霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

肥中街道最終日(滝部⇒肥中)その4

2010年08月28日 | 肥中街道

2010年8月28日(土) その3からの続き

特牛(こっとい)の港町に別れを告げ、旧道からスーパー丸和のところで国道191号に合流して、暫くは国道を北上する。
小さな峠を越えて下って行くと、やがて左手に肥中漁港が見えてきて、国土交通省の道路標識にも「下関市豊北町神田肥中」と書かれてあるのが目につく。

漁港に回り込むように左折するとすぐに、小高い丘の上に恩徳寺が見えて来て、石段を登る。この恩徳寺には、国指定天然記念物の「結びイブキ」なるものがあって(写真上)、由来によれば、枝が竜蛇のように屈曲交錯していて形態学的に学術価値が高いとのこと。写真ではちょっと分かりにくいが、画面中程の形が、太い枝を複雑に結んだように見えるのだ。

この結びイブキに絡む大内時代の悲話が、すぐ横にある「さすり地蔵」(写真中)の祠に書いてあった。少し長いが要旨を引用してみる。
平安時代から鎌倉・室町時代を経て永く興世を誇り、戦国時代を迎えてもなお西国一の大大名として栄華を誇った大内氏の治世だが、いよいよその時代の終焉を向かえ、大内義隆の側室であった「花の方」は身重のままでここ肥中に難を逃れ、義隆の霊を弔う為に尼となって建立したのが、恩徳寺だ。
じきに子どもは産まれたが産後の肥立ちがわるく、子どもを残して「花の方」は亡くなる。子どもは「お花」と名付けられて叔父に預けられたが、借金のかたに売られて遊女になった。
このお花と知り合った海の番所役人である重蔵も、貧家の生まれと幼少時の両親との死に別れという寂しい身の上で、いつか二人は愛し合うようになった。
ところがお花が重病にかかり、病を治すには身請けするしかないと悟った重蔵は、幕府の朝鮮への特使である偉い僧侶一行の献上品を盗み、それを売ってお花を身請けしようと図った。
しかし謀は失敗し、僧侶の前で経緯と悲しい運命を話すと、僧侶は重蔵に、弟子になって朝鮮についてくるよう命じた。
『三年後、必ず帰るから待っていてくれ』と言い残して重蔵は旅に出たが、何十年経っても重蔵は帰ってこず、その間お花は毎日、恩徳寺に参り、重蔵の無事を祈った。
そして何十年か後、肥中港に偉い僧侶が降り立ち、弟子を引き連れて恩徳寺に参ったが、そこに見つけたのは石を積んだ小さな墓で、墓には「お花の墓」と書かれてあった。僧侶は、朝鮮から大切に持って帰ったイブキの苗をその墓の元に植えさせた。
その後僧侶は都に入り、名僧として八十歳で亡くなるときに『肥中の「お花の墓」の隣に葬ってほしい』と言い残し、弟子たちが遺言により骨を埋めた。
いつのころからか、愛し合っている二人が、一緒にこのイブキに触れると『きっと結ばれる』と言い伝えられている ………そうな。

エエ話だけど、何とも切ないなぁ~。この「さすり地蔵」の顔がツルンツルンなのは、お花が毎日撫でたからとも言われてて、この祠から振り返って肥中港を眺めると(写真下)、お花の待ち焦がれ続けた視線の先に、朝鮮からはるばる帰って来た重蔵の船が見えるような気がするのダョ。

滝部から肥中までは、寄り道を含めても3時間半余りで、帰りはどこから山陰線に乗ろうかと思ったが、また特牛までもどるのも何だか癪なので、ついでにもう一つ先の阿川まで北浦街道を歩いてみた。1時間弱で阿川駅に到着し、ここから山陰線に乗って帰宅することにした。

結局五日ほどかかってしまったが、どうやらこれにて肥中街道を完全踏破できたのだ。バンザァ~~~い!!!



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2 コメント

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浪漫 (山田 克美)
2011-01-08 11:28:17
ひょんな事から地元の浪漫を知りました。
賞味期限切れまで後僅かとなった今、少しは浪漫の世界に浸るのもいいかなと考えるようになり、コメントさせていただいております。
勉強させていただきます。
ありがとうございました・・・
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まさに浪漫です ()
2011-01-08 20:13:46
山田さん、コメントをありがとうございます。
肥中の関係者というか、地元の方なのでしょうか。
この街道には、ほとんどの長州人が知らない浪漫も悲劇も、もっともっとありそうです。
「肥中街道」でネット検索してもあまり情報は得られないこともあり、色々と教えていただくと嬉しいです。
「賞味期限切れまで後僅か」というのがちょっと意味不明ですが、私もまだ61歳の若僧ですので、今後とも折にふれてコメントをいただくと共にご指導くださいませ。
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