝鬘」とは「女性」の名前の一部であることとなります。それを上の「善光寺」文書の中では一見「聖徳太子」とされる人物が「自署名」の一部として使用しているわけです。
 上に述べたように、この手紙の送り主は「聖徳太子」ではないのはその「年次」から明らかですが、この人物が誰であれ「男性」であった場合、「女性」の名前を「男性」が名乗った形になるのは避けられないと思われます。これは明らかに不自然ですから、「厩戸勝鬘」なる人物が実際には「女性」ではなかったかという可能性について考えてみる必要があることとなります。

 そもそも、この「勝鬘」の「鬘」という言葉は「花飾り」を意味する語から付けられた「漢語」であり、「勝」は「優れた」「美しい」という意味です。このことから、「勝鬘」とは「起源」となった「インド」では「女性」が身につける、あるいは「髪に挿す」などのための「花飾り」を意味するものであって、「美しい女性」を形容するのに使用されたもののようです。(「花子」さんの類かと思われます。)
 たとえば「新羅」の「真徳女王」(在位六四七年-六五四年)の「諱」も「勝曼」であるとされますし、さらにその前代の「善徳女王」の「諱」は「徳曼」であるとされていますが、これらには「曼」の文字が共通しており、この「曼」は「長い」という意ですが、本来「蔓」(つる)から来たものであり、「鬘」と同じく頭髪に飾るものを指すものとして使用されていたと思われ、「勝鬘」と同類の表現と考えられます。このような名前は彼女達のように「国王」やその「娘」という高い地位にある女性達を形容するものとしても、また自称するものとしてもふさわしいと考えられ、その意味でも「高貴な女性専用」であったと推定されます。
 後代においても、室町幕府の四代将軍「足利義持」の母は「勝鬘院」と名乗っていたという記録があるなど(下記『伊勢貞助雜記』)、基本は「女性」の使用に関わるものとして認識されていたと思われます。

「…一攝家御參賀の時、諸大夫〈并〉御侍など、殿中御縁へはあがり不申之由候、如何、攝家の御供の時、諸大夫御縁へ祗候の事は無之候、自分に御禮被レ申時祗候勿論也、御侍衆の事不及申候、御門跡方坊官衆も同前、坊官衆の事、時代にもより可レ申歟、勝定院(義持公ノ事也、自尊氏公四代目、)之御母儀様は『勝鬘院殿』と申て、其俗姓は三寶院殿坊官大谷安藝法眼息女にて御座候はるヽ…」『伊勢貞助雜記』(『古事類苑』より引用)

 ところで、この「勝鬘」という名前の元となった「勝鬘経」については「推古天皇」の要請に応じて「聖徳太子」が講説したという記録が『書紀』にあります。

「(推古)十四年(六〇六年)…
秋七月。天皇請皇太子令講勝鬘經。三日。説竟之。」

 「推古」も「勝鬘夫人」も立場は「近似」していますから、共感するものがあったとすると、「勝鬘」という「文言」を「推古」が「自署名」として使用したという方がまだしも理解できるものですが(ただし、これが「推古」本人でないことは「善光寺文書」の中に「命長年間」のこととしてその存在が確認されるわけですから、「推古」とはこの点からも合致しないと考えられます)それに対してこれが「聖徳太子」であったとしても、このような「女性名」を「自署名」として使用する動機というのはかなり分かりにくいものです。

 また、この人物は上に見た『壒嚢鈔』では「法興元丗二歳〈壬午〉八月十三日、『厩戸勝鬘』上ト遊バシテ、…」とありますが、「法隆寺」の「釈迦三尊光背銘」では「上宮法皇」は「法興元卅一年歳次辛巳」の「明年」、つまり「法興元卅二年」の「二月」に死去しているとされています。
 「釈迦三尊像」の「光背」銘文は以下の通りです。

(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)(「/」は改行を表します。)

「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐…」

 このことからもに出てくる「厩戸勝鬘」と「上宮法皇」は同一人物ではないと考えられることとなります。

 この「上宮法皇」については「法隆寺釈迦三尊像」の「光背」に出てくることで有名ですが、時代的な部分から考えて、いわゆる「聖徳太子」という人物とかなりの部分で重なるとともに『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」である「阿毎多利思北孤」とも重なると考えられます。つまり、一般に「聖徳太子」と称されている人物のかなりの「治績」は「上宮法皇」つまり「阿毎多利思北孤」のものではないかという推測が可能ですから、「厩戸勝鬘」と称する人物は「阿毎多利思北孤」本人ではないこととなり、また「法隆寺釈迦三尊」の光背銘文によれば「王后」も「上宮法皇」と同時に亡くなられていますから、結局「それ以外」の人物の中に該当者を捜すほかないこととなります。つまり、「皇子」(皇女)を含む「王権関係者」の「誰か」ではないかと考えざるを得ません。

