2015年1月15日(木)
14日、シャルリー・エブドが12人殺害テロ後の初の版を特別号として発売。売り切れが続出し、500万部に増刷すると朝刊一面。紙面には性懲りもなく、ムハンマドが「私はシャルリー」(反テロの合い言葉)と書いたプラカードを胸にかけて涙する絵や、イスラムの女性の衣装に対する侮蔑的な戯画が掲載されているんだそうだ。
「購入することが、反テロへの意思表示になる」という、読者女性の言葉も紹介されている。
何でかな、何でそうなるかな。
イスラム教徒は極端に偶像を嫌う。戯画という手法の俎上に彼らの聖者を乗せること自体、きわめて危険な挑発なのだ。自分と異なる文化に属するものが大切にするものを、理解できなくとも尊重することのかけがえのない重要性を、たいへんな犠牲を払った末に学んだヨーロッパではなかったのか。
テロが正しいなどと言うのではない。断じてそうは考えない。ただ、テロのきっかけになった、シャルリー・エブドの日頃の路線が正しいかといえば、これまたはっきり non なのだ。表現内容を法的に規制することは、別の大きな悪につながる故に認められないのだけれども、規制を無用にする自制が存在しないのなら、「自由」は「横暴」の別名でしかない。
留学時代、「豆腐」という食品の何が気に入らないのか、若い白人の女性テクニシャンが口を極めて罵り始めたことがあった。その横で中国人技官が麻婆豆腐用のものを電子レンジにかけ、美味しそうに食べている。何を言われようがせせら笑ってあしらえる彼女よりも、見ているこちらがおさまらなくなった。
「人々の愛する食品について悪口を言うことは、その人々の敵意を煽り立てる最も容易な方法なのだよ」
僕にしては珍しく冷静に忠告できたのは、外国語の効用だったかもしれない。日本語の通じる相手だったら、「ざけんなバカヤロー」とか言っちゃっただろうから。
「食品」のところを、「聖者」なり「習俗」なりに置き換えて、シャルリー・エブドと読者らにプレゼントしたい。次に起きる事件(起きないはずがない)については、あなたがたにも責任の一半がある。