散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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風景画の誕生とプロテスタント

2015-10-19 10:17:23 | 日記

2015年10月17日(土)

 明日のこともあって少々気ぜわしいが、前々からの計画通り今夕はオペラ観劇に出かけた。ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ(!)が来日中なのである。すっかりアウェーの地になった渋谷の雑踏を通り抜け、東急文化村へ。少し早くでて美術展も見てやろうというのは、父のおかげで手に入る株主優待券を無駄にすまいとの魂胆でもある。こちらはウィーン美術史美術館所蔵品による『風景画の誕生』だ。ザ・ミュージアムは決して広くはないが、これで十分という感じがする。このスペースにほどよく収められた美術品を丁寧に見て回れば、優に半日仕事である。今日は30分、この内容なら出直しても良いと思った。

  

 16-17世紀のネーデルランドやフランドルの画家のものが中心で、ある程度見慣れていてホッとするということろがある。題材を聖書にとったものが多いから、その意味でもここではホーム感覚があり、理解しやすい。人物画の背景に、たとえば復活のキリストを岸辺に見出して、漁船から水に飛び込み駆け寄るペトロの姿がミニチュアのように描き込まれていたりするが、こんなのは聖書の読者でないと意味も何も分かるまい。

 それより今回は、「ナゼ風景画が描かれるようになったか」という劈頭の問に虚を突かれた。僕は絵はからっきしのヘタクソで、それでも樹木や風景ならまだしも何とかなるが、人物を描こうとすると惨めに破綻することが必定だった。まして人柄や感情の描写なんて、話の外である。人物画は風景画よりも高いスキルを必要とし、より高次の精神活動に属する。自分がそうである以上、人類一般もそうに違いなく、まず風景画が描かれ、ついで人物画へ進化を遂げたに違いないと。

 これが浅知恵だったのですね。人類はどこでも、風景画に先んじて人物画を ~ 正確には人間活動を描いている。ラスコーやアルタミラの洞窟壁に描かれていたものの大部分は動物、ラスコーではこれに人間の絵や人の手形が含まれるという。ここは熟慮を要するところだが、関心の中心にあるものに素直に注目する場合、食物として人の生を支える動物(=対象)、ついで動物を狩る人間自身(=主体)を描こうとするのは当然だ。風景を愛でるのは、飽食したヒマ人にして初めて可能なことである。

 同じ論法を先史時代から古代へ転用するなら(ひどい飛躍だが)、そこでも関心事はまず人間であり、階級分化以前の狩猟民が「皆の関心事である動物」を描いたとすれば、分化後の支配的有閑階級が自己意識を芸術のうえに投影し、剰え自分で描くのではなしに人に描かせる形で人物画を生み出したのは、これまた自然。風景画がずっと遅れるのは理の当然ということになる。東アジア文化圏では、中国発の山水画などというものが転換点を画したのだろうか。ヨーロッパでは17世紀のオランダが重要であるというのが、この展覧会のキー・コンセプトになっているようだ。

 さらに意表を突かれたのは、どうやらこの文化圏に広まったプロテスタント信仰(プロテスタント信仰によって生み出されたこの文化圏というべきか)が、風景画誕生の立役者と考えられているらしいことだ。これまた僕の盲点で、僕自身は歴としたプロテスタントの信者でありそれを誇りにもしているけれど、カトリックとプロテスタントが西方教会の幹から出た兄弟であることや、ここ500年ほどの兄弟ゲンカの末に2000年の一致を取り戻しつつあることを、よりいっそう喜ばしいと思っている。違いよりは共通点を大事にして人にも語るので、ヴェーバー流にせよ何流にせよプロテスタントの文化的意義を強調する論に、あまり耳が向かないところがあった。

 これは半日かけて再訪する必要がありそうである。

 もうひとつ、写真で言えば圧倒的な広角派であるブリューゲル一族の絵の、細部が実に精密に描かれていることにあらためて気づいた。ここにまた光学的必然性がある。ルノワール風の中望遠では主人公が浮かび上がって背景がボケる。広角の深い被写界深度では、すべての対象に焦点が合うのでディテイルを省略できない。ブリューゲルらは、己の選択を呪ったことがなかっただろうか。

