散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ルカの記す山上の変容

2018-09-09 20:54:26 | 日記

2018年9月9日(日)

 JCはルカ9:28-36、いわゆる「山上の変容」。マタイ・マルコに並行箇所があるので、比較対照ということを少しだけやってみた(⇒ 末尾)。ルカが何を省略し何を加筆したか、たどっていくと面白い。

 たとえば青の網掛けはルカにはない表現である。マルコの「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど」は同書らしい素朴な語り口だが、当時は(現在も?)布を染める以上に純白に晒すことが難しく、常ならぬ白さが神性の象徴であったことが思われる。

 緑は三者すべてにある「弟子たちが恐れた」の表現だが、どのタイミングで何を恐れたかは三者三様である。マタイでは神の言葉を聞いてひれ伏し恐れた。マルコでは変容そのものを非常に恐れており、その結果ペトロが意味不明の「仮小屋」発言をする。ルカではイエス・モーセ・エリヤが雲に包まれていく(=神の顕現)のが恐れを呼び、「仮小屋」発言はその前である。

 橙はルカが加えたもので、鼎談(?)のテーマが来るべき受難であることは、この場の直前にイエスの最初の受難予告が置かれていることと照応し、ルカらしい叙述の一貫性を感じさせる。面白いのは「眠気」のことで、新共同訳では「ひどく眠かったが、じっとこらえた」とあるところ、口語訳は「熟睡していたが、目をさますと」とする。βεβαρημενοι υπνω をどう訳すかということで、諸訳は「こらえた」説が優勢のようだけれども、「熟睡」説の大きな魅力はゲッセマネの風景との相似性である。主の受難が現実のものとして迫る時、弟子たちの肉体の弱さは起きていることさえ許さなかった。

 はっと目覚めて栄光に目くらんだペトロの「仮小屋」発言は、ルカの文脈ではまるで寝ぼけているような可笑しみを伴っている。

 末尾に「当時」を付記するのもルカらしい。「当時」は話さなかったが後には話した。いつ話したのかと言えば、主の受難と復活の後であろう。論より証拠を見ないことには、話して伝えられるところを超えたできごとである。証拠を見た後には、何度も繰り返して語ったに違いない。

(聖カタリナ修道院のモザイクイコン)

Ω

 

マタ 17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

マタ 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

マタ 17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

マタ 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

マタ 17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。

マタ 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた

マタ 17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

マタ 17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

マタ 17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

マタ 17:10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

マタ 17:11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。

マタ 17:12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」

マタ 17:13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

***

マコ 9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

マコ 9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

マコ 9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

マコ 9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

マコ 9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

マコ 9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

マコ 9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

マコ 9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

マコ 9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

マコ 9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

マコ 9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。

マコ 9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

***

ルカ 9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

ルカ 9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。

ルカ 9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。

ルカ 9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

ルカ 9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。

ルカ 9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。

ルカ 9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた

ルカ 9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。

ルカ 9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。


不平等即平等

2018-09-09 11:17:19 | 日記

2018年9月9日(日)

 KS君と天ぷらを食べた件の末尾:

 帰り際、銅(あかがね)製の調理器具のまばゆい輝きに目を細くしていると、頭上にかかった大きな額にKS君が目を留めた。

 「ほう」

 と唸ったのには訳がある。この件、項を改める。
(https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/7e7d12a4c77a3e967892857e53dc1b03)

***

 すぐに続けるつもりで2週間近く経ったのは、件の額を撮影させてもらってからと考え、それが少々手間どったためである。こちらがそれ。

 渋沢栄一は天保11(1840)年 ~ 昭和6(1931)年、従って満87歳夏の揮毫である。まさしく墨痕淋漓、見事というほかない。

 御主人によれば、当時渋沢翁がこの店を客として訪れた後に贈呈されたものとのこと。その後の空襲を生き延び、店の宝として大切にされてきたものか。贈った人、贈られた人の通い合う心が眩しい。

