散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ローズウォーターさん、あなたに神の祝福を

2015-01-16 21:29:31 | 日記

2015年1月16日(金)

 

 「ここんんとこ、夜中に目が覚めるんや、何でやろうなあ先生?」

 何でって・・・

 苦笑に返す言葉がない。ただいま肺ガンの放射線療法中。

 「いろいろやってるけど、あんまり効いてへんようやな。何でかって?そらわかるがな、体が言いよるねん。しかし、何で目が覚めるんかな、別に何もないんやけど・・・」

 

***

 

 「富士山は登ってません。もう少しやせないと、転がりおちたら大惨事を起こしちゃいますから。その代わり明日は高尾山、先日は愛鷹山にのぼってきました。」

 愛鷹(あしたか)の地名は、東名を通るたびに意識しているが、このとき妙に懐かしく脳裡に響いた。「あしたか」という音のやわらかさ、「優雅な」それとも「美しい」鷹というイメージの高らかさ、そこを登っていく壮年を過ぎた苦労人の男女。

 

 愛鷹の山な猛りそ寒晴れに (昌蛙)

 

***

 

 「四万温泉、いいですよ。同じ上州でも、草津などは開けてますから歓楽街もあったりします。ここは知られてないから、家族でのんびりするには最高です。私は・・・アタマが悪かったから高校も工業で、その代わり就職してからはずっと一生懸命働いてきました。褒められるようなことはしてないけれど、悪いこともしてこなかったと思います。先生がおっしゃるように、一年ぐらいのんびりしてもバチは当たらないんじゃないかと、ようやくそんなふうに思えてきて。近々、女房と行ってきます、四万温泉。先生も是非そのうち、いらしてください。」

 

***

 

 「父の姉が手作りで作った箱を、父は形見としてずっと大事にしていて、ところが先日調子の悪い日に、ハサミで切り刻むようにこれでもかっていうぐらい傷つけて、『誰の目にもつかないように捨ててしまえ』って。もちろん捨てずに隠しておきました。翌日はもうそのことを覚えていなくて、『姉さんの箱、どこにいっちゃったかな』って、心配そうに探し回ってるんです。」

 

 「券をもらったので、『サン・オブ・ゴッド』を見に行きました。その御受難の場面が、もちろんイエス様は罪なくして十字架にかかられて、私たちは罪あるものだから十字架にかかって当然なのだけど、それはちょっと置いて私には、ひとりで老いて、だんだん何も分からなくなっていく父が、何だか画面の中でイエス様と重なってしまって・・・」

 

***

 

 「役者のE蔵さんがお正月のTVに出ていました。若い頃、そういうつもりではなく子どもができてしまって、認知はしないって。それがどうこうっていうんじゃないんです。ただ、番組では今のE蔵さんの、御家族との幸せな様子が映されていました。それを見たら、認知してもらえなかった子どもさんはどんな気持ちがするだろうかって。認知しないのは理由があるんんだろうし、自分が幸せになるのはかまわない、だけど、こういう形でつらい思いをさせることって・・・いけないんじゃないでしょうか。私、間違ってるでしょうか、私が、裁いてるんでしょうか。先生、どう思われますか?」

 

***

 

 「ゆるす、っていうのは、ゆるめることでもあるんだね、あなたの話を聞いていてそう思いました。だから・・・だからあなたも、あなた自身をゆるめてあげてくださいね、あまり厳しく縛りあげないで」

 

***

 

 「私にもたぶん隙があって、ストーカーめいた人を引き寄せちゃってるっていうか、相手の出してる危険な信号をキャッチできてないところがあると思うんです。それはさておき、こういう相手には共通の特徴があるって気がついたのね。」

 「どんな?」

 「私って、何にもないじゃないですか。崩壊家庭に育って、学歴ナシ、入院歴アリ、前科まではないけれど、履歴ボロボロで何にもなしの35歳ですよね。でもそういう私が、何ももっていないのに幸せそうなのが、ゆるせないらしいんです。相手はいつだって私よりたくさんもっていて、そのくせ全然しあわせそうじゃないんだ。」

 

***

 

 他にもいろいろあるが、さすがに書けない。

 すべて今日の一日に、都内某所の小部屋で語られたことだ。精神科の外来診察室、そういう名前になっている。

 皆が元気でいますように。

 

 


