羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その2)
吉村虎太郎
芳生野村庄屋 吉村太平、妻雪の長男として生る。
安政6年、梼原村番人 大庄屋として赴任した。
武市瑞山らと勤皇党を結成し、文久2年、脱藩して京に
上つたが、一時捕えられ牢舎に入るも、出所後、再び京に
上り、翌3年、天誅組を組織し、大和にて兵を挙げた。
しかし、8・18の政変で孤立無援となり、鷲家口(奈良県)
にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅する。
虎太郎も、壮烈な戦死を遂げた。(1837~1863)
掛橋和泉
梼原村 那須常吉、妻歌の次男として生れ、
同村神職掛橋家に養子として入った。
すぐ隣の庄屋 吉村虎太郎と親交を重ね、
勤皇の志を固めた。
文久3年春、同士が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、
家財を費やして彼らを援助した。
これが養母の知るところとなり、その詰責を受け、同士に
類の及ぶことを恐れて自決した。(1836~1862)
前田繁馬
松原村庄屋 前田広作の長男として生る。
那須俊平に剣を学び、吉村虎太郎・
那須俊平らと交わって勤皇の志を固めた。
文久3年吉村虎太郎の挙兵を知り脱藩、天誅組に
入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、
初瀬(奈良県)で戦死した。(1835~1863)
那須俊平
梼原村に生まれ、同村郷士 那須忠篤の養子
となり、武芸を好み、特に槍術に長じ
「土佐一の槍の達人」と称された。
文久2年4月、養子の信吾は藩佐幕派の
吉田東洋を斬って脱藩した。
俊平も元治元年脱藩、長州の忠勇隊に入った
同年、58歳の身で禁門の変に参加し、
奮戦の末戦死した。(1807~1864)
那須信吾
佐川村浜田宅左衛門、妻悦の第三子として生れる。
梼原村郷士那須俊平の養子となり、
その娘為代と結婚した。
文久2年4月、土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、
その足で脱藩し京都に潜伏した。
翌3年、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵するも、幕軍に
阻まれ壊滅。 鷲家口(奈良県)で戦死した。(1829~1863)