 また「記紀神話」における「天宇受売尊」という人物の名称における「宇受」とは「頭」のことであり、そこには「髪飾り」をしていたという意味が隠されていると思われます。また「天鈿女」とする表記もありますが、この「鈿」は「かんざし」のことであり、まさに髪飾りを意味するものです。
 神話世界では「天宇受売尊」(「天鈿女尊」)は「オリオン(座)」の表象とされているようですが、この「オリオン」は古代中国の「西王母」の投影とする見方もあり、そうであれば「西王母」は「華勝」つまりきれいな花飾りを頭に付けていたとする史料もあるところから、まさに「天宇受売尊」そのものといえます。この「天宇受売尊」が女性であるのは神話を見ると一目瞭然ですから、その意味からも「厩戸勝鬘」は女性であったと言えそうです。

 ところで「平成七年」に巨大な「半地下式心礎」が発見された「香芝市尼寺(地名)」では、発見された「尼寺廃寺」(北遺跡)の二〇〇メートルほど南側にも別の「廃寺」が確認されており、そこに残る薬師堂の「毘沙門天像」の背には以下のような「墨書」があるとされます。

「華厳山般若院/片岡尼寺開山/皇太子勝鬘菩薩ナリ/(梵字)毘沙門天/皇太子作」

 この「墨書」や「毘沙門天像」がどれほど遡るものかは不明ですが、通説でも相当古いと見られます。また、この「墨書」からはこの「廃寺」が「尼寺」であること、それを開山したのが「皇太子勝鬘菩薩」であることが読み取れると同時に、「毘沙門天」は「皇太子」の作であるとされているのがわかります。
 ここでは「皇太子勝鬘菩薩」が「尼寺」を開山しているとされていることが注目されます。それは、このことから、この人物が「女性」である可能性が高いと思料されるものだからです。
 多くの「尼寺」の例から考えても、その開基ないし開山は「尼僧」であるのが通常です。希に男性である場合もありますが、それは当初「僧寺」であったものを変えるとか、「僧寺」に「尼寺」を増設するなどの場合に限られるように思われます。(後の「橘嘉知子」による「檀林寺」つまりなど場合)つまりそこが尼寺であるとすると、開山したとされる人物である「皇太子勝鬘菩薩」という人物も女性であることが強く示唆されることとなるわけです。
 またここでは「菩薩」という形容がされていますが、これが「観世音菩薩」を意味するものであるとすると『妙法蓮華経』には「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」という文章があります。
 以下『妙法蓮華經』(鳩摩羅什譯)より抜粋

「…觀世音菩薩。即現佛身而爲説法。應以辟支佛身得度者。即現辟支佛身而爲説法。…應以比丘比丘尼優婆塞優婆夷身得度者。即現比丘比丘尼優婆塞優婆夷身而爲説法。應以長者居士宰官婆羅門婦女身得度者。即現婦女身而爲説法。…」

 つまり、「観世音菩薩」は相手に応じてその姿を変えて説法するとされているわけで、「婦女」に対しては同じく「婦女」となって(変身して)説法するとされています。そう考えると、この時の「皇太子勝鬘」は「開山」した程ですから講説もしたであろう事を想定すると、この「皇太子勝鬘」もまた「尼僧」として「説法」した事を意味するのではないかと思われ、それが「菩薩」と形容されることにつながっていると見ることもできるでしょう。
 この「廃寺(北遺跡)」の創建年次については「近畿一元論者」間でも議論があり、「七世紀前半」とする意見と「後半」とする意見が分かれていますが、この混乱は「半地下式心礎」や「瓦」についての見解の差であると見られ、これらがこの当時の「飛鳥」の標準的な技術水準とは異なるという点が問題となっていると考えられます。
 この「北遺跡」の「半地下式心礎」は、ほぼ同型が「若草伽藍」に使用されていたことが判明しており、その「若草伽藍」が「法隆寺」のある敷地に以前建っていた建物であり、それが「焼亡」したのが「六二〇年」付近と考えられることを考慮すると、この建物と同じ形式の心礎を持つこの「廃寺」についても「七世紀前半」の創建が推定されるものです。それは「心礎」上面から発見された「金環」(耳輪か)にも言えるようです。
 このような「荘厳具」が「心礎」に残されていたのは、「飛鳥寺」「中宮寺」「定林寺」「四天王寺」など、いずれも「七世紀前半」以前にその創建が伝えられる寺院ばかりであり、「心礎」への埋納という宗教的行為について共通性があるということからも、時期を同じくする証明ではないかと考えられるものです。(まだ「古墳」への埋納の記憶が残っている時期か)
 また「基準尺」として「唐尺」(小尺)の採用が推定されていますが、私見によれば「隋」から諸文化を取り入れた際に「度量衡」についても導入されたと考えるべきと思われ、この事は逆にこの建物が「七世紀前半」の創建であることを推定させるものと言えるでしょう。
 さらに「坂田寺」と同笵の瓦が出土していることを捉えて、「六五〇年代」あるいはそれ以降とする論もありますが、「坂田寺」の創建が『書紀』に記すとおり「五八八年」とすると、この出土瓦がそれに使用されている瓦のバリエーションのひとつであることを考えた場合、それが五十年も六十年も創建から下るとは考えられません。仮にそうならば「坂田寺」の「建設過程」に大幅な停滞があったこととなりますが、『書紀』を見る限りそのようなことは感じられません。逆に『推古紀』には、以下に見るような「鞍作氏」に対して「褒賞」として「大仁」の位と水田が与えられたという以下の記事があり、その時点で「坂田尼寺」(金剛寺)が創建されたとされていますが、この時点で「坂田寺」についても何らかの「補修」を行なったという可能性さえ考えられるものであり、そうであればかえって時代として整合するともいえるでしょう。