 絵は見るものだ。

  

    

 


中立性と公平性

2015-10-16 00:09:52 | 日記

2015年10月14日(水)

 ケイちゃんに電話しながら海浜公園を抜け、大学に着けば忙しい一日である。僕は職掌柄、研究棟と事務棟を行ったり来たりして合間に作業に加わる。その間にかねて約束のあった客が訪ねてきた。研究室に通して対応し、今度は三カ所をうろうろと歩き回って過ごす。

 カンファレンスルームで書類に目を通していると、

 「先生、あの・・・」 とN先生(女性)

 「はい?」

 「先生のお部屋から、赤ちゃんの声がするようですが・・・」

 なるほど廊下のはるか向こうから、紛れもない赤ちゃんの泣き声が響いてくる。

 「あ、あれはですね、私の・・・」

 「先生の?」 とN先生の声がいつになく甲高い。室内の皆が一斉にこちらを注目する。

 「先生の、何ですか?!」

 「いえ、私の、その、ゼミ生がですね、お子さん連れで指導を受けに来たんです。」

 そうなのだ。以前にも書いたが、2014年度の卒研ゼミは7名の履修生が全員女性、そのうち3名が年度内に妊娠ないし出産し、「子宝ゼミ」と異名をとった。それより驚くのは3名のうち2名 ~ いずれも第二子を出産 ~ が育児・家事の傍らに卒研を仕上げてのけたことで、しかもその出来が例年の水準以上に良いものだったのである。

 人のエネルギーの不思議というのだろうか、大変なことを抱えているから他のことができないという単純なものでもない、出産・育児という人生の大仕事になりふりかまわず取り組んでいく、その同じエネルギーが脳をも働かせ立派な副産物を生み出している観がある。川を下る水の流れが、ついでに水車小屋の水車を動かし、粉を引くという具合である。

 3名のうち1名は卒論提出に至らなかった。エネルギーや能力が不足していたわけではない。彼女だけが初産であり、経過にいくらか慎重を期すべき理由があったうえ、出産のタイミングも不利に働いた。さらに、かなり微妙なテーマを妥協なくじっくり考え詰めており、腑に落ちないまま提出することを潔しとしなかったのである。

 で、再履修。論文は昨年度中にあらかたできあがっていたから、今年は本人の気がすまない核心部分を一年かけて悩み抜いた。いくつかのポイントがあるが、その最大のものは「看護の中立性と公平性」というものである。無理して幕張まで来ずともと宥めるのを、やっぱり納得いかず赤ちゃん連れでやってきた。僕の研究室で母親は難しい顔をして考えを紡ぎ、赤ちゃんは自身の必要と欲求にしたがって泣き声をあげる、そういう次第なのであった。

 途中経過は省略する。ただ、あまりに良い風景なのでついスマホで写真を一枚、本人(ただし母親のみ)の了解を得て掲載する。一幅の「聖家族」、いいでしょう?放送大学バンザイって感じだ。

 

 それにしても「中立性と公平性」、何と難しく根本的な、そしてエキサイティングなポイントで立ち止まっていることだろう。社会というもののある限り、人類は永遠にこの問題をめぐって悩み続け、論じ続けることだろう。

 腑に落ちたとも見えぬまま帰っていった学生が、翌朝メールをよこした

「昨日お話しくださった、『局外中立から公平性に踏み込んで行く姿勢』というのは、イメージで言うと平和学者ヨハン・ガルトゥング博士の提唱する積極的平和(positive peace)でしょうか。

 戦争のない状態を平和と捉える『消極的平和』に対し、貧困、抑圧、差別など構造的暴力のない状態を指していう『積極的平和』。

 看護の中立性について、私の言葉でとりあえず表現するなら、局外中立を維持する『消極的中立』に対し、世界中の誰もが質の高い保健医療サービスを享受できる状態、医療支出における貧困や医療アクセスにまつわる抑圧・差別など構造的暴力のない状態へむけての看護活動を意味するのが、『看護における積極的中立(性)』(positive neutral(ity))。

