精神性について語ることにどこか嘘くささを感じていたため、正面切って語ることは、控えめにしていたが、もうこうしたことについて無視することもできない時期に来たと思います。
私の父方の親戚は、宗教家や芸術関係者が多いのですが、私自身、自分のことを宗教的人間だと思っています。宗教的というのは特定の宗派や団体に属するということではありません。目に見えないこの世界の真理を探求したいという思いが強いということです。何か特定の宗派、団体に属することは嫌いです。それは真理から目をそむけ自分を不自由にすることです。真理は、だれかに従うことでもなく、団体に所属することである種の安心関を得ることでもないと思います。そこには、ある種の苦悩を軽減する働きはあると思います。しかし他人の説く真理は、自分にとっての真理ではないと思います。
何が真理であるかは、ただ自らが探求すべきことであると思います。
こうしたことに抵抗のある人も多いと思いますが、そうした人は、ご縁がなかったということで軽くスルーしていただければよろしいかと思います。
私の今までの経験と直観からしまして、唯物論的世界観というものは、全く間違いであると思っています。
古来、神とか霊とか呼ばれているものは確実にこの世界に影響しています。
目に見えないものを対象として観察した結果、気とかプラナとか呼ばれているものだけでなく神とか霊とかもある種の実体であると言う結論にいたりました。
こうしたものを無視して世界を見るならば明らかに私達は、この世界を全体として見ることはできないと思います。
私の父方の親戚は、宗教家や芸術関係者が多いのですが、私自身、自分のことを宗教的人間だと思っています。宗教的というのは特定の宗派や団体に属するということではありません。目に見えないこの世界の真理を探求したいという思いが強いということです。何か特定の宗派、団体に属することは嫌いです。それは真理から目をそむけ自分を不自由にすることです。真理は、だれかに従うことでもなく、団体に所属することである種の安心関を得ることでもないと思います。そこには、ある種の苦悩を軽減する働きはあると思います。しかし他人の説く真理は、自分にとっての真理ではないと思います。
何が真理であるかは、ただ自らが探求すべきことであると思います。
こうしたことに抵抗のある人も多いと思いますが、そうした人は、ご縁がなかったということで軽くスルーしていただければよろしいかと思います。
私の今までの経験と直観からしまして、唯物論的世界観というものは、全く間違いであると思っています。
古来、神とか霊とか呼ばれているものは確実にこの世界に影響しています。
目に見えないものを対象として観察した結果、気とかプラナとか呼ばれているものだけでなく神とか霊とかもある種の実体であると言う結論にいたりました。
こうしたものを無視して世界を見るならば明らかに私達は、この世界を全体として見ることはできないと思います。
三鷹の○田です(笑
治療の時に伺ったので、早速ブログ書いてみました。
あまり使えないとは思いますけれども・・・。
これからは先生のブログの読者になろうと思います。
よろしくお願いします(^^)v
遠くからいらっしゃっていただいて恐縮です。
まだ本調子では、なさそうでしたのでどうぞご自愛ください。