高齢者の運転免許

2015-01-16 07:31:58 | 日記

2015年1月16日(金)

 朝刊社会面が、高齢者の運転免許返納について論じている。

 高速道路の逆走などは過半が認知症をもつ高齢者の絡んだもので、悲惨な事故が多発している。本人のためにも皆のためにも高齢者の運転免許返納を推進する必要があり、自治体はいろいろと手を尽くしているがなかなか進まない、あらましそういった趣旨である。

 

 これをすんなり読み流す人と、「ん?」と引っかかる人と、読者は概ね二つに分かれるはずだ。前者は都会に住む人、後者は田舎に住んでいるか、田舎の実情を知る人である。公共交通の発達した都会に住む限り、記事の主張に何の不思議もない。いっぽう、田舎 ~ 埼玉や滋賀の住人が東京・京都を意識して自己卑下する謂のイナカではなく、ほんとにほんとの田舎の実情を知る人なら「ちょっと待てよ」と思うだろうし、現にそこに住む人々は言下に「冗談じゃない」と反応するだろう。

 両親は、この二つの極端を往復する生活を長らく続けている。12月から3月までの東京滞在中、父がハンドルを握ることはないし、その必要もない。いっぽう4月から11月の愛媛の生活では、逆に車に乗らない日はほとんどない。車に乗らなければ、大げさでなく牛乳一本買うことができないからだ。若い者なら自転車を使うだろうけれど、後期高齢者に自転車で坂道を上り下りしろというのは、酷というより不可能である。

 そのように生活する高齢者が、全国の田舎に多数存在する。多数が実際にどれほどか、数字に弱い僕は挙げることができないが、数万であれ何であれ無視できない数であるはずだ。そして超高齢社会、しかも過剰な都市化と田園荒廃の時代、数字以上の意味があることを主張したい。

 この人々にとって運転免許を返納することは、その日をもって自立生活を断念することを意味する。それを知っての返納論議なのか、ポイントは要するにそこだ。利便性の問題ではない、必須の生活インフラの問題である。

 

 たとえばの話、免許を返納させる代わり、便利な場所へ移ることを援助する準備があるのか?住み慣れた場所を離れて、便利な都会に終の住処を求めることを、高齢者が受け入れるとしての話だけれど、仮に受け入れるとしても行政にそんな準備も予算もあるはずがない。両親の住む家の前の、幅10mほどの河川敷、その草刈りや掃除は事実上、住民の義務とされている。毎年八月の炎天下に、腰の曲がった高齢住民が汗水垂らして草を刈っている。知ってか知らずか(知らないはずがないが)そんな姿を放置するのが、四国最大の都市・松山市の現状だもの。

 田舎を支えているのは高齢者だ。「免許返納」はその層を直撃する話なんだから、これは二つの質問に応える責任をもっている。

 ① 高齢者が自立を奪われてもいいのか。

 ② 絶滅寸前の日本の田舎にトドメを刺していいのか。

 この二つだ。

 

***

 

 何もしなくていいとは言わない。だが、一定年齢以上のものに一律に返納を迫るだけでは、より大きな害を招くだけだ。

 認知症のチェックを綿密に行い該当者に対して丁重に働きかけること、居住地域の事情に応じて柔軟に対処すること、高速道路に関してのみハードルを高くすることなど、工夫はいろいろ可能であり必要でもある。

 


大なるかな、愚の連鎖

2015-01-15 09:40:32 | 日記

2015年1月15日(木)

 14日、シャルリー・エブドが12人殺害テロ後の初の版を特別号として発売。売り切れが続出し、500万部に増刷すると朝刊一面。紙面には性懲りもなく、ムハンマドが「私はシャルリー」(反テロの合い言葉)と書いたプラカードを胸にかけて涙する絵や、イスラムの女性の衣装に対する侮蔑的な戯画が掲載されているんだそうだ。

 「購入することが、反テロへの意思表示になる」という、読者女性の言葉も紹介されている。

 

 何でかな、何でそうなるかな。

 

 イスラム教徒は極端に偶像を嫌う。戯画という手法の俎上に彼らの聖者を乗せること自体、きわめて危険な挑発なのだ。自分と異なる文化に属するものが大切にするものを、理解できなくとも尊重することのかけがえのない重要性を、たいへんな犠牲を払った末に学んだヨーロッパではなかったのか。