 昨日は『踏み込んで行く』という表現から、安倍首相の『積極的平和主義』を連想してしまい、帰宅してからやっとガルトゥング博士の『積極的平和』にたどり着きました。」

 

 返信:

 「良いことを思いつかれましたね、おっしゃるとおり、ガルトゥングの言う本来の積極的平和主義と同根のものです。そう言われて私も腑に落ちました。

 安倍首相の「積極的平和主義」は言葉の誤用ないし濫用であること、以前から指摘されていますがいっこうに改まりません。当然ながら、私の言いたかったことは安倍流とはまったく違います。」

 

 あとは書きあげるだけだ。お手並み拝見といこう。

 


行きてみました

2015-10-15 22:18:26 | 日記

2015年10月14日(水)

 名古屋弁を丸出しにしてしまったので、ついでに方言の話。

 そつなくきれいな標準語(この言い方に実は抵抗と疑問があるが、そこはさしあたり抑えるとして)を話す人の言葉に、ちらりと方言が混じったりするのが、たまらなく楽しかったりする。これは転勤族の息子に生まれた小さからぬ利得かもしれない。

 NHKの囲碁講座だと、何代か前の聞き手を担当した青葉かおりプロは、至るところに抑えがたく名古屋弁が露出し、それはそれで大いに魅力だった。何かの囲碁雑誌に青葉さんが海外での囲碁指導活動の報告を書くにあたり、完全に居直って名古屋弁を会話のデフォルトにしていたのが、ものすごく面白かった。第二標準語とも言える関西弁と違い、名古屋弁はそれを知る人間でないと書いたものからイメージできない場合がある。

 いっぽう、秘めた楽しみを与えてくれるのは羽根直樹さんで、人柄の表れる折り目正しい解説の中に、「この形は、ほかっておくと死んでしまいます」などとおっしゃるのがむやみに嬉しかった。「ほかっておく」は「放っておく」を意味する名古屋弁である。「ほかる」が「放る」なのだろう。地方によっては「ほかす」とも言うよね。伊予弁もそうだったかな。

***

 そこで話は先の日曜日に戻る。ずうっと昔、僕が生まれた頃、柿ノ木坂で教会生活を送っていらしたNさんという方が、鳥取からいらして礼拝に出席された。脊椎に障害があり両松葉杖を操るのも簡単ではないが、それを押しての御来京である。その事情はまた別に話すとして、Nさんが柿ノ木坂訪問のついでに僕に会いに来てくださった経緯には、世間の小ささと神慮の大きさが洒落た形で現れている。

 Nさんは鳥取で多方面の福祉活動に専心してこられ、世間話のように語られる諸事情の中には驚くべき事例や対処が多々含まれている。福祉を支えるのはこうした人々の隠れた献身に他ならない。奥ゆかしいけれども尽きることのないおしゃべりに耳を傾けるうち、ふと耳に引っかかる言葉があった。いま何とおっしゃいました?
 「ええ、是非にと勧めてくれる方があったので、思いきって行きてみたんです。そうしたら・・・」

 行きてみた!

 確かにそうおっしゃったんですね。

 これだから会話は楽しい、方言は捨てがたいと言うのである。一時に懐かしさが溢れてきた。動詞「行く」の連用形に促音便を用いず「行きた」「行きて」などと言うのは、昭和40年代の松江時代に経験した。島根・鳥取の山陰地方も東西に長くてバラエティのあることだろうが、出雲に関しては西の石見よりも東の伯耆と類縁性が大きくても不思議はなさそうだ。

 動詞の活用から考えれば「行く」の活用はカ行が原型で、それが後に音便化したのに違いない。するとここでも、「中央で変化が進み、周辺に祖型が残る」というありがちの傾向が証明されることになる。こんなにも豊かな方言を、軽視したり侮蔑したりする理由がない。日本各地の豊かな方言こそ、無形の世界遺産である。

