散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

実は素敵なジュファーとその母

2018-09-12 06:14:05 | 日記

2018年9月12日(水)

 先の話、腹を抱えて笑いながら、とんでもない母親だとばかり初めは思った。違うよね、分かってなかったのだ。

  少し足りないジュファーに母親は固く口止めするが、効き目ははなはだ疑わしい。事実、母親が袋の中身を入れ替えたと知るが早いか、ジュファーは「裁判官さまに訴える」と騒ぎ出す。これこそ母子がいちばん恐れねばならないことで、金貨入手の仔細が裁判官に知れたらたちまち二人は監獄行き、金貨は没収で裁判官が私腹を肥やすのが相場というもの。実際、ジュファーの訴えを聞いた裁判官の質問は「いったい、いつ金貨を手に入れたのだ?」、つまり金貨を盗まれた経緯ではなく、入手した経路だった。

 これを回避する母親の妙案が「乾し葡萄と乾し無花果」のトリック、息子の頭がおかしくて証言など信用できないと裁判官が思いこめば、今後口をすべらせたところで疑われる気遣いはない。頃合いを見計らって息子を病院から連れ戻し、金貨はめでたく母子のもの。山賊からくすねたお宝を、より大きな盗っ人から守る最高の工夫がこれであったに違いない。

 偉そうに言ったが、そうと気づいたのは昨日転記していた時である。それまでは単純に「お宝を前にしては母も子もなし」という強欲我欲の話だと思っていた。「そうじゃないの?」と食い下がる向きのために、ひとつ前の物語を紹介しよう。いずこも変わらぬ母心と、大愚にして大賢たるジュファーの面目がよく現れている。

***

食べろよ、僕の衣服!

 ジュファーは何しろ大馬鹿者だったから、誰かに招待されるとか、どうぞお出かけくださいませんか、などと言われたためしがなかった。あるとき、残り物にでも預かれないだろうか、と農場へ出かけてみたが、みすぼらしいその身なりを見ただけで、人びとは番犬の鎖を解いてけしかけた。そこで母親は、彼にすばらしいコートとズボンとビロードのチョッキを買ってやることにした。農場の管理人にも負けない服装で、ジュファーは例の農場へ乗りこんだ。じつに丁重に迎え入れられ、人びとと同じ食卓に招かれて、おまけにお世辞まで言われた。ご馳走が出されると、ジュファーは片手でそれらを口に運び、残る手で大小のポケットや帽子のなかにまで詰めこみながら、言った。「食べろよ、食べろよ、ぼくの衣服。招かれたのはおまえたちだぞ、ぼくではなくて!」

(前掲書 P.297-8)

Ω


ニラと荀子とイタリア民話

2018-09-11 08:12:59 | 日記

2018年9月11日(火)

 虹の吉兆から始まった昨日だったが、知人の大きな困難について聞くこと複数あり、その後わが家でも少々難儀が生じた。む、と口をへの字に曲げて考えるに、不幸中の幸いということがあり、塞翁が馬の故事があり、そのいずれも当たらぬ場合には、それこそ腰を据えて意味を問うことになる。虹が脚だけで雲の中へ消えていったのは、そこに自ら虹を見いだせということか。

 「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。」(ルカ 9:34)

 夏の間は朝いちばんに水を浴びていたが、今朝はぐっと気温が下がってお湯に切り替えた。ベランダのプランターには9月に入ると同時にニラの穂がついついと伸び、白い愛らしい花を咲かせている。夏の帰省で留守の間もへこたれない強さ、瑞々しい緑、花の可憐、加えて栄養満点という見あげた植物で、屋根の上を一面のニラで覆う家があるのも頷ける。僕にとっては、ある記念日のリマインダーでもある。

 こんな朝に読みたいものは何か。久しく放ってあった『荀子』、冒頭「出藍の誉れ」が沁みるように入ってくる。青が藍よりも青いことがポイントではない、不断の学問精進が藍から青を生むことこそ「勧学篇」の要諦である。

 荀子と言えば性悪説と括り、性悪説と聞けば人を貶めるもののようについつい思うが、これは違う。性悪なればこそ、善に向けて育てるよう環境や導きが必要なのだ。それに応える成長の可能性が悪なる性のうちにあるとする点で、性悪説は希望の説である。

