霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

防府毛利氏庭園と周防国分寺を訪ねて

2013年03月16日 | 山口の名所

2013年3月16日(土)

防府の毛利氏庭園・毛利博物館で、企画展「お雛さま」をまだやっていると聞いていたので、出かけてきた。久しぶりに来てみたのだが、タイトル写真のように、今は博物館にもなっている旧毛利家本邸は、極めて堂々とした玄関からまず始まる。
この本邸は、明治維新後に旧長州藩主毛利家の本拠に相応しい邸宅として、維新の功労者達の奔走によって選定され建設されたものらしい。明治25年に着工して大正5年に完成したと言うから、何と25年もの歳月と膨大な経費がかかった訳だが、明治・大正時代の技術の粋を全て結集しただけあって、材料なども含めて今ではもう二度と作ることができないほどの壮大華麗な建築物となっているのだナ。

1200坪の豪邸は勿論素晴らしく、その随所に江戸時代の御殿生活の有様を忍ばせるのだが、縁側から眺める庭園の木々と配置が何とも見事だ(写真下)


そして小さな中庭でさえ、その豪勢な造りに圧倒される(写真下)。


25,000坪の庭園をぐるっと回遊して、池越しに本邸を振り返って見ると、これまたいい雰囲気だ(写真下)。


一番奥の博物館では、「次郎左衛門雛」を始めとして、毛利家に伝わる雛道具や嫁入り道具などが展示してあり、その精緻で贅を凝らした品々には、ただただ感嘆するばかりだ。
一般的な雛飾りでは、能楽の囃子方を模した「五人囃子」なのだが、ここでは雅楽の楽器を手にした「五人囃子」が並んでいるのも珍しい。

帰りに土産物店のオヤジに教えてもらったのだが、江戸時代の武家には、家紋にも「表紋」と「裏紋」があったようだ。世間でよく知られている「一文字に三ツ星」が表紋で、男性が公式な場に出るときには必ず着用していたが、男性でもプライベートな用事の時には裏紋の着物で外出していたとのこと。実際に、ちょいと一杯引っ掛けに街へ出る時などに裏紋を着た時は、文字通り「裏門」から屋敷を出入りしていたらしい。結構、公私の別をきちんとしていたのだナ。
また、女性の着物には裏紋を付けるのが習わしだったようで、この裏紋が「沢瀉(おもだか)」だ。博物館に展示してあった女性の身の回りの品々に沢瀉紋がついていた理由がこれで分かった。

で、ついでにすぐ近くの周防国分寺も久しぶりに訪ねてみた。重厚な仁王門(写真下)を潜ると、二重屋根の壮麗な金堂が見えてくる。

平成9年からの8年間に渡った平成大修理を終えた金堂は、威風堂々とした姿と共に、奈良時代の官寺としての格式と天平文化の一端を感じさせる。

今は、高野山真言宗の別格本山としての仏教寺院なので、当初の国分寺としての役目とは違うものの、聖武天皇と当時の国の威光を示すには充分な構えではある。
西暦741年の建立以来、幾度の火災に遭いながらも、大内氏・毛利氏の絶大な庇護を受けてその都度再建され、創建当時の面影を今に残す全国でも珍しい建物らしい。

後日談だが、「防府」「長府」の地名のいわれ、そして「防長」とは何を示すのか、これを周囲の知人に確認してみたところ、概ね30歳代までの人は正確には知らなくて、40歳代以降の人はほぼ知っているという結果だった。
中学校なら歴史の時間に、奈良時代の国分寺建立の経緯を教わる筈なのだが、その時には是非、「防長」とは何ぞやも一緒に教えて欲しいですねぇ~
山口県の先生方、頼みますョ・・・・・・・フントニ



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