答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

〈私的〉建設DX〈考〉その11 〜 テセウス・パラドックス

2024年06月30日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

パンドラの箱

ぼくたち公共建設工事を生業にしている者の大元締めは、言わずと知れた国土交通省です。その国交省が「インフラ分野のDX」を推進しているのですから、同業者同士の会話のなかで「建設DX」が話題にのぼることが少なくないのは当然のことでしょう。

しかし、そのなかで、何故だか誰もが触れたがらないところがあることを、はたして皆さんは認識しているでしょうか?
その呼称は各企業で色々さまざまでしょうが、いわゆる総務部門のデジタル化についてが、ぼくたちがDXの話をするときに話題の中心となることは、ほぼないのです。

なんてことを言うと「オレたちゃ技術系だから当然でしょ」という答えが返ってくるのかもしれませんが、それだけでしょうか?
ひょっとしたら、そこがあまりにも旧態依然すぎて、アンタッチャブルなものになっているからなのではないかと、ぼくは推察します。アンタッチャブルと言っても、神聖にして侵すべからずという意味のそれではなく、半ば「どうしようもねえや」という、お手上げの心にもとづいたものとしてのそれです。誤解を恐れずに表現すると、その「時代遅れ」について、とても他人さまに言えたものではないと恥部にも似たような感覚をもっている。そしてそれは、自らの組織が特にそうであって、他所はそうではない。今という時代にそのような「時代遅れ」がそうそう存在するはずもないと思っている。

しかし、最近になって種々聞いてみると、どうもその「時代遅れ」は、全国の中小建設業に共通するものであって、どこかの誰かやどこかの組織だけのものではないようです。なのですが、それに関する情報やつながりは極端に少なく、だからこそ自分のところが特別だと錯覚し、皆が劣っている(と思い込んでいる)自分を隠そうとする。だから触れたがらない。自らが「技術」という分野で先端を志向する者であればあるほど、また、それへの自信が強ければ強いほど、その意識は強いのかもしれません。

とはいえ、デジタル・トランスフォーメーションが「デジタルテクノロジーを活用して仕事のやり方や企業文化を変えていこう」とする試みの結果としてあるのであれば、総務部門だけが埒外に置かれていてよいはずがありません。いや、むしろそこは企業の足元や根っこ。建設業にとっては、利益や成果や問題課題、よいもわるいもすべてを生み出す「現場」を下支えする重要な存在であるはずです。建設企業は各個人や各現場、各部署が統合してあるものですから、それがDXを志向していこうとするとき、技術系だけがICT活用に邁進する一方で、アナログ上等を放っておいてよいはずがありません。

いやいや「インフラ分野のDX」の文脈からすれば、そこは関係ないでしょ。あくまでもそこは、それぞれの「お家の事情」。どうあろうと勝手になさいよ。

はい。そういう考え方もわからないではありません。しかし、「インフラ分野のDX」を実現しようとするのは各建設企業です。その内部に、デジタル・アンタッチャブルを抱えておいたままでのそれは、あきらかに片翼飛行であり、不完全なものだと言わざるを得ません。

といってもそれは、「現場」で生きるあなたたちが、主体として関わるものではありません。あくまでも主体は経営層であり、そこに携わる職員たちです。
とはいえそれに、「知らぬ顔の半兵衛」を決めこむのもちがうとぼくは思います。規模が大きな会社ならいざ知らず、ぼくやあなたが所属するちいさな組織なら、それに傍観者であることは、デジタル化を通じて「よくなろう」とする自らを否定することに他なりません。

しかし、ここでも事はそれほど単純ではありません。相手はなかなかに手強い。「変わる」ことへの抵抗は、半端なく強い。それが事務系の特性と言ってもよいでしょう。さもありなん、です。なんとなれば、だからこそアンタッチャブルになっているのですから。


とはいえ、ひとは変わります。変わるのが人間という生き物です。人間の細胞は3ヶ月もすれば、それまでとはまったく別のものに入れ替わるとされています。
なのに、多くのひとは変わりたがらない。変わるということに抵抗しようとします。年齢が高くなればなるほど、その仕事をしてきた年月が長くなればなるほど、「変わる」を選択しようとしなくなります。
どうしてなのでしょうか?
いや、ぼくとてそのひとりなのですから、それは理解できなくもない。しかし、その心理がどうあれ、ひとは変わります。変わるのが人間という生き物です。


テセウスの船

「テセウスの船」というパラドックスをご存知でしょうか。
テセウスはギリシャ神話の英雄です。なぜか日本ではメジャーとはいえないのですが、アテナイ建国の偉大な王として有名であり、怪物ミーノタウルス退治など数々の冒険譚の主人公でもあります。
帝政ローマの著述家プルタルコスは、次のように書き記しています。

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

ここでは、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問が投げかけられるとと同時に、その逆として、置き換えられた古い部品を集めて別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船と呼ぶに相応しいかと問いかけています。
 これがテセウス・パラドックス、別名「同一性のパラドックス」。つまり、ある物体を構成するパーツがすべて置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という逆理です。
 
この場合、どちらか一方が完全なる真で、もう一方がまちがいだという断定はできません。だからこそパラドックスとして成立するのですが、多くのひとは、部品がすっかり入れ替わってしまったその船を、「同じ船」だと認定するのではないでしょうか。
なぜならばそこには、構造と情報が変わらずに残っているからです。

これを、一定期間が経過すればすっかり細胞が入れ替わってしまうぼくたち人間の身体に置き換えてみましょう。
人間の場合は考える余地もありません。細胞があたらしいものになったからといって、ちがう存在になったとは誰ひとりとして考えません。
情報、すなわち意識や記憶は連続しており、細胞の容器である身体構造も変わらず残っているからです。

物質的な存在として考えればそれは、あきらかに変化したものであるにもかかわらず、変わらずに連続する情報や構造、この自分が自分であるというアイデンティティー(同一性)が、「変わらない」という錯覚を引き起こし、「変化への抵抗」を生じさせるもととなります。

だってオレは変わらずオレだもの・・・


ゆく河の流れは絶えずして・・・

しかし、残念ながらそれは誤った認識です。
「同じ川に二度と入ることはできない」
ヘラクトレイスの言葉です。川の水は常に流れ、あたらしい水が絶え間なく流れ込むため、次に入ったときには、既に以前の川はどこにも存在しないという意味をあらわしています。
なんてことを、ついついギリシャつながりで書いてしまいましたが、なにも古代ギリシャにその範を求めずとも、本邦古典には、もっとすぐれた表現があります。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

諸行無常の真理を見事に言いあらわした『方丈記』冒頭における鴨長明の名文です。

事ほど左様に、変化は避けられないものであり自然なことです。
なのにひとは、連続して在る自分に執着し、変化に抵抗しようとする。
「変わらない」自分という錯覚が、変化を拒む心理を生み出しているとしたら、まずは「変わる」のが自然なのだと認識することからスタートすることを、ぼくは勧めます。
「変わらない」を前提とするから「変わりたくない」となる。だから少々辛くもなる。しかし、「変わる」を前提とすれば、「変わる」ことへの抵抗は少なくなり、辛さもやわらぐのではないかとぼくは思っています。
「変わらない」自己など、そもそもどこにも存在しないのですから。



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