 この仔細は再訪の時に教わったもので、KS君と並んで見あげた当夜には、彼は記す筆の見事さ、僕は記された言葉の不思議さに、おのおの囚われていた。ちょうど『論語と算盤』を読み*、「士魂商才」に感じ入っていたところ。「不平等即平等」は仏教由来の言葉とあり、論語を至上とする翁が晩年に至って、どのような境地でこれを選んだものか。いわゆる「平等」は士魂商才の立場からも重要な概念だから、ゆめ軽く扱ったはずはないのである。

 「皆さん、いろんな解釈を述べて行かれますよ」

 と御主人。

 とりあえず、分からないものは分からないまま抱えておくとしよう。御礼代わりにお店の URL 。

 魚ふじ http://www.uo-fuji.com/pc/access_map.html

 歴史の古さや心意気をことさら喧伝する記載はweb上にはないが、訪れてみれば自ずとわかる。

Ω

*(2018-07-16『西郷どん二題』https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/e9d4ddb1c7918b150aab8cac5098c5db)

 


コメント感謝/ミルクワンタンと地元発電

2018-09-08 14:34:57 | 日記

2018年9月7日(金)

・コメント「目あては一つ」 ~ 被爆二世さんより

 被爆地蔵さまのお身体がない痛々しさと共に、柔和なお顔を拝見して優しい気持ちになりました。

 このお地蔵さまのお顔の部分が爆風にも耐え、ここに鎮座されている意味を考えました。

 このお地蔵さまの頭の部分が無事で、それを救ってくださった方がおられ、それを知った議員さんから石丸先生に伝わりました。そして、このお寺の一隅を貸したお寺のご住職と借りた牧師の存在を知りました。時代を超え、多くの方々の共感の連鎖に感謝します。

 私たち人間は、争いによって、傷つけ合った過去があるからこそ、その辛さにも共感するのだと思います。共感の大切さを再認識すると共に、人々の心の平和を願います。

***

 台風21号の次は北海道の地震。申し訳ないなと思いながらО君と有楽町へ。おじさんがめっきり痩せていて「夏バテ」とおっしゃる。О君も学生時代から夏に強かったが、今の夏は昔の夏と違うもんなぁと言い交わしている。確かに松山郊外で夏を過ごして、夜のエアコンが必要だったのは今年が初めてだ。

 北海道で丸一日電力が途絶えたこと、酷暑厳寒のさなかでなかった幸いを喜んだうえは、今後への教訓とせざるべからず。「地元発電ってのは、できないもんかな」とО君。うろ覚えだが、その昔巨大ダムの欠点が問題になった時、これに代わる小型ダムの可能性が論じられたような記憶がある。僕の幻の中では水車小屋みたいなミニ発電所が村々にあり、もちろんそんなのではなかったとしても。

 電力供給だけでなく、社会の枠組みそのものを考え直す必要があるのではないか。前にも書いた気がするが、動物の神経系に中枢集中型と末梢分散型がある(用語は不正確かもしれない)。ヒトを含む脊椎動物は前者、昆虫など節足動物や環形動物は後者、後者は「ハシゴ型」などとも称され、体節毎に存在する神経節がかなり大きな機能を果たしている。

(wikipedia)

 それぞれ得失のあることで、前者は全体の効率が良くサイズとしても巨大化できるが、中枢がダメージを受けたら全体が麻痺する。今の都市は極端な中枢優位に偏しており、その一例が昨今の交通網だ。埼玉から神奈川まで一本で行けるのは甚だ便利だが、埼玉で事故があると神奈川でも電車が止まる。小さな事故や安全確認は全体としてはかなりの頻度で起きるから、結果的にダイヤ遅れがどこでも常態となり、一本化のプラスを帳消しにしかねない勢いである。逆に分節されていると乗換の不便が生じるものの、遅延の混乱を分節内に限局する意味がある。О君の「地元発電」論もこのことに関わっており、この線を追っていくならすべてのインフラを巻き込み、社会そのもののあり方の再検討につながっていくに違いない。

