散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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沖縄には鬱がない?

2016-10-24 08:42:38 | 日記

2016年10月24日(月)

 もう30年も前のことだが、「沖縄にはうつ病がない」とまことしやかに説く人だか記事だかに接したことがあった。むろん俗説で、当時としても事実に反していたのは間違いない。いかに琉球人が温和で我慢強いとしても、癌にかかり肺炎になるのと同様、うつ病にかからないはずがない。事実、研修医時代に沖縄の関連病院で正月当直した際、壮年男性の急患を外来で診たことがあった。強い焦燥感を伴ったつらそうな表情は、どの地域で見ようと変わらない苦しい共鳴をこちらの胸の中に引き起こす。

 ただし俗説にはそれなりの背景がある。少なくともある時期までの沖縄では、誰かがうつ病になっても事例化しにくいということがあったのではないだろうか。疲れたら休めばよい、ゆっくりのんびり休んで、元気になったらまた働けばよい、そういう考え方が浸透し共有され、事実ゆっくり休む風景があたりまえに見られる文化の中では、うつ病罹患の波紋は小さなものに留まるだろう。めざましい経済成長や都会的な刺激には無縁かもしれないが、いったん不調に陥った時にはその優しさと包容力が痛感されるに違いない。

 対照的なのが東京を初めとする都市部である。この忙しさと強迫性の中で、皆の足元にひたひたと寄せてくるような潜在的/顕在的貧困への恐れにさらされながら、「ゆっくり休む」などは至難の業である。健康であり余裕のあるときには、周到な準備の元に意図して「休む」こともできるだろうが、うつ病のもたらす機能低下と現実の不安の中で「ゆっくり休め」などというのは、ほとんど悪い冗談でしかない。

 うつ病も長引くわけである。

Ω


診療雑感 ~ 同労者の手紙 / 兄弟の変貌

2016-10-23 09:09:38 | 日記

2016年10月21日(金)

 ある人の具合が悪くなり、入院するということがあった。そうまとめてしまえば一言だが、病識なしに激しく行動化する若い人を、両親がなだめすかし人手を借り計略までもめぐらして受診させ、しかし最初の病院では今どき信じがたい拒絶的な対応に直面し、胃に穴が3つ4つあきそうな右往左往の末ようやく入院にこぎつけた経緯は、それだけで一冊の本が書けるほどである。

 僕はあまり役に立たなかった。クリニックの雇われ医者としてできることはしたというものの、しょせん言い訳にすぎない。ともかく事故に遭わず入院してもらえたのが幸いで、この病院なら後はしっかりやってくれるだろう。そこへ入院先の担当医から連絡文書が届いた。

 「・・・民間救急を利用しての受診でしたが、先生の診療を通じて培われた医療者への信頼に助けられ、大過なく入院していただくことができました・・・」

 こんなこともあるのかと、30年目の驚きである。

 僕ではない、この手紙を書き送ってきた医師が偉いというのだ。「長いこと診ていたくせに十分な対処もできず、そのツケを回してよこして」と横向いて文句を言う場面なら珍しくないし、そうまで言わないとしても、忙しい仕事の合間に紹介元に対する共感性と配慮を働かすことは簡単ではない。この医師はきっと非凡な働き手である。

 思うに、見も知らぬ同労者との間に信頼感をもてるか否かは、そのコミュニティの未来を占う重要なポイントではないだろうか。精神医療のこの点に関して楽観的な予想をもてずにいたが、今日ささやかな反証を手にした。返事を書く手が軽く踊っている。

***

 通ってくる女性の患者さんが、男きょうだいの無理解を嘆く場面に繰り返し出会ってきた。もちろん逆や裏のパターンもあって、どちらが多いといったデータをもつ訳ではないのだが、軽くもない症状を抱えながら家事や介護の負担を担う女性に対して兄や弟が無理解・非協力であること、少なくとも女性の側からはそう感じられるという状況が一つのステレオタイプを為していた。

