散日拾遺

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もとい、傑作かも!

2018-09-06 09:36:02 | 日記

2018年9月6日(木)

 Y君:

 三上 ~ 馬上・枕上・厠上などと言うようですが、僕の場合はもうひとつ、朝の髭剃り・歯みがき中に思いつくことがよくあります。厠上のバリエかもしれませんが。

 二晩越しの不快感を反芻しながら髭を剃ってて、ふと思い当たりました。和やかな日常から突然理由もなく引き出され、意味不明の暴力の中に強制的に投げ入れられること、全体のストーリーをそのように要約するなら、それが何に似ているかは一目瞭然ですね。

 戦争、です。

 少し詳しく言うなら、当事者らが熟慮の末に余儀ないものとして決断し、かつ決断した者とリスクを負う者がほぼ同一であるような戦争 〜 窮乏農民の一揆といったもの、ややオマケしてアメリカ独立戦争? 〜 ではなく、先の世代が始めておきながら、自分では提供できない生命力と健康(= 暴力に変換し得るエネルギー)の供給源として若者を動員し、これらの若者が不承認を抱えつつ容赦なく命を奪われていくような戦争 〜 例示は無用 〜 のことです。

 そのような暴力の場に否応なく引きずりこまれる若者を想定する時、作品は一転して巧妙に組み立てられたものと見えてきました。

 彼らの日常生活と暴力儀式の間にはまったく連続性がなく、予兆はあっても予測することはできません。それは既に始められ、始まってしまったという理由で正当化される戦争と酷似しています。なぜかわからないが事実そこに存在し、圧倒的な確かさをもって人を食いつくす組織的な暴力の場です。

 抽象的な巨大国家と矮小化された個人との懸隔は絶望的なほど大きく、ほとんど何の連関も見出すことができないのに、その両極を「徴兵制」という最高度の強制力をもった制度が架橋します。実際、これに比べ得る強制性は「徴税」ぐらいのもので、まことに最大最強の泥棒は国家であり、最大最強の人殺しも国家なのですね。主人公らが橋を渡って ~ 渡らされてその場に赴くことは実に象徴的で、越えつつあるのが river of no return であると分かっていながら、前も後ろも固められて選択の余地がありません。「敵」を殺さないならば、「味方」に殺されるでしょう。

 伯父は、そのような暴力の犠牲にされた若者の一人でした。あの若者たちが投げ込まれた暴力の場に、何らかの意味が付与されていたと思いますか?意味があったように見えもするでしょう。ありすぎるほどの意味が知らされ、刷り込まれていたのは事実です。しかしそれは今となってみれば、嘘と傍観と責任転嫁と成り行き任せの上に築かれたまやかしであったことが明白なのですし、何より若者たちはそのまやかしを受け容れるほかなかった、同意も承認も求められてすらおらず、ただ従順に命を差し出すことだけが求められたのでした。意味などありはしないからこそ、イヤというほど意味が鼓吹されたのです。

 だから評価をあらためます。

 この作品は楽しくありません。美しくもなく、愛おしくもなく、吐き気を催させるもので、吐き気しか催させないものです。それにもかかわらず、それだからこそ、成功しているのかもしれません。暴力性の告発は中途半端であってはならない、残酷であるがゆえに美しく見えるようなものであってはならないからです。度し難い不快さのゆえに、その分だけこの作品は傑作なのかもしれません。

 ただ、それが文学のあり方としてどうなのか、そこが僕には分からないし、その意味でやっぱり僕には文学が分からないことになるのでした。

***

 いくつか付記します。

 先にも書いた通り、この作品には女の子が事実上登場しません。晃の稔に対する暴力の履歴を主人公に耳打ちする同級生があるだけで、事実上女子が不在です。偏っているようですが、これは作品全体が戦争のメタファーであるなら、至って自然なことです。もっとも日常の場面には、もう少し日常的な女の子の姿があってもよさそうですけれども。

 この作品のネット評は見事に二分されていますが、高評価の中に「暴力を描くのがうまい」「少年たちの危険なゲームの描写が面白い」といったものがありました。これらは僕の観点からは作品がなお完全には成功していないことを示すものですが、無視することはできません。

 水曜日の帰りの電車の中で、前に立つ二人の青年の会話に眠気を飛ばされました。

 「殺し方が案外難しいんだけどね、2,3人殺すと少しわかってきて」

 「断末魔と思って気を緩めると逃げられるでしょう、声をあげさせないように、確実に息の根を止めないと」

 新しく入手したゲームの話らしいのですが、嬉々とした口調とどぎつい内容が周りにどう見えるか聞こえるかなど、もちろん気にはしていない。この人々がこの作品を読んだとして、どんな反応を示すかが、知りたくもあり知りたくもなしです。

 同床異夢という言葉はよくできており、いくつかの方向から使用可能ですね。同床のものが同じ夢を見ているとは限らない、というのは穏やかな用法ですが、異夢にも関わらず同床を強いられるつらさとなると、インパクトもかなり強烈です。

 「農民」云々は、やはり作家の意図がよくわからずにいます。その前後に出てくる「マストン」という謎のシンボルの使い方の巧妙さを見ても、ただの韜晦とは思いにくいのですけれどね。

 なお、この作家には『指の骨』という話題のデビュー作があり、これを石原慎太郎氏が「『野火』『俘虜記』(ともに大岡昇平)に匹敵する戦争文学」と称賛しているようなのです。石原氏が大岡作品を評価すること自体、少々意外でしたが、このあたりも僕には文学がわかっていない証拠なのでしょう。それはさておき、1979年生まれのこの作家は一貫して戦争について書いている、という推測もあり得るところです。

 『指の骨』、読んでみなければなりません。

Ω