 ふと、沖縄の発電はどうなっているのだろうかと考えた。О君、少し考えて

 「火力、だろうな、たぶん。」

 少考の間に何を思い巡らしたかは、分かる気がする。帰って調べてみたら火力で正解。ついでに目を見張ったのは、それぞれの島ごとに自立分散型の電力供給体制ができあがっているらしいことである。まさしく地元発電、ブラボーだ。

http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1303/26/news011.html

 一方で沖縄の電力事情の最大の問題は、火力への依存度が99%に上ることである。環境面からも国際的自立の観点からもこの点の改善が至上命題で、風力・太陽光やサトウキビなどバイオマスの活用が急がれる由(註、「原発」ではない!)。

 そうそう、久米島では海洋温度差発電が世界初の実用化へ向けて実証実験中なのだった。こちら必見 。⇒(http://otecokinawa.com/)

 「自立分散」と「再生可能エネルギー」の双方を充たす日が来たら、沖縄は国内はもとより、世界のエネルギー供給のモデル地区になることだろう。そうなれば残る問題は一つだけだが、こいつが難物である。

Ω


もとい、傑作かも!

2018-09-06 09:36:02 | 日記

2018年9月6日(木)

 Y君:

 三上 ~ 馬上・枕上・厠上などと言うようですが、僕の場合はもうひとつ、朝の髭剃り・歯みがき中に思いつくことがよくあります。厠上のバリエかもしれませんが。

 二晩越しの不快感を反芻しながら髭を剃ってて、ふと思い当たりました。和やかな日常から突然理由もなく引き出され、意味不明の暴力の中に強制的に投げ入れられること、全体のストーリーをそのように要約するなら、それが何に似ているかは一目瞭然ですね。

 戦争、です。

 少し詳しく言うなら、当事者らが熟慮の末に余儀ないものとして決断し、かつ決断した者とリスクを負う者がほぼ同一であるような戦争 〜 窮乏農民の一揆といったもの、ややオマケしてアメリカ独立戦争? 〜 ではなく、先の世代が始めておきながら、自分では提供できない生命力と健康(= 暴力に変換し得るエネルギー)の供給源として若者を動員し、これらの若者が不承認を抱えつつ容赦なく命を奪われていくような戦争 〜 例示は無用 〜 のことです。

 そのような暴力の場に否応なく引きずりこまれる若者を想定する時、作品は一転して巧妙に組み立てられたものと見えてきました。

 彼らの日常生活と暴力儀式の間にはまったく連続性がなく、予兆はあっても予測することはできません。それは既に始められ、始まってしまったという理由で正当化される戦争と酷似しています。なぜかわからないが事実そこに存在し、圧倒的な確かさをもって人を食いつくす組織的な暴力の場です。

 抽象的な巨大国家と矮小化された個人との懸隔は絶望的なほど大きく、ほとんど何の連関も見出すことができないのに、その両極を「徴兵制」という最高度の強制力をもった制度が架橋します。実際、これに比べ得る強制性は「徴税」ぐらいのもので、まことに最大最強の泥棒は国家であり、最大最強の人殺しも国家なのですね。主人公らが橋を渡って ~ 渡らされてその場に赴くことは実に象徴的で、越えつつあるのが river of no return であると分かっていながら、前も後ろも固められて選択の余地がありません。「敵」を殺さないならば、「味方」に殺されるでしょう。

 伯父は、そのような暴力の犠牲にされた若者の一人でした。あの若者たちが投げ込まれた暴力の場に、何らかの意味が付与されていたと思いますか?意味があったように見えもするでしょう。ありすぎるほどの意味が知らされ、刷り込まれていたのは事実です。しかしそれは今となってみれば、嘘と傍観と責任転嫁と成り行き任せの上に築かれたまやかしであったことが明白なのですし、何より若者たちはそのまやかしを受け容れるほかなかった、同意も承認も求められてすらおらず、ただ従順に命を差し出すことだけが求められたのでした。意味などありはしないからこそ、イヤというほど意味が鼓吹されたのです。

 だから評価をあらためます。

 この作品は楽しくありません。美しくもなく、愛おしくもなく、吐き気を催させるもので、吐き気しか催させないものです。それにもかかわらず、それだからこそ、成功しているのかもしれません。暴力性の告発は中途半端であってはならない、残酷であるがゆえに美しく見えるようなものであってはならないからです。度し難い不快さのゆえに、その分だけこの作品は傑作なのかもしれません。

