霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

旧山陽道(小月⇒赤間関)

2012年01月14日 | 旧山陽道

2012年1月14日(土)

小寒を過ぎて相変わらず暦通りの寒い日が続くが、今日は比較的暖かくて雨の心配もなさそうなので、旧山陽道の残りを歩くことにした。JRで小月駅まで行き、駅前の旧国道2号(現:国道491号)を横断して一つ山側(北側)の旧街道を清末方面に歩き始める。
前回歩いた時は、清末地区に入ってからこの街道を途中で右に折れて、東部中学校前の「旧清末藩邸跡」にも立ち寄ったのだが、今回はそのまま素通りした。「御館道」と呼ばれるここの坂道はなかなか風情のある通りで、眼下に清末の街並みを見渡すことができて、殿様になった気分を少しだけ味わえる好きな坂道だ。

左手に清末八幡宮を見て更に行くと千房地区に入り、長閑な田園地帯の中に一際目立つ赤レンガの塀と蔵が見えてくる。そして、すぐその隣にあるのが山口県文化財の「橋本家長屋門」で、説明書きによれば元は清末藩邸の裏門だったそうで、明治時代以降のシックな赤レンガ造りと、江戸時代の豪快な構えの門が隣り合って、何やら不思議な調和を見せているのもこれまた面白い。

田園地帯の南側を流れる神田川に架かる神田橋を渡るのだが、橋自体は最近架け替えられたらしいものの、渡り終えて振り向いてみると(写真下)、江戸時代に架けられたと思しき石橋の欄干の一部が残されているのが見える。本来なら、架け替えの際に全部撤去されたであろう欄干が、このような不自然な形ではあっても何とか残しておきたいという粋な計らいが垣間見える、何だかこそばゆい風景ではある。


神田橋を渡ると清末藩領から長府藩領の王司地区に入り、すぐ先で国道491号を横断して国道の左側(東側)を歩くようになる。右手には国道左手には山陽本線と言う景色が暫く続き、王司病院の横を過ぎた先の宇部地区と呼ばれる辺りには、一里塚跡の標柱が路傍に建っている。

街道は山陽本線の踏切を渡り、更に国道の下を潜って、今度は右手に山陽本線左手に国道2号(国道491号はここの才川交差点で国道2号と合流している)と言う景色の中を歩く。
右手にJR長府駅が見えてくるが、この間の街道はほぼ直線で見通しはいいものの、何せ車の交通量が多くて、センターラインの無い狭い街道幅なのに頻繁に車が往来するのには参った。道の右側四分の一位の幅は歩道としての路面塗装がしてあるのも構わず、車が歩道側にはみ出してくるのだから危ないことこのうえない。
わざわざ路面塗装してあるところを見ると、多分子どもたちの通学路にもなっているのだろうと思うが、一方通行にするなどの何かの対策をしないと、その内誰かが犠牲になるだろうなぁ。まぁ、何人かが死なないと重い腰を上げないのは、行政や警察のいつものことではあるが…。そう言えば、山口市大歳小学校近くの旧街道も、これと同じような感じの危険な道路だったのを思い出した。

この辺りから、ところどころに土塀の佇まいを見ることができるようになり、長府の城下町が近いことを感じさせる。前回歩いた時に、探したけれど見つけられなかったのが「狩野芳崖邸跡」で、今回もだめかなぁと思いつつも通りかかった中学生らしき女の子に聞いたところ、『あ、すぐそこですぅ』と思いがけない返事。古めかしい土塀の脇に、立派な石柱と案内板がひっそりと建っていた(写真下)。旧街道からは、一本西側の裏通りだった。

そう、幕末から明治期に活躍し「近代日本画の父」と呼ばれた狩野芳崖は、ここで生まれたのだナ。あの幕末の動乱期に、御用絵師として江戸と長府を何度も往復していたと言うのだから、絵描きと言えども命がけの生き様ではある。
とは言え、明治j維新後は御多分に漏れず家禄を全て失い生活にもほとほと困窮した中で、フェノロサとの出会いと勧めによってあの名作「悲母観音」を完成させ、そして僅かその4日後には60年足らずの生涯を閉じたのだ。ナマンダブ…

街道はこの先(印内西交差点)で国道2号を横断し、すぐ先の印内川に架かる短い鞏昌(きょうしょう)橋を渡ると、長府府中と呼ばれる長府城下町の中心部へいよいよ入っていく。
ここから先の約200m位は「金屋町」と呼ばれる商店街で道幅も広くなり、両脇の商店も江戸時代風の店構えに統一して何とか観光客を誘い込もうという意気込みが感じられる。更にその先には「乃木さん通り」が続き、右手には乃木神社と忌宮神社があるが、共に前回ゆっくりと見て回ったので今回はパスした。
律令時代に長門の国府が置かれたのは、この忌宮神社の周辺だそうで、当然ながら、周防の国府が置かれた防府と同様に、この辺りには国分寺や鋳銭所も置かれていたらしいが、防府と違って今はそれを偲ぶものは国分寺跡などほんの僅かしか残っていない。