***

 「懐かしさが溢れて」と書いたが、松江は自分が住んだ場所の中で、つい最近まで懐かしいと思うことができなかった唯一の土地である。それにはそれなりの理由があり、簡単に気持ちを切り替えられるものでもなかったが、今になってようやく違う見方のあることに気づきつつある。最も自分を育ててくれたのは、実はあの時代であったのかもしれない。

 悲劇的な形で途絶させられない限り、人生は案外長いのだ。

  松江城、内中原小学校から写生に行くといえばここだった。

  宍道湖と嫁ヶ島。

 ↑ シジミの産地で知られるこの湖が中国は西湖になぞらえられ、そのほとりの景勝地である淞江(しょうこう)にちなんで「松江」の名が起きたという。旧制高校で「松高」というと、伊豫の松山高校や信州の松本高校と弁別できない。そうした時、わざとさんずいを付けて「淞高」と記すことがあったと、今年の夏頃に同地の出身者から教わった。


スマホの効用を知ってあらためて思うこと

2015-10-15 11:02:43 | 日記

2015年10月14日(水)

 Facebook はよく分からないし、得体の知れない「友だち」がお化けか何かのように顔を出すのが薄気味悪いので手を出さずにいる。ただ、名古屋の友人らが集っているところにだけは登録らしきことをしたので、そのコアメンバーが登校する写真だの何だのは見ることができ、300kmの隔たりを感じずに済むということがある。以上が伏線。

 今日はコース教員総出の作業で、長い一日になる。往時の稲刈りみたいなもんかな。京葉線を降りる寸前にスマホに着信の気配あり、チェックして「おっ」と小さく言い、それからニンマリ笑った。誓い通り「ながらスマホ」はしない。震災直後は公衆電話のボックスがねじ曲げられたように傾いていたのが、跡形もなく修復された海浜幕張駅前を横切り、コンビニと駐輪場の間を抜けて道を渡る。ホテルの本館と新館の間を抜けてもう一本道を渡り、海浜公園に入ればちょっとした別天地。ヤマモモの林から、広い芝生道に出てぐるりを見渡す。うろこ雲を浮かせた青空の下、半径100m以内に人影はない。これなら許されるだろうとスマホを取り出し、電話番号に触れる。トゥルルル・・・

 「はい、もしもし」

 「石丸です、東京の」

 「あれ石君、久しぶりだがね、あんた元気にしとるの?」

 「ケイちゃん、誕生日おめでとう」

 「えー覚えとってくれたの、嬉しいわあ!」

 「よう覚えとったがね、ケイちゃんの誕生日は忘れんわ」

 フェイスブックにメッセージが出たからとか、そういう野暮なことはもちろん言わない。こっちの言葉も瞬時に名古屋弁に切り替わるのが、自分でも可笑しくて仕方がない。

 ケイちゃんは汐路中学校時代の仲良しである。斉木画伯は3年B組の同級生で、ケイちゃんは2年G組の時だ。仲良しといっても彼女のBFみたいなのは別にいて、僕はその少年の親友だった。そんな位置取りが案外長続きするのは、どこでもあるんだろうと思う。

 高校で上京した後ケイちゃんが手紙をくれて、そこに制服姿の写真が同封してあった。それを見た東京の級友が「可愛い!」と目を丸くし、石丸は名古屋に可愛い彼女がいると囃したりしたが、残念ながらそういう展開はなくて。

 ケイちゃんはその後、酒屋のおかみさんになった。造り酒屋ではなく、町中の販売店である。彼女の人生は名古屋市瑞穂区で完結している。そこで生まれ育ち、学校に通い、嫁いだ。いつも朗らかで、ものすごくおしゃべりで、お節介なぐらい親切だが不思議に押しつけがましくなく、誰かを憎むということ ~ 少なくとも憎み続けるということが、たぶんできない。中高一貫の進学校などに行ったら、ケイちゃんのような友だちはどう逆立ちしたってできなかっただろう。

