2018年9月2日(日)
昨日、郵便受けに投げ込まれた区議会議員の広報チラシに、被爆地蔵についての記事があった。
常圓寺の文字を見て驚いたのは、うちの教会から200m足らずの至近にあるお寺だからで、そもそも初代の小川貞昭牧師は1930年代という難しい時代に、このお寺の一隅を借りて開拓伝道を始めたと聞いている。借りた牧師もいい度胸、貸したお寺も大度量だが、その後永続的な協力関係を結ぶには至らなかったようだ。ともかく、その常圓寺に被爆地蔵がおわすというのである。
朝拝からいったん戻って寛いだあと、夕拝の当番に少し早く出てさっそく訪れてみた。バス通りに面した正門からイチョウの巨木を見あげる。日曜午後の境内は人気がなく、戸を閉てた本堂の前を一礼して過ぎ、墓所への入り口を恐る恐る覗くと、すぐ右手にお地蔵さまがいらした。
写真の右手に外れた板書きの説明から要点を転記する。よく見えない部分があり、誤写があったら御容赦。
「このお地蔵さまは、かつて広島市細工町(当時)にお祀りされていた子育て地蔵尊であった。爆心からわずか百メートル余に位置し、爆風で倒れた塀の下敷きになったが、胴体は壊れたもののお顔は無事に残った。目黒区八雲在住の故M氏の御縁により昭和20年代後半から当山にお祀りし、毎年8月6日には被爆物故者を偲んで法要を行っている云々」
奥に手向けられた千羽鶴には近隣の小学校の名前が複数見える。宗教との関りを神経質に嫌う公教育の場でも、さすがにこのことは別であるらしい。しばし合掌の後、夕拝に向かった。
教会への道すがら、共産党のチラシで教わった仏教寺院で、被爆したお地蔵さんを拝む。思い頼むはさまざまなれど、目あては一つなりや、さあれかし。
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