余録です。
結局のところ、(デジタル化を手段として)「変わりつづける」ことで、「あらたな仕事のやり方」を見つけ(それもまた「変わりつづける」のですけど)、組織の文化を変えていくことが、ぼくの考える(中小建設業の)建設DXなのです。
という締めくくりでこの連投を終えたあと、手にとった本は南直哉『刺さる言葉』でした。
といっても、何の関連もありません。ただの思いつきです。しかも、初読ではありません。二度目です。
思うところあって、初読再読を含め、直哉さんに浸ってみようかと考えていたからです(と思い立ってから3冊読んだあと、ミシマ社の「利他本」を2つ読んでいるのですから、相変わらず移り気ではありますが)。
読み始める、すぐに出会ったのがこんな文章でした。
******「好きでやっている坐禅は凡夫だな。しなければならなくてやっている坐禅も素人だ。するのが当たり前になった坐禅が本物だ」「するのが当たり前になった坐禅」、これこそが生き方にまで練り上げられた坐禅であり、そうなっていくことを修行というのでしょう。習慣を持っている人は強い。その人は生き方の形を持っています。どうしてそれが必要なのか。それは、我々がそもそも、「自分でありたくて」自分なのではなく、「自分でなければならなくて」自分なのでもなく、「自分であることになっている」時、はじめて自分を受け容れられているからだろうと、私は思います。(P.15~16)******
そう。そうなんだよな。と激しくうなずくぼくは、直哉さんが禅道場で修行中に、ある老僧から告げられたというその言葉を、脳内でこんな風に変換していました。
〈変わる〉のが好きなやつは変人です。
しなければならなくてやむを得ず〈変わる〉のは、まあフツーのひとでしょう。
〈変わる〉のが当たり前になったとき、それをして本物と呼びます。
「〈変わる〉のが当たり前になる」、これこそが生き方にまで練り上げられた〈変わるという方法〉であり、そうなっていくことを目指すべきでしょう。
習慣を持っている人は強い。その人は生き方の形を持っているからです。
どうしてそれが必要なのか。それは、ぼくたちがそもそも、「自分でありたくて」自分なのではなく、「自分でなければならなくて」自分なのでもなく、「自分であることになっている」とき、はじめて自分を受け容れられているからです。
だから〈変わる〉を習慣にする。〈変わる〉を形にする。
それをぼくは〈変わるという方法〉と呼びます。
あらま、これでは凡夫よりも素人よりもわるい、いわば盗人ではありませんか。
しかし・・・これほどぼくの今の想いを的確にあらわした表現は、たぶんない。
思わぬ僥倖に、「さてこの偶然を、如何にして必然とせむ」と思案するぼくなのでした。