 テロが正しいなどと言うのではない。断じてそうは考えない。ただ、テロのきっかけになった、シャルリー・エブドの日頃の路線が正しいかといえば、これまたはっきり non なのだ。表現内容を法的に規制することは、別の大きな悪につながる故に認められないのだけれども、規制を無用にする自制が存在しないのなら、「自由」は「横暴」の別名でしかない。

 

 留学時代、「豆腐」という食品の何が気に入らないのか、若い白人の女性テクニシャンが口を極めて罵り始めたことがあった。その横で中国人技官が麻婆豆腐用のものを電子レンジにかけ、美味しそうに食べている。何を言われようがせせら笑ってあしらえる彼女よりも、見ているこちらがおさまらなくなった。

 「人々の愛する食品について悪口を言うことは、その人々の敵意を煽り立てる最も容易な方法なのだよ」

 僕にしては珍しく冷静に忠告できたのは、外国語の効用だったかもしれない。日本語の通じる相手だったら、「ざけんなバカヤロー」とか言っちゃっただろうから。

 

 「食品」のところを、「聖者」なり「習俗」なりに置き換えて、シャルリー・エブドと読者らにプレゼントしたい。次に起きる事件(起きないはずがない)については、あなたがたにも責任の一半がある。


北斗七星

2015-01-15 08:07:06 | 日記

2015年1月14日(水)

 会議日で出勤、夜はT君の音頭取りで、大学時代の友人七人が会食。赤坂見附の駅前は込み入ってわかりにくい。所番地を見ながらビルの看板を見あげていると、「どちらをお探しですか?」と声がかかった。目の前に、明らかに客引きと分かる中年男性が立っている。落ち着いた声、正しい言葉遣いがただの客引き離れした感じ。こちらはいくぶんの警戒を解かないが、相手は「何という店でしょう?」とあくまで礼儀正しい。

 「阿吽、と言いましたかね」

 「1階の阿吽?それとも」

 「5階のようです」

 「それは、阿吽亭のほうですね」

 用意の地図を見直せば、確かに「亭」の字が付いている。あわてずそれを確かめさせて、

 「それでしたら、この建物を通り抜けて左を見ると、一階にコンビニの入ったオレンジのビルがあります。その5階です。」

 最後まで笑顔を絶やさず、言葉あくまで丁重かつ明晰、完璧な誘導だ。配慮とはこういうものだと、例のスタッフらに聞かせてやりたい、

 「ご親切に、どうもありがとう。」

 こちらも相手の目を見て、心からの礼を言う。寒空に一瞬の心の暖。彼にとっては一文の得にもならない。そういう場面で贈られる一期一会の親切は、何と貴いものだろう。

 東京五輪のコンパニオン・リーダーに推薦したいようだ。

 

***

 

 集まった七人は、官公庁が四人に新聞社、弁護士、そして僕。官公庁と乱暴に括ったが中身はもちろん多彩である。ただ、概して海外訪問の機会の多いのが羨ましい。この年齢になって集まるには良さがあり、これから出世しようとする年代の殺気めいたものがきれいに払拭されて、正味懐かしく体験談や消息を交換できる。

 ポルトガルという土地が日本人にはすぐれて好ましい旅先であること、鰯の塩焼きと演歌を思わせるファドの旋律、西安(長安)の街でイスラムの歌を聴くことなど、話題のもちよりパーティーみたいだ。

 学生寮の住人であったI君が、渋谷の寿司屋で受けた親切を語るのを聞いて、僕はザルツブルグのホテル『モーツァルト』のオーナーの、同様の温情を思い出す。「医者になったら、ワイフを連れてまた来い」と注文つけられているのだった。すると今度はI君、バルセロナのピカソ美術館で入館料が足りないのを、受け付けが黙って通してくれた云々と。

 連想が連想を呼び、2時間半ほどがあっという間に過ぎた。

 

***

 

 赤坂見附の駅前に戻り、地図を眺めているうちに皆とはぐれてしまった。さほど寒くもない路上を溜池山王まで歩いてみる。平地を迂回せずに丘を登るコースを取ると、三男の通っている高校の前を通ることになる。

 この界隈の夜の坂道なんか歩いてると、小泉八雲記すところのムジナなんぞが出るのではないかと、柄にもなく怖気が沸いてくる。紀尾井坂あたりが舞台・・・ではなかったっけ?