「推古十四年(六〇六年)五月甲寅朔戊午条」
「勅鞍作鳥曰。朕欲興隆内典。方將建佛刹。肇求舎利。時汝祖父司馬達等便獻舎利。又於國無僧尼。於是。汝父多須那爲橘豐日天皇出家。恭敬佛法。又汝姨嶋女。初出家爲諸尼導者。以修行釋教。今朕爲造丈六佛以求好佛像。汝之所獻佛本。則合朕心。又造佛像既訖。不得入堂。諸工人不能計。以將破堂戸。然汝不破戸而得入。此皆汝之功也。則賜大仁位。因以給近江國坂田郡水田廿町焉。鳥以此田爲天皇作金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺。」
 
 さらに「法隆寺」と同様の「パルメット紋(蔓草模様)」の「軒平瓦」も確認されており、またこの瓦についてはその「胎土」についてもその成分が「法隆寺」と同じとされていますが、「法隆寺」の創建の年次については、「法隆寺」に伝わる伝承からも「年輪年代法」による主要部材の年代測定からも、「七世紀初め」という時期が推定され、これと同じ形式の瓦を使用している「尼寺廃寺」も「七世紀初め」という創建年代が有力視されると思われます。 
 「法華経」「勝鬘経」「維摩経」は「大乗三部経」と言われ、「女人」を含む「市井の民」が「成仏」できることを説いているのが特徴です。
 また、「法華経」や「勝鬘経」は「女性在家」を重視するものであることが重要と思われ、「法華経」では「提婆達多品」の中での「娑竭羅龍王の娘」や「薬王菩薩本事品」における「女人往生」の話、「勝鬘経」では「勝鬘夫人」というように「女性」がその「主役」となっている部分もあり、このような「信仰」は実際の「王権」周辺の女性達には受け入れやすいものであったと思われます。
 つまり、ここで「勝鬘経」に淵源した名前を持つ人物は「王権」の内部に存在していた女性であると推察され、「確定」は困難であるものの、「利歌彌多仏利」の「正夫人」であり、後に「皇后」となった人物ではないかと推測されます。(あるいは「皇太子」という表記から考えて「利歌彌多仏利」本人という可能性もありそうです)
 この結論は「厩戸勝鬘」が女性であると推論したわけですが、上で述べたように「時代」も含めて「聖徳太子」とは異なる人物であり、「聖徳太子」が「女性」であったと述べている訳ではありません。
 ただ、一般には「聖徳太子」と同一視されていることは確かであり、それは後の「聖武天皇」が「菩薩戒」を受け「沙弥勝満」と名乗った(というより師僧である「行基」から「戒」を授けられた際に名付けられた)ことにも現れており(『扶桑略記』による)、そのように「勝鬘」に「なぞらえた」「法号」を名乗ったと言う事にも、そのような「混乱」が反映していると考えられます。  
 これはそのような「誤解」に基づいた後代の知識によったものとも思料されるわけですが、ただここで「勝満」というように「鬘」の字から変えているところを見ると、「勝鬘」が「女性名」であるという心理的支障があったという可能性も考えられます。つまり「厩戸勝鬘」という人物が女性であることを「聖武」も「行基」も知っていたという可能性があることとなるでしょう。

(ホームページ記載記事に加筆)

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