 ただ、それが文学のあり方としてどうなのか、そこが僕には分からないし、その意味でやっぱり僕には文学が分からないことになるのでした。

***

 いくつか付記します。

 先にも書いた通り、この作品には女の子が事実上登場しません。晃の稔に対する暴力の履歴を主人公に耳打ちする同級生があるだけで、事実上女子が不在です。偏っているようですが、これは作品全体が戦争のメタファーであるなら、至って自然なことです。もっとも日常の場面には、もう少し日常的な女の子の姿があってもよさそうですけれども。

 この作品のネット評は見事に二分されていますが、高評価の中に「暴力を描くのがうまい」「少年たちの危険なゲームの描写が面白い」といったものがありました。これらは僕の観点からは作品がなお完全には成功していないことを示すものですが、無視することはできません。

 水曜日の帰りの電車の中で、前に立つ二人の青年の会話に眠気を飛ばされました。

 「殺し方が案外難しいんだけどね、2,3人殺すと少しわかってきて」

 「断末魔と思って気を緩めると逃げられるでしょう、声をあげさせないように、確実に息の根を止めないと」

 新しく入手したゲームの話らしいのですが、嬉々とした口調とどぎつい内容が周りにどう見えるか聞こえるかなど、もちろん気にはしていない。この人々がこの作品を読んだとして、どんな反応を示すかが、知りたくもあり知りたくもなしです。

 同床異夢という言葉はよくできており、いくつかの方向から使用可能ですね。同床のものが同じ夢を見ているとは限らない、というのは穏やかな用法ですが、異夢にも関わらず同床を強いられるつらさとなると、インパクトもかなり強烈です。

 「農民」云々は、やはり作家の意図がよくわからずにいます。その前後に出てくる「マストン」という謎のシンボルの使い方の巧妙さを見ても、ただの韜晦とは思いにくいのですけれどね。

 なお、この作家には『指の骨』という話題のデビュー作があり、これを石原慎太郎氏が「『野火』『俘虜記』(ともに大岡昇平)に匹敵する戦争文学」と称賛しているようなのです。石原氏が大岡作品を評価すること自体、少々意外でしたが、このあたりも僕には文学がわかっていない証拠なのでしょう。それはさておき、1979年生まれのこの作家は一貫して戦争について書いている、という推測もあり得るところです。

 『指の骨』、読んでみなければなりません。

Ω

 


借りた本の率直な感想

2018-09-04 22:47:58 | 日記

2018年9月4日(火)

 Y君:

 本を貸してくれてありがとう。

 通りかかって「どう?」と聞いた時は、ちょうど読み終えるところだったのですよね。すぐには答えずきちんと最後の行まで追い終えると、君は珍しく吐き捨てるような調子で感想(?)を口にしました。その最初だったか最後だったかが「俺には文学はわからん」という忌々しげな言葉でした。

 それを聞いて僕はひとつ読んでみたいと思ったのでした。

 大きな賞の受賞作は、すぐには読まない、あるいは読めないのが僕の常ですが、君をそこまで否定的な気もちにさせたものなら、いっそ覗いてみたいと天邪鬼が囁いたのです。

 読み終えて、おそらくはあの時の君とよく似た気もちを抱きました。これが優れた文学だというなら、僕には文学はわからない。ただ、少しだけ注釈を付けておきたい気がします。

***

 台風21号の強風で電車が軒並み遅延する中、復路にかかった早々読み終えた瞬間には、この作品には何一つ取るところがないと思いました。

 のどかで美しい北東北の描写は、それが酸鼻を極める結末の背景なり伏線なりに使われることによって、その絶対値分だけ大きなマイナスにしか感じられません。

 主人公は転勤族の息子で遠方から東北の学校へ転校してきたところですが、君は覚えているかどうか、この設定は僕にとって何重にも懐かしいものなのです。かつて僕自身がそのようなものであり、「風の又三郎」の主人公がそのようなものでした。わずか一年で転出した後にある人からもらった手紙の中で、光栄にも又三郎になぞらえて追慕されたことがありましたっけ。どどっこどうどう、どどっこどう・・・

