2010年8月28日(土)
いよいよ肥中街道も今回で歩き通す予定だ。朝から宇部線・山陽線・山陰線と乗り継いで、延べ2時間半かかって、前回終点の滝部駅に着く。
滝部駅に着いたのは既に10時を過ぎていたが、前回は滝部周辺を訪ねていなかったので、まずは近場から探索してみた。
下関市役所滝部支所のすぐ裏手にあるのが滝部八幡宮で、立派な鳥居の奥に八幡様が鎮座しておられる(写真上)。
この鳥居を潜ってすぐ右手には、「烈婦登波の碑」なる大きな石碑が建っていて(写真中)、次のような来歴が説明版に書いてあった。
滝部の宮番甚兵衛の次女である登波が、父と肉親数名を殺傷(1821年)した岩見の浪人枯木竜之進を討とうとして、六十余州を二十年間遍歴した挙げ句、遂に豊前の彦山で本望を遂げた(1841年)。これを大津代官が藩に申請して登波は表彰され褒美を与えられたそうな。
後に大津代官となった周布政之助は、師である吉田松陰に登波の表彰文を依頼し、いたく感激した松蔭は一ヶ月の間、松下村塾の授業を休んで表彰文を起稿した。それを大正5年になって地元有志の発起によって建碑したものが、この写真の碑である。
…にしても、二十年もの永きに渡って親の敵を追い求め、最後には本望を遂げるほどの烈情は、オイラのような凡人にはとても理解できない。しかし、肉親を理不尽に殺されたことに対する憎悪が、己の一生を棒に振ってでも何かの形として一区切りつけたいと思う気持ちになってしまうことは、やむを得ないのかなぁ。
今の世で、このような私刑は許されないとは思うが、従来のように犯罪者側の人権ばかりを聲に叫ぶのはオイラにはとても違和感があって、もっと被害者側の心情を斟酌した裁判のあり方になるべきと思う。裁判員制度が、少しでもその方向に向くのならいいのだがネ…。
滝部八幡宮の左側には、豊北歴史民族資料館と書かれた看板があって、立ち寄ってみたが何やら改装中のようで(写真下)、入館は断念した。昔の小学校の校舎を利用した施設のように見えるが、なかなか威風堂々とした雰囲気を持っており、次回訪れたときの楽しみにしておこう。
肥中街道に戻り、左手に山陰線を見ながら暫くは国道435号を西進する。
その2へ続く
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