 逆に性善説がたとえば悪人を見る時、本来善なる性を汚した悪しき心は、苛烈な糾弾の対象となり了る。キリスト教は典型的な性悪説 ~ 希望の説であるはずなのに、手の付けられない性善説の欺瞞に陥る例の多いのはどうしてか。荀子の言葉が今朝はニラのように好もしい。

 こんな時に読みたいものが、もうひとつあった。ちょっと長いが転記する。

***

「ジュファー、戸をしっかり閉めな!」

 ジュファーが母親と畑へ行かねばならなくなった。母親のほうが先に家を出て、言いつけた。

 「ジュファー、戸をしっかり閉めな!」

 ジュファーがしっかり戸を閉めて、もっとしっかり閉めようとすると、蝶番から戸が外れてしまった。それを肩にかついで、母親の後をついていった。しばらく歩いたところで、言い始めた。「母さん、重いよ!母さん、重いよ!」

 母親が振り返った。「いったい何が重いんだい?」見ると、肩に家の戸をかついでいた。

 そういう大荷物があったので、帰りは遅くなってしまった。夜になっても、家はまだ遠かった。山賊を恐れて、母親と息子は木の上に登った。ジュファーのほうは相変わらず戸を背負っていた。

 真夜中になると、たちまち木の下に山賊が現れて、金の山分けをはじめた。ジュファーと母親は息を殺していた。

 しばらくたつと、ジュファーが低い声で言った。「母さん、おしっこがしたいよ」

 「何だって?」

 「洩っちゃうよ」

 「がまんしな」

 「できないよ」

 「がまんしな」

 「もうだめだ」

 「しちゃいな!」

 それでジュファーは、してしまった。水が落ちてくる音を聞いて、山賊たちは言いあった。

「おや、にわか雨が降りだしたぞ!」

 しばらくたつと、ジュファーがまた低い声で言った。「母さん、出たくなったよ」

 「がまんしな」

 「できないよ」

 「がまんしな」

 「もうだめだ」

 「しちゃいな!」

 それでジュファーは、してしまった。臭いものが落ちてくる物音を聞いて、山賊たちは言いあった。「何だ?天の賜物か?それとも鳥の仕業か?」

 やがてジュファーが、相変わらずのあの戸をまだ背負っていたので、低い声で言いはじめた。「母さん、重いよ」

 「待ちな」

 「でも、重いよ」

 「待ちなったら!」

 「もうだめだ」そして、背負っていた手を放すと、重い戸が山賊たちの上へ落ちていった。

 おい、危ないぞ! あっというまに山賊たちは逃げだした。

 母親と息子が木から降りると、山分けしかけていた金貨の袋があった。袋を家に運びこむと、母親が言った。「誰にもこの話はするんじゃないよ。もしもお上に知れたら、わたしたちは二人とも監獄行きだからね」

 それから母親は乾し葡萄と乾し無花果を買いにいって、屋根に登った。ジュファーが家から出てくるや、その頭の上に乾し葡萄と乾し無花果をつかんでは投げた。ジュファーは頭を押さえた。「母さん!」そう言って、家の中へ跳びこんでしまった。すると母親が、屋根から言った。「何だい?」

 「乾し葡萄と乾し無花果だよ!」

 「当りまえだよ、今日は乾し葡萄と乾し無花果の降る日なんだから。決まっているじゃないか?」

 ジュファーが出かけてしまうと、母親は金貨の袋を取りだして、代わりに錆びた釘を詰めた。一週間ほどのちに、ジュファーが袋の中身を探ると、古釘ばかり入っていた。それで母親に向かってわめきだした。「ぼくの分のお金をくれよ。さもないと、裁判官へ訴えでるからな!」

 しかし母親が言った。「何のお金だい?」そして、ぜんぜん取りあおうとしなかった。

 ジュファーは裁判官のところへ訴えでた。「裁判官さま、せっかく金貨の袋を持っていたのに、ぼくの母が錆びた釘と詰めかえてしまったのです」

 「金貨だと? いったい、いつ金貨を手に入れたのだ?」

 「はい、はい、あれはたしか乾し葡萄と乾し無花果の降った日のことです」

 裁判官はそれで、ジュファーを〇〇病院へ閉じ込めてしまった。

(シチリア島全域)

カルヴィーノ編『イタリア民話集(下)』河島英昭編訳から

※ 最終行の〇〇のところは、現在ではワープロも変換しない例の言葉が入っている。2010年に購入した手許の本は堂々とそのまま記しているが、厄介を避けたいチキン根性からここでは伏せた。面倒な時代だ!

