霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

萩往還その3(山口⇒防府)

2009年10月31日 | 萩往還
2009年10月31日(土)

萩往還もいよいよ三回目になり、最終行程の山口から防府(三田尻)までを歩いてみた。
JR山口線で山口駅まで行き、駅前から旧道を歩き始めたが、萩市周辺と違って、山口市周辺には萩往還を示す標識がほとんど見当たらず、全体としての一貫性の無いこと甚だしい(萩市では立て看板だが、山口市ではほとんど無く、防府市では路面に埋め込んだ標識という具合)。各市町村がバラバラに整備するのではなくて、県単位で調整を取ってできないものかと思う。
5年前に日光街道を8日間かけて完全踏破した時に、複数都県に跨るこの街道でも、「適切な場所に、さりげなく、かつ正確で、統一された」標識が整備されているのを見て、行政(関係機関)の「的確さ」と「丁寧さ」に感心したことがある。中仙道も同様と聞く。
萩往還に関して言うと、「不適切な場所に、へんに目障りで、間違いが多く、分かりにくい」標識ばかりなのは、長州人として頗る残念だなぁ。

前二回の登り坂に比べるとはるかに緩やかな鯖山の旧道を登りきると、峠の頂上には郡境碑(写真①)が建っていて、「従是南 佐波郡」「従是北 吉敷郡」と彫ってある。
すぐ近くには「明治天皇鯖山峠 御小休所阯」と彫られた碑も残っていて、明治天皇はどのような交通手段でこの峠を越えたのだろうかと、ふと想像してみる。皇室が行幸の際に自動車(御料車)を使うようになったのは大正時代に入ってからの筈なので、この当時であれば馬車か若しくは、天皇自らが乗馬されて峠を越えられたのだろうか?。いずれにしても、もし三田尻側から鯖山峠を越えたとしたなら、大そう難儀ではある。

峠を越えて下右田や高井地区に出ると、去る7月に起きた豪雨災害の爪痕が、まだあちこちに残っていて、当時の凄まじい恐怖の有様をまざまざと思い起こさせてしまう。2月に萩往還を歩いた時には穏やかな清流そのものだった剣川が、石や岩だらけの殺伐とした風景に変わっていたのには唖然とさせられ、また、猛烈な濁流にえぐり取られたのであろうと推測される敷地も、そのままになっていた。
橋の欄干石が無くなっていたり傾いていたり、家屋やガードレールには、多数の車が連続して激突したような多くの傷跡(写真②)が、生々しく残っていた。自然の力と脅威の前には、現代人の浅知恵なんぞ「への突っ張り」にもならないことを、改めて感じる。
すぐ南にある「佐波川の大渡し」の説明板によると、寛保2年(1742年)に6艘の舟を並べて板を渡しただけの「舟橋」が架けられ、幾多の災害に耐えて、昭和16年までの約200年間存続したらしい。社会事情が違うので、単純に「昔の人は偉い」なんぞと言いたくはないが、果たして本当に現代人は賢くなったのだろうかネ?
どうでもいい「知識」ばかりを詰め込んで、人間として本当に大切な「智慧」を忘れてしまったのが現代人のような気がしてならないナァ ………ツクヅク

佐波川を本橋で渡ってから後、(路面に埋め込まれた)萩往還の標識を見失ってしまい、天満宮方向を目指して今市町から迫戸町辺りを適当にぶらぶらしていたら、「たなか遊花堂」なる和菓子屋をたまたま見つけ、たいそう美味しそうな饅頭にありつけた。
他所から来て実際に歩く人のことを全く考慮していない、まるっきしお粗末な「防府市の路面標識」には呆れ果てて腹が立ちまくりだったが、たなか遊花堂の饅頭が美味かったのに免じて、勘弁してあげる …ナンノコッチャ


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