高知ファンクラブ

“高知をもっと元気にする”ボランティア集団、「高知ファンクラブ」のブログです。

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ)

2011-01-23 | 2011年1月の記事

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ)

 (四国24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ) 09/07/03)

 (四国24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ) 09/07/03)

 (四国24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ) 09/07/03)

 (四国24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ) 09/07/03)

 (四国24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ) 09/07/03)

 

 (四国24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ) 09/07/03)

 

出典:四国ネット・・・24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ)

 

 室戸までは八十五㌔あまり、途中の八坂八浜の美しい海岸で、弘法大師が鯖を蘇生させたと伝える番外「鯖大師」がある。

土佐路は宍喰をすぎてまもない甲涌から。荒涼とした海岸沿いに一本の通がどこまでもつづく。岬の突端に洞窟があり、御蔵洞という。

十九歳のとき大師は洞窟にこもつて「求聞持の法」を苦行のはてに成就する。「土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す」と自ら書かれ 「法性の室戸といえど、われすめば、有為のなみかぜたたぬ日ぞなき」と、ご自身で詠まれている。

御蔵洞の先に最御崎寺への登り口がある。途中に「一夜建立の岩屋」や「捻岩」など大師ゆかりの洞窟がある。ウバメガシやアコウの密生林を抜け、登りつめたところが仁王門、大師堂、多宝塔、正面に本堂がある。

ご本尊は大同二年(八〇七)大師が寺の創建と共に刻まれた虚空蔵菩薩。元和年間に最勝上人が再興し、大正十三年には本堂が復興している。 

岬の突端に洞窟があり、御蔵洞という。

岬の突端に洞窟があり、御蔵洞という。

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羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その1)

2011-01-23 | 2011年1月の記事

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その1)

 

 

 はじめに

 土佐和紙は千年余りの歴史があり、江戸時代の
 土佐七色紙(黄紙・浅黄紙・桃色紙・柿色紙・
 紫色紙・萌黄色紙・朱善寺紙)を山内一豊が
 徳川将軍家へ献上し御用紙となってから普及。

 明治初期には吉井源太の手による極薄紙の
 土佐典具帖紙により、謄写版原紙として全国へ、
 またタイプ原紙として世界へと拡がり
 日本の産業革命の一翼を担うまでに栄えた。

 明治より大正・昭和初期へと連綿と、川上から
 三椏等の原料の集積地、紙の産地として
 上方との交易により栄え、大きな富を得ている。

 その富は上方の影響を受けながらも、
 土佐の風土から特徴のある商家群として、
 椙本神社周辺より形成されました。

 この町並みが町民の誇りとなり、いの町の
 厚みのある町づくりのシンボルに。
 また、現在を生活しながら、過去の風土と歴史
 を未来に繋いでいくことが使命だと思います。

 

町並みの変遷と構成

 長宗我部時代には商業集落はないが、
 明治5年の記録では「七丁ヶ芝(大国町・西町・
 若宮町・幸町)」=(芝町ともいう)が
 いの町の市街地に生れている。

 野中兼山の時代、仁淀川の治水用堤防建設から
 八田堰・鎌田堰に着工し伊野側にも築かれた。
 これらの条件から七丁ヶ芝の岸辺が河港となり、
 集落を形成したもようである。

 明治20年四国新道の開通に伴い、
 繁栄の中心は、次第に問屋坂に移っていった。

 伊野の伝統的建造物群は、江戸末期河港の
 椙本神社前の七丁ヶ芝の岸辺に移転して以降、
 新道の開通や電車の開通、製紙業の繁栄に伴い、
 明治末期までに形成されていった。

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栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"22 クスノキの仲間1

2011-01-23 | 2011年1月の記事

栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"22 クスノキの仲間1

 

                        アオモジ

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その1)

2011-01-23 | 2011年1月の記事

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その1)

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 梼原町出身の維新の志士を顕彰するため、町内には吉村

   虎太郎の居住した庄屋跡と掛橋和泉邸が保存されて

   おり、前田繁馬、中平龍之介、那須俊平・信吾の招魂碑

   のほか、一ヵ所にまとめて建立した六志士の墓もある。

 また吉村虎太郎らが脱藩した宮野々関には記念碑が

   建てられている。

 文久二年(1862年)澤村惣之丞とともに脱藩した

   坂本龍馬も、3月25日夜那須俊平宅で一泊、翌日

   那須俊平・信吾父子の案内で国境を越えたことが

   明らかになっている。

 郷土出身の六志士とゆかりのある坂本龍馬・澤村惣之丞

   を加えて八人の群像建立計画が、橋本大二郎知事を

   名誉会長にすすめられた。

 銅像は特徴を持ったそれぞれの姿態で、自然石を

   組み上げた台座に建てられている。

 製作者の浜田氏は「ただ立っているだけでなく、未来に

   向かって駆ける志士をイメージし、竜馬は旅たちへの

   覚悟や決意をこめた姿にしました。」と語っている。

 

     除 幕: 平成7年11月11日

     題 字: 維新の門

     字   : 橋本大二郎高知県知事

     事業費: 1億373万5,000円(全額寄付)

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 幕末の風雲急を告げる文久二年春、坂本龍馬は勤皇郷

   梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友

   澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢みて脱藩した。

 この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之介が

   国境を越え、維新動乱の渦中に身を投じた。

 また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。

 それから年を経ること六年、明治維新は成り、

   近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は

   壮烈な死を遂げていた。

 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の

   到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた

   男たちの決意が偲ばれる。

 ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て

   「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。

 近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。

 その郷土を誇りとする青年達の情熱と維新の里の発展を

   希求する町内外の数多くの有志の熱き想いが、

   この群像を建立する。

                     梼原町長 中越準一

 

 

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