辺りは、不気味なくらい静かだった。
朝だというのに人の気配がしない。皆、病気なんだろうか。
そんな住宅街を、あてもなくフラフラと歩く。
腹が減った。目眩がする。意識が朦朧とする。
だけど――何も食べられない。何を食べても満たされない。
おそらく、ただひとつのモノを除いて。
そう、僕は。
僕は気付いている。だけど、気付かないフリを続けている。
何て――滑稽な。
だけど、笑えない。笑う気力もない。
その時、不意にけたたましい動物の鳴き声が聞こえた。
驚いて声の方へ向き直る。
そこは、何の変哲もない民家。
何事かと、庭の垣根越しに中の様子を伺う。
鳴き声の主は、ペットの犬。
そして、その傍らには、家人と思しき中年の女性。
仕事へ行くつもりだったのだろう。
上下ともきっちり整ったスーツ姿――だけども。
僕は、視線を、辿らせる。
胸元。
襟。
首。
そして、唇。
僕は、視線を、辿らせる。
――赤い紅い血液の滴りと、逆順に。
足元の犬へと視線を戻す。
犬は、抉れた喉元から大量の血を流したまま、ぐったりと動かない。
傍らに立つ女性は、震えている。
震えながら、嗤っている。
目からは涙を。
口からは血と唾液を。
だらだらと、垂れ流して。
そうか、一線を超えてしまったのだな。
僕は想像する。今の僕にとって、それは決して難しいことではなかった。
きっと。
あの女性にとって、あの犬は家族同然だったのだ。
我が子のように愛情を注ぎ、自分よりも大切に、いとおしく思っていたのだ。
だけど。
大切だからこそ、彼女の飢えを満たすことができる、唯一の存在だったのだ。
今その口に広がる血肉の味は、強烈な飢えを完璧に癒していることだろう。
だから。
彼女は、嗤いながら、泣いていた。
僕には、その気持ちが痛いほどよく分かった。
繁華街へと出た。
そこは、打って変わって、喧騒に包まれていた。
悲鳴、怒号、嗤い声。
街は、見事に狂っていた。
歩きなれた商店街だというのに、まるで異世界だ。
広場に、人垣が見えた。有名な新興宗教の宣教師が必死に演説をしている。
「飢えに負けてはいけません。人がヒトである以上、犯してはいけない禁忌がある」
なんて真っ当な演説なんだろうと思った。
実に素晴らしい、すばらしい、スバラシイ。
僕は拍手して、大声で嗤って、唾を吐いた。
サイコーに気分がいい。
路地裏では、少年が膝を抱えて座りこんでいた。
小学校高学年くらいの、利発そうな男の子。
ガタガタと震える彼の口元には、やはりべっとりと血がこびりついていた。
彼は、一体何で飢えを凌いだのだろう?
――思考を停止して、僕はその場を離れた。
やっぱり、サイコーに気分がいい。
家に帰りたいと思った。だけど、帰れないとも思った。
だって。
家には、妹がいるから。
公園のベンチに座り込むと、僕はそっと目を閉じた。
気が付けば、辺りは既に真っ暗で。
街灯がぼんやりと園内を照らしていた。
周囲には、僕と同じような人達がちらほらと見受けられる。
――彼らは、何を思っているのだろう。
空腹を満たしたい?
大切なものを失いたくない?
多分、両方なのだろう。
今の僕と、同じように。
僕は、どうすればいいんだろう?
思考能力は徐々に薄れつつある。
今、家に帰るわけには行かない。
こんな状態で妹の顔を見たら――僕は、何をするか分からない。
否。
何をするか、分かりきっている。
ベンチに座り込んだまま、一人項垂れる。
そんな、深い絶望の中で。
「お兄ちゃん、見付けた」
声が聞こえた。あの声が。
ああ、顔を上げちゃ、駄目なのに。
僕はゆっくり視線を向ける。
ああ、腹が減って、仕方がない。
「お兄ちゃん」
ぼやける視界に、妹が映った。
こんなにも狂った世界の中、何一つ変わらない姿のままで。
僕は・・・僕は飢えても構わない。
それは、禁忌だからではなくて。
本当に、本当に、大切だから。
空腹はますます強くなるばかりだけれど――僕は、それに耐えようと思った。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん」
妹が、歩み寄ってくる。
怖がらなくて、いいんだ。
心配しなくて、いいんだ。
僕は。
――誰よりキミを、愛しているから。
「お兄ちゃん。ごめんね」
そう言って。
妹は僕の背に両腕を回すと、首筋に向かって強く強く歯を立てた。