答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

一に止まる

2024年06月05日 | ちょっと考えたこと
「正」という字は
「一」に「止まる」と書く。

この場合の「一」は、何かを「正しい」と思うぼくやアナタの「正」である。

己が言を正論だと信じて述べるのはよい。そうでなければ自信をもって発言することはできないのだもの、そうすることになんら不都合はない。
だが、そこに「止まる」のはよくない。

なぜならば、「正」が未来永劫まで「正」のままいるとは限らないからだ。
あしたのアナタやぼくは、今日のぼくやアナタではないかもしれないように、ぼくたちが置かれている状況もまた同じではないかもしれない。いや、人の世のみならず、地球上に生きとし生けるもののすべてが諸行無常に万物流転だ。だとしたら、そもそも同じだと捉えること自体に無理がある。

であるにもかかわらず、その「一」に「止まっている」としたら、いったんは信じた「正」が正しくなくなってしまったとき、それを感知することができない。

もうひとつ。
「止まる」がよくないのは、それが執着する心のあらわれであるからだ。信じたものに執着してしまえば、その変化を感じ取ることができないという意味で、「止まる」はよくない。

そして、アナタやぼくが信じたその「正しい」が、ひょっとしたら「正しくない」のではないか、という疑いも、心の片隅でよいから、常に置いておくべきだろう。「正しい」を疑わないという思考は、「一」に執着するだけではなく、さらに「一」に「止まった」状態にも居着いてしまうことになるのだから、なおさらのことよろしくない。

もっとも、発信者が「正しい」と信ずる言説であればあるほど、受け手の心に届く確度は高くなる。それを端から疑ってかかるなどすれば、自ずからその発言がもったであろうパワーを削いでしまうことになりかねない。それは宗教者、特に一神教がもつ説得力を思い起こしてみれば誰しも合点がいくこと。それならば、ひとに何かを指し標し、どこかに導こうとする人間、また、そこに自らを立たせることを選んだ人間は、内に生じた疑心や迷いやをあからさまにするべきではない、というのが、いわゆる一般的なものの見方だろうとは思う。

だが、それを踏まえてなお、ぼくは「一」に「止まりつづけない」を是とし、己の「正しい」を疑い、それに執着しないでおくのを旨としたい。


以上、立てつづけに南直哉本を読み、すっかりジキラーとなってしまった(ちなみに直哉は「なおや」ではなく「じきさい」と読みます)単純かつ乗せられやすいじっちゃんが、徒然なるままに綴った独り言である。

コメント
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