 北の空に七つ星。アラビアあたりでは、「棺桶とそれを引く三人の泣き女」をそこに見たのだそうだ。

 参議院会館ビルの発する白い明かり、それを浴びて立つ警官らが、心強いような、かえって怖いような・・・

 


成人の日 / 存命の喜び(徒然草93段)

2015-01-13 09:58:41 | 日記

2015年1月12日(月)

 今日は成人の日、だけどこれは15日に固定したほうがいい。

 お正月の松が取れるのにあわせ、新成人が華やかに集う。「門出」の語呂もよく、ここでいよいよ日常復帰、1月前半ぐらいはゆっくり休んだらいいのだ。ついでにこの日がお年玉年賀葉書の抽選、ついでについでにラグビーの日本選手権。

 うまく流れていたと思う。月曜日にくっつけるのは勤労者への厚労省的配慮なんだろうが、大学などは「一学期15回の授業を確実に実施せよ」との文科省的要求のために、実際には月曜出勤が必要になる。そもそも日本の勤労者の休暇に関しては、決められた休日は国際水準でも多い方なのに、自主的に取得する休暇が少ないことが問題なのである。ハッピー・マンデーはその解決になっていない。

 母の思い出に、1月15日は必ずヱビスさまにお参りしたとある。ネットをチラ見すると、なるほど1月10日や15日をヱビスさんに関連づけるところが多いようだが、根拠はよくわからない。

 ヱビスさんは七福神中唯一の国産である。他の六福神は皆、ヘイトスピーチの対象になり得るのだね。お気の毒さま。

 ***

 何はともあれ、ゼミと修論審査を終えて今日は僕も休み。夜は父の米寿を祝う。カードに母の書いた言葉に注目。

 「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」

 出典は『徒然草』、二十代で読んで以来、ずっと記憶にあるのだという。僕も愛読しているつもりで、原文脈が思い浮かばない。さっそく第1段からサーチして、「あった!」と声をあげたのは第93段。

 読み直せば実に深く、死生学の要諦に通じている。若い日にこれに感じて心に止め、満90歳を超えてなお銘記している母にも脱帽。

 インターネットの便利に頼り、原文と現代語訳をあわせ転記しておく。吾妻利秋氏の訳風に好き嫌いはあるだろうが、兼好の狙うところを軽妙に補足して分かりやすいのは間違いない。

http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AE%B5

 

【原文】

 「牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。

 これを聞きて、かたへなる者の云はく、「牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵝毛よりも軽し。万金を得て一銭を失はん 人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は、牛の主に限るべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は。牛の主に限るべからず」と言ふ。

 また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。行ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざる は、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲る。

 

【現代語訳】

 「牛を売る人がいた。牛を買おうとした人が、明日代金を払って引き取ります、と言った。牛はその夜、未明に息を引き取った。牛を買おうとした人はラッキーで、牛を売ろうとした人は残念だった」と誰かが話した。

 近くで聞いていた人が「牛のオーナーは、一見、損をしたように思えるが、実は大きな利益を得ている。何故なら、命ある者は、死を実感できない点において、この牛と同じだ。人間も同じである。思わぬ事で牛は死に、オーナーは生き残った。命が続く一日は、莫大な財産よりも貴重で、それに比べれば、牛の代金など、ガチョウの羽より軽い。莫大な財産と同等の命拾いをして、牛の代金を失っただけだから、損をしたなどとは言えない」と語った。 

 すると周りの一同は「そんな屁理屈は、牛の持ち主に限った事では無いだろう」と、軽蔑の笑みさえ浮かべた。

 その屁理屈さんは続けて「死を怖がるのなら、命を慈しめ。今、ここに命がある事を喜べば、毎日は薔薇色だろう。この喜びを知らない馬鹿者は、財や欲にまみれ、命の尊さを忘れて、危険を犯してまで金に溺れる。いつまで経っても満たされないだろう。生きている間に命の尊さを感じず、死の直前で怖がるのは、命を大切にしていない証拠である。人が皆、軽薄に生きているのは、死を恐れていないからだ。死を恐れていないのではなく、死が刻々と近づく事を忘れていると言っても過言ではない。もし、生死の事など、どうでも良い人がいたら、その人は悟りを開いたと言えるだろう」と、まことしやかに論ずれば、人々は、より一層馬鹿にして笑った。

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