霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

関門国道トンネル人道⇒門司往還⇒小倉 その1

2012年02月11日 | 山口県外旅行

2012年2月11日(土)

チョォ~~~久し振りに、関門国道トンネルの人道を歩いてみることにして、マイカーでみもすそ川公園そばの人道入口(タイトル写真)駐車場まで行き、エレベーターで地下へ降りてみる。
トンネルの中は土曜日だからか祝日だからか結構な人出で、ジョギングやウォーキングをする人や、明らかに観光客と思しき人まで、思い思いにトンネルの景色(…という程のものでもないが)を楽しんでいる様がそこそこ面白い。

トンネル内の県境を通過して、下関口から僅か10分ほどで門司口に到着し再度エレベータに乗って地上に出ると、そこは関門海峡越しに下関の街並みが遙かに見渡せる風景となる。
すぐ側にある、松本清張の「時間の習俗」で一躍有名になった和布刈(めかり)神社にまずは参詣し、今日の無事を感謝する。巨大な橋脚を仰ぎ見ながら関門橋の足下を抜け、右手に早鞆瀬戸の渦を間近に眺めながら往くと、すぐにノーフォーク広場に出る。
広場を出たところに小さな駅があるが(写真下)、電車の来る気配は全く無い。説明板を見ると、今年は3月17日(土)から運行開始とあるので、もう少し先へのお楽しみに取っておくことにしよう。

この路線は、昭和初期に開通し平成17年に休止した臨港線(貨物線)の一部を利用して、JR門司港駅横の九州鉄道記念館駅と関門海峡めかり駅との間約2.1kmを、 小さなディーゼル機関車がトロッコ型客車2両を牽引して走るのだ。時速15kmというゆっくりした速度なので、関門海峡をのんびりと眺めながら列車に揺られるのもいいかも知れないナ。

和布刈地区から門司港駅、門司駅そして小倉の常盤橋に至る街道を、江戸時代から明治時代終わり頃までは「門司往還」と呼んでいたようで、下関までの山陽道と、常盤橋から延びる九州各街道とを結ぶ重要な街道であったらしい。
しかしながら、関門(鉄道)トンネルの開通や関門連絡線の廃止、国道3号線や国道199号線の整備拡幅、そして海岸線の埋め立てによって幾つもの工場が建てられ、美しかった海岸線と門司往還はその姿を大きく変えざるをえなかったようだ。
時代の流れで仕方のないこととは言え、実際にこの道を歩いてみると、この街道がJRの線路や工場などによってズタズタに分断されている様がよく伺える。旧山陽道の下関から広島までの間は、既に人間が歩かなくなって獣道になり果てた道は幾つかあったけれども何とか歩き通せたのに比べて、全く歩くことさえできなくなってしまったこのような街道は、何だか寂しい気がするのは単なるセンチメンタルではないと思う。

平知盛の墓と伝わるお墓がある「甲宗(こうそう)八幡神社」に参詣し、旧門司1丁目信号から左折して関門国道トンネル入口を左に見ながら国道2号を南下する。すぐの東本町二丁目交差点の角には「岩田家住宅」があり(写真下)、渋い漆喰の居蔵造りでありながら片面の壁は垂直に赤煉瓦で覆われているという、珍しい建物だ。第二次大戦中の激しい戦火を逃れられたのも、この赤煉瓦のお陰かも知れない。


その先の門司市民会館前までは国道2号の標識があり、ここを過ぎて老松公園前の信号を斜め右に往くと国道3号の標識に変わるところをみると、門司市民会館前が国道2号と3号の基点みたいだが、それらしき説明板は特に見当たらなかった。

門司往還は国道3号に入らずに老松公園前をそのまま直進し、鳴滝四丁目交差点から門司税務署の横へ抜ける少し細い道を辿ることになる。ただ、少しここで寄り道をして、バナナ叩き売り発祥の地と言われる「郡芳閣」(写真下)へ立ち寄ってみた。

大正時代初期から昭和時代に入って戦中まで、門司の町が最も華やかし頃に自然発生的に誕生したらしい「バナナの叩き売り」だが、『さぁさぁ買うた買うたぁ、バナちゃん因縁聞かそうかぁ。私の生まれは台湾でぇ、親子もろとももぎとられぇ~、かごに詰められ舟に乗りぃ、金波銀波の波越えてぇ~、着いたところが門司みなとぉ~…』と言う下りの口上も、今や大道芸でしか聞けなくなってしまった訳だ。

桟橋通り交差点に戻ると、国道3号の右手に「九州鉄道記念館」が見えてくる(写真下)。

明治時代中期に設立された九州鉄道会社の旧本社がここにあったとのことで、その当時の建物(写真下)も残存しているが、明治40年に国有化されるまで、ここが九州全体の鉄道を統括する拠点だったのだ。

C591を始め、各種車両の展示や子ども向けのミニ鉄道もあり、家族連れのお客さんが結構溢れていて繁盛していたようだ。

その2へ続く)



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