忌宮神社の先、壇具川の手前で街道は右折し、県道246号の標識を見ながら西進する。「古江小路」を含むこの辺りが最も長府城下町らしい雰囲気で、観光客も多く訪れているし、また壇具川沿いの脇道には、小洒落たカフェや雑貨屋なども沢山あって、そこかしこに賑わっている。
長府毛利邸を右手に見て道は左にカーブするが、すぐ右手に見えて来るのが、かの「功山寺」だ。前回もゆっくりと見て回ったのだが、ここはやはり郷土の英雄である高杉晋作に敬意を表して、再度立ち寄ってみることにした。もうかなりあちこちが傷んでいそうな、それでも威厳のある山門(写真下)を潜ると、一際身が引き締まるような思いがするのは気のせいだろうかナ。

…にしても、僅か80人の兵を率いてここで奇兵隊を決起することから始め、そして長州藩の藩論を「倒幕」に統一するやいなや、実際に倒幕に突き進んで成功への道筋を立てたその源は、一体何なのだったのでせうかネ?
日本國そして明日を担う子どもたちの行く末を、心から憂いそして念じていたに違いないと思うのだが、今の政治家や東電などの企業役員にも、もう少しでいいから見習って欲しいものだなぁ~。山口県出身と言われた先の首相が「奇兵隊内閣」とか何とか戯れ言を言っていたが、己の為でなく国のため他人の為に身命を捧げて奔走した高杉晋作を始めとする奇兵隊隊士に対して、余りに失礼千万なことだとオイラは思う。
ついでに、功山寺の脇にある長府博物館も訪れてみた。長府藩士であった桂弥一が私財を投じて建立した「長門尊攘堂」が前身だそうだが、三吉慎蔵や坂本龍馬、高杉晋作などとの間でやりとりした手紙も数多く展示してあり、合わせて白石正一郎などをも知る上でとても興味深いものだった。

功山寺を後にして前田地区までの暫くの間は、別名を「野久留米街道」と呼ばれる、比較的車の通行も少ない長閑な旧道をのんびりと歩くことができる。辻堂峠を越えて暫く坂を下って行くと前田簡易郵便局があり、街道はここから右へ辿るのだが、今日は足の調子もいいことだし、ちょっと回り道でそのまま県道246号を直進して、「前田砲台跡」へ向かうことにした。
以前から、国道9号を車で通過する際に前田砲台跡の看板は幾度となく見ているのだが、実は一度も立ち寄ったことがなかったのだ。国道のすぐ脇の少し高台にそれはあり、教科書でも見たような記憶がある写真と共に詳しい案内板が建っていた(写真下)が、それ以外には特に何もなく、眼下に関門海峡を見下ろしつつ青銅製の20門の大砲が並んでいた当時の有様を偲んでみる。

しかし、英・仏・米・蘭連合国軍の圧倒的な軍事力の前には全く無力だったこの砲台だが、ここでコテンパンに打ちのめされたことが逆に、攘夷から開国へ大きく藩論をターンさせる原動力にもなったことを考えると、あながち無駄な装備ではなかったと言えるのだろうかネ。
そしてこの地を占領された際にフランス軍が接収した大砲の1門が、150年の時を経て今は、先ほどの長府博物館に展示されているのだ。前田砲台跡は、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産暫定一覧表に既に記載されているそうなので、その内世界遺産に認定されるかも知れない。

元の街道に戻って「火の山」の麓を抜け、火の山ユースホステルの先から海岸方向へ降りて行き、みもすそ川交差点で国道9号に合流する。ここの「みもすそ川公園」には「壇ノ浦砲台跡」があり、長州砲とも言われるカノン砲のレプリカが関門海峡に向けてずらりと並んでいる(写真下)。前田砲台と共に奇兵隊が守備についていた訳だが、僅か1kmにも満たない目の前の関門海峡から放たれる圧倒的な連合国軍の火力には、さぞ肝を冷やしたことだろう。

この公園の南側には壇ノ浦古戦場跡碑も建っているが、よくよく考えてみると、1185年に源平の戦いがここ壇ノ浦で終結したことで鎌倉時代と言う武家社会が始まり、そして、それから700年近く後、1864年の馬関戦争で長州が大敗北を喫したことで攘夷から倒幕・開国へと進んだことが、武家社会の終わりを告げたことになる訳だ。
つまり、日本の武家社会の始まりと終わりのターニングポイントは共に「下関」だったのだナァ、スゲェ~ ……って、こういう風に郷土の歴史を教えてくれると、学校での歴史の授業ももっと興味を持ったのにナァ。中学校の歴史の先生方、頼みますョ…ホントニ

後は、左手に関門橋と行き交う貨物船を眺めながら、国道9号をひたすら下関駅方向へ向かう。カモメものんびりと、関門海峡か門司方向を眺めているのが微笑ましい(写真下)。


源平の戦いに破れ、八歳で入水した安徳天皇と平家一門を祀る「赤間神宮」を右手に見て更に進むと、亀山八幡宮が見えてくる。ここの鳥居の下には、「山陽道」と大きく彫られた道標が建っていて(タイトル写真)、山陽道の終点であることを示している。明治時代初期の写真では、ここの石段の先はすぐ海になっていて船着場があったようなので、今の唐戸市場や水族館などは後世に埋め立てたことが分かる。

さてと、旧山陽道はこれでようやく広島市から下関市までを完全に踏破したことになるのだが、そのままついでに、ぶらぶらと裏道を下関駅まで約30分程歩き、JRで帰宅することにした。本日は5時間半の歩行で37,708歩だった。

山口県内の主要街道は、山陽道、萩往還、赤間関街道3ルート、肥中街道、石州街道、舟木街道・瀬戸崎街道、秋穂街道と、めぼしいところは全部歩いてしまったが、さぁて次はどこにしようかナァ~



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