「継続は力なり」と言います。
例によって、ある日ふと疑問に思ったのです。「はて、何がちからなのだろうか」と。
1.継続するという行為が「力」を生み出すから「継続は力なり」なのか。
2.「力」がなければ継続することができないから「継続は力なり」なのか。
いったいどちらなのだろうかと。
今さらではあるのです。そして、そんなことも知らずに使っていたのかオマエは、と笑われそうです。
もちろんぼくとて、闇雲に使っていたわけではないのですが、「ではあらためて」と検索してみたのです。
正解は、みなさんご存知のとおり、一般的には1です。ぼくの考えもまた同じでした。
たしかにそれは、まちがいではありません。
とにかく「つづける」。そうすることによって、結果がついてくる場合は、たしかに数多くありますし、ぼくもまた、身をもってそれを体験してきました。「身をもって体験」したのは、継続によって得られるプラスの面ばかりではありません。つづけることができなかったゆえに成果があがらなかったこと、また、己の力として身につかなかったことも数多くあります。いや、量的なものを比較すれば、後者の方が圧倒的に多いでしょう。一つひとつをカウントして比べる必要もないほどの差があるはずです。
思うに、1と2はセットとして存在するのでしょう。
継続するのがフツーで当たり前のことならば、わざわざ「継続は力なり」などという言葉を引っ張り出してきて、それを強調する必要などありません。
多くの人は、やり始めたことを継続できない。やり始めたことの多くは継続されることなく消えてしまう。だからこそ、あえて「継続は力なり」と言い聞かせるわけです。
そういうぼくも、何事につけても「つづける」ことができない人間だったので、エラそうに言えた義理ではありません。
やればできる。
長いあいだぼくは、そう信じていました。そして自らを「やればできる子」だと評価していました。
しかし、それがいつごろだったのかは忘れましたが、あるとき気づいたのです。
やれないからできない。
それは、それまでに繰り返した幾多の失敗や挫折から導き出した結論でした。仮に「やればできる」だけの能力が自らに備わっていたとしても、肝心要の「やる」を実行する能力がない。一応「やってはみる」ものの、それを「つづける能力」、つまり「継続する力」がない。ゆえに成果があがらない。たまさか打ち上げ花火のような成果があがったとしても、それがつづかない。この場合の能力とは、「もって生まれた才能やちから」です。その根本的な欠陥に気づいたとき、ぼくは、「やればできる」という自己評価を放棄しました。
根気がないというか粘りがないというか。とにかく、何をやらせても「つづかない」。少年時代から、そんな自分を引きずってきたぼくですが、それでも「やればできる」と信じこんでいた。そんなぼくにとってそれは、自身を裁断するようなことではあったのですが、今から思えば、マトモな人間への第一歩だったといえるかもしれません。
ところが、人生も半分以上過ぎたあたりで、あるときあることについて幾ばくかの成果があがりました。本当のところは、単に「ような気がしただけ」なのかもしれませんが、いずれにしてもそんな例がいくつかあった。その結果は、そのあることを、ナントカカントカ、というかどうにかこうにかというか、兎にも角にも継続してきたゆえの結果だと思い当たった。そこにおいて、「継続する力」は、けっして(生まれついて備わった)能力などではないということに気づきます。そして、それまでどこか他人事だった「継続は力なり」という言葉が、自分事として響きました。
たぶんその起点は、「やればできる」という幻想を放棄し、自己評価を「やる」が「できない」に変更したポイントにあるのでしょう。そして、これまたたぶんですが、それでもしつこく「やる」を繰り返し、「つづける」を試みつづけたのが、結果的に「継続する力」を養うこととなりました。
その結果を想定し、意図してそうしたのだと言えばじつに格好がよいのですが、内実は後づけの結果論にしかすぎず、ただひとつだけ確実に言えるのは、「足掻いた」という一点のみです。
とはいえぼくの現実は、それによって根本的な欠陥が克服されたとはお世辞にも言えません。どころか、本質的な部分では一向に変わっていないと言っても差し支えないのが有り体なところで、いくらぼくがその存在をなかったことにしようと目論んでも、隙あらばまた乗っ取ってしまおうと虎視眈々と機会を狙っている別のぼくが存在しています。
それに、ひと口に「つづける」とは言いますが、ただ継続するだけで成果があがるのなら誰も苦労はしません。そこには、意地や意志、義務感や責任感、たのしさやおもしろさ、などなど色んな要素が絡み合って存在しているはずです。
「継続は力なり」と言います。
1.継続するという行為が「力」を生み出すから「継続は力なり」なのか。
2.「力」がなければ継続することができないから「継続は力なり」なのか。
思うに、1と2はセットとして存在するのでしょうが、どちらにしても、継続するのがフツーで当たり前のことならば、わざわざ「継続は力なり」などという言葉を引っ張り出してきて、それを強調する必要などありません。
多くの人は、やり始めたことを継続できない。やり始めたことの多くは継続されることなく消えてしまう。だからこそ、あえて「継続は力なり」と言い聞かせます。
そういうぼくも、何事につけても「つづける」ことができない人間でした。いえいえ過去形ではない。今もそうです。ですから、エラそうに言えた義理ではありません。なので、あらためて現在のぼくの思うところを記してみました。
とはいえ、同じことを「つづけることがすべて」ではありません。きのうまでの正解があしたからもそうだとは限らない。それもこれも含めて「つづける」。それがぼくの「継続は力なり」なのですよね、たぶん。