2018年9月12日(水)~25日(火)
ジュファーと母親の話を載せた、ちょうどその日がまさかの命日になった。この話はぜひ母にも読ませたかったが、2日前に入院してからはPCに触れる機会がなかったはずである。残念・・・
12日の水曜日は忙しい日で、もともと会議日であるところへTVの収録が午後から入った。ラジオ科目である「死生学のフィールド」を紹介する広報番組をテレビで作るというもので、8月28日に神谷町の浄土真宗光明寺を訪れたのは、このための取材ロケだった。
スタジオでロケ映像を確認しながら、Y先生・Kアナとのトークを撮り重ねていく。自分の映像を見るのは何度やってもイヤなもので、それにしても立派なこのオデコは母方の祖父の遺伝なんだよなと自分に茶々入れるが、デスカフェの語らいに参加したデコ坊はそれなり真剣に取り組んでいる。
2歳で曾祖父、4歳で祖母、6歳で祖父と、父方の不幸が昭和30年代に相次いだ。跡取りの父こそつらかったはずだが、自分の年輪にもその影響が残る。曾祖父のことは覚えていない。祖母には習い始めていたバイオリンを枕辺で聞かせた記憶がある。祖父の死は明瞭に理解し、実に怖くまた悲しかった。
祖父が死んだと聞いた時、激しく泣く6歳の自分を夕食後の着物姿の父が固く抱いてくれた。「泣いたらいかん、お前が泣くと、お父さんまで泣きたくなる」と頭上に聞こえた。母はこちらに背中を見せ、台所で洗い物をしていた。前橋市南曲輪町(当時)の小さな食卓風景である。
「死っていうのは理解するものじゃなくて、生き残ったものが相擁して耐えるものなんだと思います」
などと映像の中で語っている。収録が終わりにかかる頃、松山の病室で変事が起きていた。
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父の方は、晴れた日の夕方に前庭を望む玄関前に椅子を置き、目に止まった校正刷りに読み入っていた。前年夏の帰省時に僕が置いていったもので、他でもない「死生学のフィールド」の尊厳死などを扱った章だというから念が入っている。これだけ偶然が重なれば、もう言うことはない。確かに誰かが筋を書いたのである。
母は4~5日間の検査入院の予定だった。もってきてほしいものを前日父に言づけ、連日の見舞で疲れているであろうから明日は来なくてよい、次は木曜日にと約していた。昼の病院食をすっかり平らげ、歩いて用を足して戻り、小一時間寛いだその姿で旅立った。
病院からの第一報の呼び出し音を、戸外で読みふけっていた父は聞き逃したらしい。第二報は東京に入り、つれあいが機転で僕に連絡をつけた。折り返しかけた電話に担当医は的確かつ誠実な説明を与えてくれたが、その要点は意識回復の見込みがないことを告げ、蘇生をいつまで続けるか判断を求めるものだった。「父が着くまで」との依頼の意味を、若い担当医は正確に理解してくれた。
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その日の便には間に合わないと決め込んでいたが、実は通勤路が天王洲アイルを通っており、モノレールに乗り換えれば早いのである。ただ、この乗換はあまり便利ではない。おまけに松山行のゲートは保安検査場から遠くてと後日こぼしたら、「バスを使わないだけマシ」とたしなめられた。
ANA599便の座席はそこそこの混雑なのに、隣の窓際席がぎりぎりまで埋まらない。ぽっかり残った卵型の空間に、圧がこもっているような不思議な感覚である。定刻やや過ぎて乗りこんできたまん丸い女性は旅慣れないのか、座り込んだ膝に大きな紙袋を載せている。「空いてるところがないから、ね」と笑うが、これはどかされるに決まっている。忙しそうなCAに声をかけめでたく荷物が片づくと、「ありがとうございます」と礼を言うなりスマホでゲームを始めた。妙に愛おしい気もちがした。
松山空港からタクシーに乗り際、日赤までの料金を訊くと、丹原出身という朴訥そうな運転手が「2,900円」と即答した。財布の中身はぎりぎりである。彼には99歳の御母堂が健在、ただし辛うじて顔が分かる程度だという。7階の病室前に父と共に歯科医の従弟の姿があり、僕を見て安堵したように立ち上がった。
気もちよく午睡でもしているような表情、布団の胸が上下していると錯覚しそうな風情である。
「颯爽と、いってしもうた。」
父が苦笑した。月曜の朝の虹の脚が、空にかかった半旗であったことをこの時知った。
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