 

Ω


現実性と合理性/にわかファンの拍手喝采

2018-09-09 23:03:28 | 日記

2018年9月9日(日)

 茗荷谷へ移動して月例のゼミ、修論主体だが博士課程からも学部卒研からも出席があり、毎度楽しい一日である。タボル山上のペトロさんではないが、座って聞いてて眠くなるといけないので、できるだけ立つようにしている。痩せる効果もありはしないかと期待するが、そううまくはいかないようで。

 午前中ある院生に助言する中で、不意に「現実性と合理性」に関するヘーゲルの言葉が口をついて出てきた。正確にはマルクス・エンゲルスによる引用の方である。読んだのは40年近く前、以来思い出す機会もほとんどなかったはずだから、こんなことがあるのかと自分でも驚いた。それを誘導したのは院生の知的な資質で、あたかも彼女の磁石が当方の記憶の小鉄片を吸い出したかのようである。

 帰宅後に確認:

 「一例をとろう。「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」というヘーゲルの有名な命題(へ―ゲル『法の哲学』)ほど、物のわからぬ政府の感謝と、それにおとらず物のわからぬ自由主義者の怒りをまねいた哲学的命題はなかった。」

 これ、これ。面白いので長めに転記しておこう。

 「これこそまさにすべて現存するものの聖化であり、専制主義、警察国家、専断的裁判、検閲の哲学的祝福ではなかったか。ヴィルヘルム三世(プロイセン国王、1770-1840)もそうとっていたし、その臣下たちもそうとっていた。しかしヘーゲルにおいては、現存するものはすべてただそれだけの理由で現実的でもあるとはけっしてかぎらないのである。現実性という属性は、かれによれば、同時に必然的でもあるものにのみ属するのであって、「現実性は、それが展開されると、必然的であることがわかる」とヘーゲルは言っている。したがってヘーゲルによれば、政府のどんな措置でも - ヘーゲル自身は「或る税制」の例をあげているが - 無条件に現実的であるということはけっしてない。しかし必然的なものは、けっきょくまた合理的でもあることが立証されるのである。したがってヘーゲルのあの命題は、当時のプロシャ国家に適用すると、次のようになるだけである。すなわち、この国家が合理的であり、理性にかなっているのは、そけが必然的であるかぎりにおいてである。それにもかかわらずもしそれがわれわれに悪く思われ、しかもそれが悪いにもかかわらず存在し続けるならば、政府の悪さは、それに対応する臣民たちの悪さのうちにしの当然の理由と説明を見いだすのである。つまり、当時のプロイセン人は、かれらにふさわしい政府をもっていたのである。」

 ダメだ、面白すぎて全体を引用することになりかねない。優秀な院生のためにもう一ヶ所だけ、抜き書きして終わりにしよう。それにしても古びないものである。

 「すべて人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなにそれが現存する見かけだけの現実性と矛盾しようと、現実的なものになるように定められているのである。」「現実的なものはすべて合理的であるという命題は、ヘーゲル的思考方法のあらゆる規則にしたがって、すべて現存するものは滅亡に価するという他の命題に変わるのである。」

F. エンゲルス『フォイエルバッハ論』(松村一人訳、岩波文庫)P.14-16

***

 ところで大坂なおみ、凄いなぁ!

 僕はテニスはやらないし、わからないので、にわかファンの典型たるものだが、とにかくびっくり、感動した。プレーの力強さとキレの良さに加え、あの異様な雰囲気とブーイングの嵐 - アメリカのテニスファンも大したことないね - の中で少しも乱れない自制の力。試合前後のいじらしいセリーナ・ファンぶりと、試合中の冷静果断、どちらも本物で虚飾がない。カウンセリングの成立条件にいう genuineness(自己一致)とはこういうものではないか。攻撃的・挑発的に時代を切り開いたセリーナの後を受け、朗らかで融和的な未来を築いてほしい。

 もうひとつ、国とか民族とかをめぐる日本人の固定観念を、彼女が大いに揺さぶってくれるよう期待する。これは合理的であり、したがって現実的な期待のはずである。

Ω