2013年11月23日(土)
今回は最終日なのだが、朝の出発時間が少し遅くなったこともあって、自宅から車で滝部駅へ直行して駅前に車を置いてから、前回の続きを歩き始めた。
滝部の街中を見下ろすように建つ旧滝部小学校本館(タイトル写真)は、前回訪れた時はまだ改修中だったのが綺麗に修復され、開校当時と思われるモダンな佇まいで出迎えてくれる。
ドイツ人技師によって設計され、地元の宮大工によって造営されたルネサンス様式の大正建築物は、これも地元出身の国会議員が私財を投じて当時の滝部村に寄贈したものらしい。
明治・大正の人たちは、自分が功成り名遂げると、こうやって必ず地元の発展や子どもたちのために私財を投じることを当然と考えていたのだろうか。近頃の一部の政治家や有名人のように、自分の私腹を肥やすことばかりを考えている輩とは、根本から大きな違いがあるのだなぁ(・・・あ、見え見えの怪しい借用書のことで大汗を掻きながら苦しい言い訳している、どっかの知事のことを言ってるのでは、ない・・・と思う)
豊北総合運動公園を右手に見ながら、そして山陰本線を左手に見ながら、国道435号をしばらくは登って行く。道の右手には、風力発電の風車がどんどん間近に見えて来て(写真下)、おいらはとっても圧迫感というか脅迫感を感じるのだが、ここに住んでいる方達はどんな思いで生活をしているのだろうかネ。
こんなにも巨大な風車を、どうしてこれほど民家に近い距離に建設する必要があるのか、どう考えても納得がいかない。
GoogleEarthなどでこの付近の航空写真を見てみると分かるのだが、この風力発電基地を造る為に、この辺りの山々を建設・保守用の道路でズタズタにしていることに、とっても吃驚する。
クリーンな自然エネルギーと言いながらも、豊かな自然の生態系を根本から破壊していることとの大きな矛盾を、一体誰がどのように地元の方々に説明したのだろうかネ。
このような設備にしても、或いはゴルフ場や大規模住宅団地や杉・檜の植林などで、日本の豊かな自然の源である雑木林の山々をぶち壊してしまうことに、日本人はどうも鈍感なような気がする。一見するとカネにならない雑木林の山々こそが、清流を産み、そして豊かな海へと繋がることに、もうそろそろ気がつくべきだと思う。少なくとも、昔の人はそれをきちんと理解していた筈だ。
大水害などの災害も異常気象だけで片付けるのではなく、日本の山々を衰えさせてしまった大きな原因が、これらの鈍感さにあるように思うのだがネェ・・・。
とまぁ、まるで巨大風車に挑むドン・キホーテのような気持ちになりながらも、小さな峠を越えて滝部地区から神田地区へ入る。
特牛の少し手前から街道は右手に折れていき(写真下)、愈々、特牛の街中へ入っていく。
古びた町並みをゆくと、やがて特牛の中心部で北浦街道(赤間関街道北浦道筋)に突き当たる。これを右折して北上すると肥中はもう目の前なので、特牛漁港で湾を眺めながら一休みする。
街中には、「手づくり和洋菓子」「特牛まんじゅう」と看板に書かれた菓子店があり(写真下)、栗万十や抹茶タルトなどの貼り紙にゴックンと涎を感じながらも、そのまま素通りした。
街道からはすぐに国道191号に合流し、海沿いから離れて少し山側へ入って行くと、すぐに「肥中石畳」なる標識が右手に見えてくるので、国道を離れて山道を往く。
この標識も以前は無かったので最近建てられたのだと思うが、この道に入ってすぐにも分かれ道があり、ここには何の標識もないので、初めてこの街道を歩く人は多分ここで迷うだろうと思う。
地元の方々が標識を建てていただくこと自体は大変ありがたいことなのだが、初めて来た人を確実に導いてくれるような標識を建てていただくような細かな配慮をしていただくと、更に嬉しく思うのです。
小さな峠を越えて下りになると、やがて細いながらも石畳が見えてくる(写真下)。
民家の向こうに見えるのは、もう肥中の港だ。
前回と同様に恩徳寺に参詣し、見事な「いぶき」(写真下)をしばし鑑賞しつつ一休みする。
滝部からここまでは僅か二時間余りで、このまま帰宅するのは少し物足りない気がしたので、そのまま角島方面へ足を伸ばしてみることにした。
続きはCM2の後で・・・
