2012年2月11日(土) その1からの続き
門司港駅の南側に拡がる広大な操車場や車両基地を後にして、門司往還は一路、国道3号を南西に向かう。
右手は鹿児島本線と関門海峡、左手は風師山という風景がしばらく続くが、風師二丁目信号の辺りからは右手に旧道が残っているので、交通量の多い国道を避けることができる。
ナフコ(ホームセンター)を過ぎて二夕松町団地前の信号で再度国道に合流し、少し先の小森江三丁目信号から再び右に折れて旧道を往く。
JR小森江駅前を通過してすぐにJRの線路を渡り、一旦、海岸沿いの国道199号に出る。この辺りも国道の両脇には幾つもの工場があるが、その中には赤煉瓦造りの倉庫が多く立ち並んでいて、往時の繁栄を偲ばせる。
すぐ先の大里本町一丁目信号から左に折れる旧道があり、右手に西生寺を見て進む。西生寺の説明板には、「藩政時代、幕府によって宗門改めの政策が布かれ、西生寺は判行寺(踏絵寺)とされて毎年3月に踏絵が行われていた」と書かれてあり、キリシタン弾圧の悲しい歴史が秘められた寺であることが分かる。
門司往還が門司駅の北側を通るこの辺りは、旧街道の雰囲気もそこそこ残していて楽しい道筋だ。八坂神社近くの交差点には、「長崎街道」と書かれた標識も建っているが(タイトル写真)、正確にはこの道は門司往還であって、長崎街道は小倉常盤橋を起点として長崎へ向かう街道の筈だ。ま、いいけど…。
更に進むと、赤煉瓦造りの建物が建ち並ぶ一角に差し掛かり、右手には豊前大里宿跡と書かれた石柱(写真下)があって、大正二年築のこの旧倉庫棟が、赤煉瓦交流館(ホール)と名付けられているようだ。
また左手には、門司麦酒煉瓦館と立派な街道松が出迎えてくれ、その前には「大里宿のゆわれ」と書かれた分かり易い案内板が建っていた(写真下)。
しかし、平仮名で「ゆわれ」って書かれると、何となく違和感を覚えるのだがどうしてだろう?。口頭では確かに「ゆわれ」って言うこともあるけれども、文書にする場合は「いわれ」つまり「謂われ」ではないかと思うのだが、………ま、いいけど。
明治時代から大正時代にかけての遺産である赤煉瓦倉庫群と、寛政11年(1799年)だから江戸時代後期に建てられた「長崎番所」跡の石柱が旨くマッチしている風景(写真下)もまたいいもんだ。
これらの赤煉瓦建物群を総称して「門司赤煉瓦プレイス」と言うそうな(写真下)。
明治四十五年に設立された帝国麦酒㈱によって、大正二年にこの地に麦酒工場が竣工して醸造を開始して以来、「桜麦酒」「大日本麦酒」「日本麦酒」「サッポロビール」と、社名変更などの変遷をたどりながらも門司の産業を支え続けてきたのだナ。
そして平成十二年、大分県日田市に新九州工場が竣工されたことで、門司のこの工場は閉鎖となり、この地における87年間のビール製造の歴史に幕を閉じたとのこと。隣の県に長く住んでいながら、今回ここを訪れるまでそんなことはちぃ~っとも知らなかった。お恥ずかしい限り。
その3に続く
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