答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

〈私的〉建設DX〈考〉その12 〜 結(のようなもの)

2024年07月03日 | 〈私的〉建設DX〈考〉

引き裂かれた自己と向き合う

あらためてことわっておきますが、ぼくは、デジタル化をすればそれですべてが上手く行くなどという、能天気な考えの持ち主ではないし、デジタル化の行く末にあるのがバラ色の未来だとも思っていません。心の底を吐露するならば、むしろ懐疑的な想いのほうが強い。
しかしぼくは、こと土木という仕事においてはデジタルに賭けてみようと思い、それを実践するという道を選びました。
であれば、そこにおいてのぼく自身は、引き裂かれた己と向き合うことを余儀なくされてしまいます。

とはいえぼくという人間は、それがデジタルであるかないかにかかわらず、テクノロジーというやつを全肯定できない心持ちを常に自らのなかに抱えながら土木「工学」と向き合ってきました。土木には、「工学」としての側面とそれだけでは測ることができない部分とがあるというのが、土木屋としてのぼくのスタンスです。
ですから、マシンやツールやテクニックやらの、テクノロジーにばかり目が向いていきがちな同業者の話には、表面上嬉々として付き合ってはいますが、心のなかではこう思うのです。

「つまんねえなあ」と。

つまり、DXうんぬんの前に、ぼくは引き裂かれた自己と向き合い、その内なる葛藤と付き合ってきました。そういう意味では、今さら・・・ではあるのです。


初期設定は「変わる」

その個人的事情のみを尊重すれば、はたして今回ぼくが考察してきたような、DXへ向かうことを前提に組織がよくなろうとすることがよいのかわるいのか。たとえ世の流れがそこに向かって流れているにせよ、それを全面的に是とすることには少しばかり抵抗があるのも事実です。そもそも、変えなくてよいものまで変える必要はないのですし、変えてはならないものをもちつづけるというマインドは、個人としても組織としても大切なことです。

ただ、何度も繰り返しますが、世の中の初期設定は「変わる」なのです。そしてそれは、どこまで行っても変わらない。変えようとしても変えようがない初期設定なのです。

とはいえ一人ひとりの人間にとっての「変わる」は、その理とはまた別のところにあります。それが厄介なことなのか、だから人間というやつはおもしろいのか、その判断はそれぞれにお任せするとして、世の中の諸行が無常であろうとなかろうと、少なくない人たちは「変わる」を怖れ、「変わる」を拒み、「変わる」に抗う。

渡る世間は偶然に満ちあふれています。「DXに至る3つのプロセス」として挙げた、メタモルフォーゼ、コペ転、ラテラル思考のいずれの例も、ひょっとすれば結果論としての大成功なのであって、端から企図したものではなかったのかもしれません(テクノロジーの進化ではフツーにあることです)。

いや、それらの成果を貶めるつもりは毛頭ありません。しかし、もともとの設計どおり、当初の計画どおりに進むプロジェクトなどはひとつとしてないのです。
綿密に計画し、大胆に実行し、詳細に検討して修正し、また実行する、という繰り返しのなかで、たまさか見つけた偶然をその後に活かす。大切なのは、そこに主体的な関与があるかどうかです。なければその「玉」と成り得るかもしれない偶然は、そこらに転がっている何の変哲もない「石」としか認識されないでしょう。であれば当然の帰結として、その偶然に潜んでいるヒントやパワーが活かされることはなく、進化への必然に昇華する途は閉ざされ、すぐに見向きもされない存在となるでしょう。いや、そもそもその存在にすら気づかない人たちが多いのかもしれません。


「変わる」を意識し「変わる」を模索しつづける

ここで映画『山猫』でマルチェロ・マストロヤンニが言った「変わらずに生き残るには変わらなければいけない」という言葉が意味をもってきます。
それは、「変わる」を意識するということです。
まずは、人間は「変わる」ものだという認識をもちつつ、一方で「変わる」ことに対する心理的抵抗があるのもまた当然のことだと理解する。
だからこそ、「変わらずに生き残るには変わらなければいけない」。そう自戒しながら「変わる」を模索しつづける。
そして、「変わりつづける」が習い性となるまでそれを繰り返す。

ここで重要なポイントは、その「変わる」が組織や個人の内側から起動しなければならないということです。
経産省や国交省や各自治体がどう言おうと、そして彼らの企図するものがなんであろうと、正解は「おかみ」が与えてくれるものではありません。
たしかに、上や外から否応なしにかけられる圧力は変化への近道ですし、そこに乗っかっておきさえすれば、表面上の変化は達成できます(それさえ拒むのであれば論外です。他産業ならいざ知らず、こと公共建設工事をなりわいとするならば、「おかみ」の意向を無視するのは自殺行為です。ちょっと哀しくはあるけれど)。しかし、それではいつまで経ってもどこまで行っても、本質的なところで仕事のやり方を変えることはできません。主体的な「変わる」を身につけていない変化は、真の意味での「変わる」ではないし、何よりそれは、たのしくないことこの上ない。

繰り返しますが、「変わりつづける」ことから「あらたな仕事のやり方」を模索し、それを我がものとするのが目的です。そこにおいて「あたらしい技術」はツールであり手段でしかありません。それが基本です。
しかし、今に生きるぼくや、今からを生きるあなたが、デジタルを無視して社会や仕事を営むことなど、到底できるはずがありません。であれば、その先のトランスフォーメーションを目指して徹頭徹尾思い切りデジタルを活用し、「変わる」を模索しつづけるしかないではないかとぼくは思うのです。


お終い

そうそう、近ごろのぼくは、いっときサッパリ読む気が起こらなかった本を、また読めるようになりました。なんだったらたのしくてたまらない。
そのキッカケは、ここ数年ほぼ一辺倒だった電子書籍ではなく、「紙」の本が与えてくれたものでした。以来、「紙」「紙」「紙」です。
なんとなくではあります。意図してそうなったものではありません。

たぶんそうやって、デジタルにまみれた自分と、アナログで生きてきた自分との平衡を内側から保とうとしているのでしょう。
デジタルネイティブの若者や少年少女はともかく、デジタル化など少年漫画雑誌のなかの夢物語でしかなかった時代に少年だったぼくには、やはりどこかにデジタルとは相容れない部分が残っています。
それが、引き裂かれた今のぼくをかたちづくっているひとつの要因です。もちろんもうひとつは、主体的にデジタルたらんとしてきた自分です。どちらも紛うことなきぼく自身です。
その繰り返しが習い性となったころ、個人や組織の仕事のやり方が変わっている。たぶん、地方のちいさな建設会社のDXなどというのは、そのようなものなのではないかと思うのです。

(お終い)


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