霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

肥中街道(山口市吉敷⇒綾木) その2

2010年06月12日 | 肥中街道

2010年6月12日(土) その1からの続き

再度旧街道に戻って、吉敷峠(大峠)を目指して坂を登り始める。
国道435号が今のように整備される前は、センターラインの無いツヅラ折りのスリリングな道で、昭和40年代には、ホンダのN360でこの辺りをよくかっ飛ばしていたのを、思い出した。
今は、高架部分も含めてかなり安全な道になってしまった(写真上)し、峠もトンネルになってしまったので、国道は、昔のようにドライビングを楽しむ道ではない。
高架部分の国道の下をくぐったすぐ先には、西鳳翩山登山口の、これまた分かりやすい案内標識がある(写真中)。

国道の喧騒から離れ、風の音と鳥の鳴き声しか聞こえない旧道を暫く登って行くと、ようやく、大峠に差し掛かり、旧美東町に入る(写真下)。
写真のように、石標には「国境」としか書いてなくて、とてもシンプルだ。旧山陽道や萩往還では、明治時代に建て直したと思われる立派な国境碑が建てられているのに比べると、いかにこの街道が見捨てられた存在だったかが分かる。

峠を後にして、旧美東町の大石地区を抜け鳳鳴小学校を左に見ながら、綾木の植竹交差点に辿り着き、ここからバスに乗って帰宅することにした。
寄り道も含めて5時間半の道のりだったが、きつくて長い登り坂のせいか、多少の疲労感を覚えてしまった。
もう梅雨に入るので、この続きはいつになるか分からないが、次回は綾木から美祢までか、その先の豊田前まで行けるかどうか…お楽しみに。 ⇒次回の記事

★タイトルの「肥中街道」とは?
帰宅してから、今日歩いた道のりをネットで検索していたら、肥中(ひぢゅう)街道なる、初めて聞く名の街道を見つけた。
江戸時代より更に前の大内氏の時代には、この街道が大内氏にとって最も重要な街道だったようで、なぜ重要だったかは、大内氏の巨万の富の基である海外貿易にその秘密があるようだ。
更に、吉敷の山奥に凌雲寺を建立した理由も、そして、大内氏31代当主の大内義隆が、重臣陶隆房(後の晴賢)の謀反に抗しきれず、湯本大寧寺のような山奥で何故自害して400年に渡る大内氏が滅亡したかの理由も、この肥中街道を理解することで、謎が解けてくるのだナ。

さて一体、「肥中」って地名は山口県のどこにあるのか?
これを知ってる方は、かなりの「大内通」であるナ
詳しく知りたい方は、少し長文ながらこちらをどうぞ



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