***

 それにしても、これがスマホの効用(SNSの、というべきか)であることは認めざるを得ない。僕は無精なので、名古屋の友人たちを心から懐かしいと思っても、手間ヒマかけて連絡するようなことが続かない。フェイスブックからお節介な誕生日リマインダーが入り、御丁寧にもケイちゃんのケータイ番号まで示されるのでなかったら、こんな電話はゼッタイにしていない。確かにすばらしく便利であり、僕のように生い立ち上全国に知り合いが散らばっているような人間には、とりわけありがたいのである。

 だからこそ、あらためて思うんだが・・・

 電車の中で見まわせば、乗客のまず8割はスマホをいじっている。ゲーム党が半分、ネットサーフィンだのメールだのラインだのが残り半分だろうか。僕の用途は全く違っていてメモや作文の機能が殊の外ありがたく、出先で書き留めたことをそのままオフィス作業の素材にできることで、今後どれだけ助かるか分からない。加えて今朝のケイちゃんとのコミュニケーションである。ゲームは全く要らない。インターネット検索はなるほど便利だが、なくても構わない。電子手帳の超進化版が僕にとってのスマホの効用なのである。

 つまり何のことはない、スマホは要するにその人間を現すのだ。皆がスマホの使い方を通してそれぞれの正体を現している。考えてみれば相当に怖いことである。

 もうひとつ、あるいはだからこそ、ながらスマホ・歩きスマホの危険性をあらためて実感する。法をもって規制することすら、仮にそれが実効性をもつなら考慮してよい。ただ、実効性はあまり期待できないかな。どうだろう。


羊飼いの手すさび

2015-10-14 07:13:53 | 日記

2015年10月14日(水)

 牧師先生方には、長年にわたって本当にお世話になってきた。

 ・・・違うな、この言い方では伝わらない。もっと親しくて、もっと感情に満ち、少し絡んでみたい気持ちもあったりする、複雑な感謝のストーリーである。いずれゆっくり言葉にするとして。

 これは実名で構わないだろう、そうした先生方の中に、二人の野村先生がいらっしゃる。兄弟とか縁者とかではないはずだし、風貌なども似てはいないが、何か非常に似たものを僕の方が感じてしまう。お二人とも四国に縁が深いのも不思議である。そしてお二人とも、似合いのご夫人と見事な二人三脚を続けてこられた。言ってみれば霊的な風貌が酷似しているのかもしれない。出会ったときに自分の胸の奥に起きる懐かしい気持ちが、お二人そっくりなのである。

 和正先生は外地で生まれ、帰国後に高知で育たれた。高松で牧会なさったあと長原教会に招かれ、今は三里塚の小さな群れをあずかっておられる。空の鳥や野の花の写真を撮り、HPに挙げるのを楽しみとされる。

 忠規先生は若い頃、僕らの教会で教職修行をなさった。つい先日まで伊予松山の教会を牧され、そこから埼玉の東松山教会へ移られた。松山から松山という洒落かたが、落語をこよなく愛し御賀状にも小咄を満載なさる先生に似つかわしい。もちろん御自分が選んでなさったことではない。

 次の日曜日は和正先生のお手伝いに行けるので、遠足を前にした子どものようにわくわくしている。先日のアーモンドの会では、130名を数える出席者の中に忠規先生のお姿を見て破顔してしまった。その忠規先生から、当日、渡し忘れたからとプレゼントがわざわざ送られてきた。先生お手製の絵はがきである。

 一覧、絶句した。こんな描き方は見たことがない。素朴にして輝きあり、小紙面に激しい躍動が漲り、描かれたものがそこで生きて動いている。湖が荒れ、星が輝き、人が泣き、羊が甘え、主が語る。技ではない、魂で描かれたのである。

 せっかく絵はがきとしてくださったのに、とても切手を貼って出す気になれない。手許に永久保存、ごめんなさい先生、その代わりここに掲げて皆に共有してもらいますから。

  安心しなさい、私だ (マルコ 6)

  わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている (ヨハネ 10:14)

  人は倒れても打ち捨てられるのではない、主がその手をとらえてくださる (詩編 37:24)

  人の子は、仕えるために (マルコ10:45)

  人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは (詩8)

 

 シャローム・・・