 その後の作中で描かれる自然の美しさ、人々の話す言葉 〜 東北は広く深く、僕の知る福島や山形と青森とでは相当の違いがあるとはいえ、それでも語彙と発音の基本において充分懐かしい。自身を「わ」、相手を「な」と呼ぶところなど、日本語の祖型を窺わせるようではありませんか。節分に鬼を追わない習俗、納屋に置かれた農具の豊かな沈黙、しかし、よく磨かれたそれらの小道具の全てが末尾での反転暗転に寄与するという胸の悪さ。文字通り何一つ取るものがない。

 少し時間が経って、ふと違う考えが浮かびました。現代という時代の一断面を示すものとしてなら、この作品には実は大きな資料価値があるのではないでしょうか。

 主人公が属した男女6名ずつの教室風景は、又三郎を迎えたそれと重なるようでもありますが、決定的な違いは次年度の廃校・統合が決まっていることです。床磨きに楽しさを見出す主人公に、晃は言います。

 「そんな一生懸命に磨いても、意味ねじゃ。どせ来年には、ぜんぶ剥がされんだ。」

 読み進める間、生き物とりわけ動物の描写のむやみに多い ~ 多すぎることが気になっていました。吊るされた鴉の屍骸、滅びをもたらす「ろくむし」、羽化に失敗して死ぬ蝉など、生よりも死、創造よりも破壊が基調のようだけれど、何しろ多すぎる、多すぎる中で最も印象に残るのは硫酸で焼き殺されたバッタのイメージ、この凄惨こそ真の通奏低音であることを、読み手は次第に感じとる仕掛けでしょうか。してみると多すぎるのも計算のうち、質に寄与しない無意味な生命の無意味な大量?

 そして問題の暴力、末尾の20ページで突然、否むしろ満を持して全開となる酸鼻を極めた暴力の場面、それは君の吐き捨てた通り「意味がわからない」もののようですけれど、カギともいえない奇妙なカギがあるにはあるのです。

 「旱魃も水害も蟲害もない。もう飢饉は起こらない。減反なんて言っても補助金は出る。すると農民は、次に何を求めると思うね?」

 「はい?」

 「白飯と娯楽をよこせってね。」

 いわば暴力儀式の開始の号砲で、農民も舐められ貶められたものですが、これが文字通りの農民ではなく「福祉ボケ・平和ボケ」した僕ら都会人の風刺であるとしたらどうか。その少し前に少年たちがダムの水没集落について不謹慎な皮肉を放つのも同型のようです。総じて大人どもが過熟の末に腐っていくこの時代、見かけの潤沢の陰で若者や少年の攻撃性は発散昇華する宛てがなく、先がまったく見えてこない、とどのつまりは「伝統」の見せかけのもとに陰惨きわまる自爆を遂げるしかないのだと、そう読んだらどうでしょうか。

 そう言えばこの物語には、ごく脇役的な形でしか女の子が登場しません。日本の男の子が元気をなくしていると指摘されて久しいのですが、そうした今日の男子らの病理報告としてなら、実は大いに価値があるのではないかというのです。しかし、そんなことは社会学者の関心事であって小説を楽しむ者の知ったことではない、価値があろうがなかろうが、面白くない、楽しくない、美しくない、愛おしくない、繰り返し読みたいと思わない、君と僕の鬱憤は要するにそういうことでしょう。

 それだけに首をかしげるのは、日頃尊敬する複数の作家の口からこの作品への讃辞が語られていることです。その錚々たる顔ぶれを見ていると、ひょっとして君や僕が読み落としている何か大事なものがあるのかもしれないと心配になります。分かっちゃいないのはこちらではないか。

 それならばいずれ、頭の良い誰かがきっと分からせてくれるでしょう。僕ら愚鈍な者たちにも、感想を述べる自由は保障されているのが現代という時代のありがたさです。その至高の権利を頼みにして、さしあたりこう言っておくことにしましょう。

 どこが良いのかまったくわからない、芥川賞も落ちたものだ、と。

 旅の安全を祈ります。

Ω