 ところが、そのようであった兄・弟が「変わる」ということを最近立て続けに聞かされている。経緯はさまざまで、同居する父親の認知症がいよいよ重くなって娘(=通院患者)の手に負えなくなった時、30年来ほとんど手を貸さず口も利かなかった弟が思いがけず介護に加わり始めたとか、似たような状況で妹(=患者)が堪忍袋の緒を切らし20年ぶりに公然と兄を非難した ~ したたかに殴られるか、悪くすれば絞め殺される覚悟で ~ ところ、これまた思いがけず兄は黙って妹の言葉の嵐を受けとめ、あろうことか労(ねぎら)いの言葉を返し、翌日からわずかずつ態度を改めたとか。

 「何十年かの間に、兄/弟も何かを経験して変わっていたんです」と複数の女性が異口同音に語り、つい最近まで想像もできなかった希望の色が表情にあるのを、ただ眩しく眺めている。もっと早く、もっと建設的な形でそうできなかったかと惜しみつつ、いかに遅れたにもせよ予想を超えて和解の訪れたことが驚かれ嬉しいのである。

 あわせて、家族がひとつの生き物であることをあらためて痛感する。誕生し、成長し、老い、最期を迎え、別の形で別の代に再生する。まさに生き物である。

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 他にも良いことがあったが、一度に書くともったいないので今日はここまで!

Ω

 

 


「食べていきなよ」 / 若い人が山へ旅立つ

2016-10-13 16:37:37 | 日記

2016年10月13日(木)

 一昨日の「うちあわせ」の最後に、C先生から問いかけられたことがあった。何かの事情で家に帰れないとか、家に落ち着くどころではないとかの事情が生じたとする。今さら駆け落ちでもないが、まあ譬えていえばそんな感じの緊急事態になったとして、そんな時に駆け込める先、端的に言えば「晩飯、食わせてもらえないかな」とか「今晩泊めてくれない?」とか言える相手が何人いるか、そもそも一人でもいるか、というのである。あるいは問をひっくり返して、「晩飯、食べていきなよ」と言ってくれる相手が(何人)いるか?

 答えに困った、これは急所だ。すぐには答が出ないのである。唸ってしまった。家内の弟妹が首都圏に住んでいる。関係良好だしざっくばらんな性格でもあるから、一晩や二晩なら何とかなるかな。それ以外には、そうか、教会関係か。それでもなあ・・・

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 どうやら、考えるポイントが山ほどありそうである。ということは良い質問なのだ。たとえば、仮にそれぞれが家族持ちでなかったとしたら、夕飯でも宿泊でも互いに気軽に提供し合える友人知人はぐっと増えるだろう。しかし皆、家族に対する遠慮がある。とすれば何のことはない、自在な交流の最大の障害は実は家族なのではないか。

 家屋構造の問題もある。前項でも懐かしんだような昔の日本の家は、今と比べて開放的でスペースがあった。一人、二人どこかに押し込む裁量はできたものだが、今の家屋はきわめて閉鎖的で、しかも閉鎖空間内を個人スペースにきっちり分割しているから、居候が身を置く場所がない。

 都鄙の違い。同じ僕という人間をとっても田舎に帰れば親族も多く、まさかの時には何とかなりそうだけれど、東京では手も足も出ない。

 人生を振り返るに、名古屋の中学生時代までは、遊びに行った友人宅で思いがけず「食べて行きなよ」と言われることがあった。東京の高校に進んで・・・いや、あったな、あったけれどずっと珍しい風景になった。1970年代というタイミング、名古屋と東京の、中学生と高校生の違い、さまざまなものが連動している。 

 そして今、「食べていかない?」「泊まっていきなよ」は、おとぎ話の世界の話になった。

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 昨晩、次男が肩を落としてやってきた。サークルの友人が山で亡くなったというのである。関西出身の若者で、翌日つまり今晩が通夜になる。昼過ぎに発って往路は十分間に合うが、帰りは最終列車になるかもしれない。それなら長男の住まっている関西の寓居に泊まればよいではないか、東京から一緒に行く仲間は泊めてあげたらいいよと提案したら、次男の表情が少しだけ和んだ。

 喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く、それ以上のことを僕らはできない。宿を与えあい、そこで一緒に泣くとしたら、そこに小さな家族が生まれる。それが僕らをきわどく支え、生き続けることを可能にしてくれる。23歳で山に旅立った若い人が、仲間たちにそのことを言い置いていったように思われる。

Ω