散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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団子釣り

2018-09-25 18:02:42 | 日記

2018年9月25日(火)

 今早朝、職場に向かう車中で面白い風習をラジオで耳にしました。

 君津の辺りに「団子釣り」という風習があるそうです。中秋の名月に団子を作ってお供えしますが、土地の子どもたちは他人の家に忍び入って、団子を盗って食べてしまうのだそうです。

 むろん織り込みずみで、大人たちは数の減った団子を見て「あぁ、お月様が団子を召し上がった!」と話しあうのだそうです。まるで日本版ハロウィーンですね。

 お盆に野菜で馬を作ったり、お月見に団子を備えたり、こんな風習が私の子どもの頃はまだ残っていたものですが・・・

***

 僕より少し年長で新撰組の首魁らと同郷、骨っぽい精神科医TY先生からの来信である。なお、インターネットで「団子釣り」を探しても、チヌ釣りの仕掛けぐらいしか出てこない。

Ω


善太と三平

2018-09-25 17:02:16 | 日記

2018年9月14日(金)~9月25日(火)

 成人に達したものだけを数え、母は9人同胞の第三子で次女にあたる。うち5人が健在ながら、いずれも高齢かつ遠方に散らばり、このたび会えたのは3人だった。葬儀に人が集まり語らうのは故人の遺徳、とりわけもともと竹馬の友であった父の末弟と母の上の弟が、多年を隔てて歓談する姿が嬉しい。僕は果報な子どもで、全ての叔父叔母から可愛がられて育った。

 母方のこの叔父は宇和島で社会科の教員を勤めあげたが、別して母を慕ってきたことと承知している。干支が一回り違い、姉というより母親代わりだったと、そこまではよく聞かされた。ただ、会って話せば新しい話題が必ずある。

 「坪田譲治かな、『善太と三平』というのがあらいね(=あるよね)」

 と叔父。

 「あれを姉ちゃんが、『カツタダとカズイエ』の話に替えて、よう話してくれよった。」

 カツタダはこの叔父、カズイエはその弟の名である。

 「そこでじゃ、カズイエとこの息子たちの名前を、昌彦君も知っとろう。上の二人よ。」

 「R太にK平、あ・・・」

 「そういうことじゃ、とワシは思うとる。」

 母は何でもよく話したが、このことは聞かなかった。母自身が気づいていたかどうか。遡ってその時代、母はどこで『善太と三平』の物語を読んだのだったか。

 叔父さん、どうぞ元気で長生きしてください。

【善太と三平】

 坪田譲治(つぼたじょうじ)の小説と童話の主人公。1934年(昭和9)に発表された『すずめとかに』『ひまわり』『けしの花』など、いわゆる「善太と三平もの」といわれる一連の作品に、純真で健康的な兄弟として登場するが、単に童心を描くだけではなく、「子供らしさ」を生きたイメージとして典型的に描き出したといえる。小説『お化けの世界』(1935)、『風の中の子供』(1936)、『子供の四季』(1938)の三部作では、善太と三平が社会との関連のなかでとらえられている。[征矢 清](日本大百科全書より)

Ω


虹の半旗

2018-09-25 16:01:47 | 日記

2018年9月12日(水)~25日(火)

 ジュファーと母親の話を載せた、ちょうどその日がまさかの命日になった。この話はぜひ母にも読ませたかったが、2日前に入院してからはPCに触れる機会がなかったはずである。残念・・・

 12日の水曜日は忙しい日で、もともと会議日であるところへTVの収録が午後から入った。ラジオ科目である「死生学のフィールド」を紹介する広報番組をテレビで作るというもので、8月28日に神谷町の浄土真宗光明寺を訪れたのは、このための取材ロケだった。

  スタジオでロケ映像を確認しながら、Y先生・Kアナとのトークを撮り重ねていく。自分の映像を見るのは何度やってもイヤなもので、それにしても立派なこのオデコは母方の祖父の遺伝なんだよなと自分に茶々入れるが、デスカフェの語らいに参加したデコ坊はそれなり真剣に取り組んでいる。

 2歳で曾祖父、4歳で祖母、6歳で祖父と、父方の不幸が昭和30年代に相次いだ。跡取りの父こそつらかったはずだが、自分の年輪にもその影響が残る。曾祖父のことは覚えていない。祖母には習い始めていたバイオリンを枕辺で聞かせた記憶がある。祖父の死は明瞭に理解し、実に怖くまた悲しかった。

 祖父が死んだと聞いた時、激しく泣く6歳の自分を夕食後の着物姿の父が固く抱いてくれた。「泣いたらいかん、お前が泣くと、お父さんまで泣きたくなる」と頭上に聞こえた。母はこちらに背中を見せ、台所で洗い物をしていた。前橋市南曲輪町(当時)の小さな食卓風景である。

 「死っていうのは理解するものじゃなくて、生き残ったものが相擁して耐えるものなんだと思います」

 などと映像の中で語っている。収録が終わりにかかる頃、松山の病室で変事が起きていた。

***

 父の方は、晴れた日の夕方に前庭を望む玄関前に椅子を置き、目に止まった校正刷りに読み入っていた。前年夏の帰省時に僕が置いていったもので、他でもない「死生学のフィールド」の尊厳死などを扱った章だというから念が入っている。これだけ偶然が重なれば、もう言うことはない。確かに誰かが筋を書いたのである。

 母は4~5日間の検査入院の予定だった。もってきてほしいものを前日父に言づけ、連日の見舞で疲れているであろうから明日は来なくてよい、次は木曜日にと約していた。昼の病院食をすっかり平らげ、歩いて用を足して戻り、小一時間寛いだその姿で旅立った。

 病院からの第一報の呼び出し音を、戸外で読みふけっていた父は聞き逃したらしい。第二報は東京に入り、つれあいが機転で僕に連絡をつけた。折り返しかけた電話に担当医は的確かつ誠実な説明を与えてくれたが、その要点は意識回復の見込みがないことを告げ、蘇生をいつまで続けるか判断を求めるものだった。「父が着くまで」との依頼の意味を、若い担当医は正確に理解してくれた。

***

 その日の便には間に合わないと決め込んでいたが、実は通勤路が天王洲アイルを通っており、モノレールに乗り換えれば早いのである。ただ、この乗換はあまり便利ではない。おまけに松山行のゲートは保安検査場から遠くてと後日こぼしたら、「バスを使わないだけマシ」とたしなめられた。

 ANA599便の座席はそこそこの混雑なのに、隣の窓際席がぎりぎりまで埋まらない。ぽっかり残った卵型の空間に、圧がこもっているような不思議な感覚である。定刻やや過ぎて乗りこんできたまん丸い女性は旅慣れないのか、座り込んだ膝に大きな紙袋を載せている。「空いてるところがないから、ね」と笑うが、これはどかされるに決まっている。忙しそうなCAに声をかけめでたく荷物が片づくと、「ありがとうございます」と礼を言うなりスマホでゲームを始めた。妙に愛おしい気もちがした。

 松山空港からタクシーに乗り際、日赤までの料金を訊くと、丹原出身という朴訥そうな運転手が「2,900円」と即答した。財布の中身はぎりぎりである。彼には99歳の御母堂が健在、ただし辛うじて顔が分かる程度だという。7階の病室前に父と共に歯科医の従弟の姿があり、僕を見て安堵したように立ち上がった。

 気もちよく午睡でもしているような表情、布団の胸が上下していると錯覚しそうな風情である。

 「颯爽と、いってしもうた。」

  父が苦笑した。月曜の朝の虹の脚が、空にかかった半旗であったことをこの時知った。

Ω