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何もわからない状態から、なんとか踏破できたのは、貴兄のこのブログで大体のルートの目安がつけられたからです。
日の配分の見当がつけられたのも、ありがたかったです。
本当にありがとうございました。
わたしのほうは、街道を歩く旅のような案内ページでも作れると良いかなと考えています。
そこまで行くかどうか?できたらご連絡いたします。
さて16日は、まず豊北歴史民俗資料館に行きました。
昨年末の街道展のとき縮尺が大きくてわかりづらいですが一応ルート地図が展示されていたので、その元が何か?教えてもらえればと思いました。
幸いに開いていて若い女性が掃除中でした。趣旨をお話したところ別の女性も出て来られて、いろいろ教えていただきました。まずルート資料は赤間関街道の説明書の中にありました。
それ以外にも豊北町内の史跡の説明書もいただきました。肥中ならびに赤間関・北浦街道も含まれます。豊北町内だけです。
「豊北の街道案内標識設置予定場所」というのがあり、赤間関街道は11ケ所、肥中街道は10ケ所です。肥中は
①田耕川中曽七曲り ②田耕朝生岡の原 ③田耕糸野端山尻 ④滝部大庭末森の里入口 ⑤滝部上市三ツ辻 ⑥神田堀越旧清水寺入口 ⑦神田特牛入口 ⑧神田肥中石畳 ⑨神田肥中港入口 ⑩神田肥中船究御番所跡です。
①③⑦⑧は既に出ています。私が七曲りの後見た赤い矢印のところに②が出るのだろうと思います。
③は「はやまじり」と言われましたが、読み方を確認したところ自信は無いとのことでした。
豊北の街道については「豊北郷土文化友の会」が毎年2月か3月に歩く会を催していて、その責任者Kさんの連絡方法も教えていただきました。ルートにも詳しいのではないかとのことでした。
本当に親切に教えていただきました。
その後、特牛港まで歩き、昨年末歩いたとき寄ったコーヒーハウス暖で早めの昼食をとることにしました。
そこで話しかけた方が昭和13年生まれのTさんで、歩く会責任者Kさんとは同じ年齢で、街道に詳しい2年上の元校長のAさん(いずれも田耕在住)に電話してもらいました。
Tさんは端山尻は昭和30年代にオート三輪で走ったことがあるそうです。バスや馬車の話も出ましたが、これは資料館でもらった資料にもありましたので、そのことだろうと思います。
資料中の端山尻の話を最後に添えます
○端山尻の旧街道
街道は西山坂から滑川の清流を右に見て大庭へと進む。路傍には藪椿が多数自生している。
現状は竹薮に覆われて日当たりは非常に悪い。これでは花附きも悪かろう。今年も数本の木が花をつけただけだ。
椿ロードを夢見て周囲の竹薮を切り払った。春先にきれいにしたが6月になると新しいタケノコが頭をもたげた。椿そのものが大きくなることと竹を絶やす事には数年手入れが必要であろう。
街道の中程に清水が湧き出る場所がある。昔、ここに茶店があり、夏には清水で冷やしたトコロテンを商ったという。
今でもここからパイプで清水を対岸に導き飲水に利用しているとも聞く。この道を通って大庭・滝部へ行かれたという方も多かろう。乗合馬車が五千原で営業をした時期、更に乗合バスが通行するようになると旧街道はその役割を終えた。昭和9年(1934)匡救土木事業として大庭・糸野線が新設され現在の国道筋へ変更され、旧街道は寂れていった。遊歩道として蘇らせたい。
ありがとうございました。
コメントをありがとうございました。
沢山の素晴らしい情報をいただきまして、とても参考になりますし、地元の方々の熱意も十二分に伝わってきます。
ひだかさんが仰るように、確かに旧街道は、人の移動や物流の手段としての役目は既に終わったとしても、先人たちがなぜこの道を開拓して利用していたのかに思いを巡らせれば、現代の私達が今何をすべきかのヒントも生まれてくるような、そんな気がします。
遊歩道として蘇らせるのも、そういった意味でとても大きな効果があると思います。
旧豊北町の方々のこれらの素晴らしい活動を、是非、街道沿いの他の自治体にも拡げていただいて、県全体でもこのような見直しが行われるようになれば、また違った展開も期待できそうですね。
私も微力ながら、これからも情報発信していこうと思っています。